父と娘の終着点
室内は嵐が過ぎ去ったようだった。
椅子は砕け、机はへし折れ、壁も天井もボロボロだ。コンソールやモニターはどれもが破損して火花を散らし、照明はたよりなく明滅を繰り返す。レポートや何かの端末がそこかしこに散乱している。
無事なものは、一つもない。
荒れた部屋に二人の人間がいた。
一人は夜兎。もう一人は、壁にもたれかかるように座り込んだ、白衣を着た老人だ。
二十年の時が経ち、記憶の中の姿よりも大分老け込んでいるが、見間違えようがないほど面影がある。
「才羽、海音……? どうして……?」
振り向いた夜兎が目を丸くする。私はそれを無視する形になった。
彼から目を離すことができなかったのだ。
「ああ……。そこに、いるのか」
老人は血を絞るようにしわがれた声を吐く。
彼の体はボロボロだ。腹に巻かれた包帯には血が染み出し、瞳は黄色く濁っている。
焦点は合っていない。もう、目が見えていないのだろう。
「夜兎。そこにいるのは、海音だな」
「はい、お父様。あれは……。確かに、海音お姉さまです」
「お前に父と呼ばれる筋合いは――まあいい。海音。こっちへ」
死にかけの老人とは思えないほど重々しい声だった。促されるままに、私は足を進めた。
「海音……。目覚めたのか。声を聴かせてくれ」
「……父さん」
「おお……。ずっと、ずっと、この日を待ちわびていた……」
しわがれた手が私の頬に触れる。枯れ枝のように荒れた細い指。その指が、共に過ごせなかった歳月を嫌というほどつきつける。
だけどそれを埋め合わせることはもうできない。
父が負った傷は、どう見ても致命傷だ。
「夜兎、手を貸して。コールドマンまで運ぶよ」
「ダメ、動かさないで。今生きてるのが不思議なくらい。動かしたら耐えられない」
「でも……!」
「ごめん……。もう、間に合わないから」
夜兎の側には複数の注射器や包帯が転がっていた。
きっと彼女は手を尽くしたのだろう。その結果がこれならば諦めるのが妥当だ。LIEはそう判断し、感情はそれで納得しなかった。
「いい、どうせ死にゆく命だ。最後に娘と話す時間ができただけ感謝している。夜兎、世話になったな」
「喋らないで、お父様。口を動かすだけでも辛いはず」
「馬鹿を言え。才羽数人の死に様だ、遺さねばならぬことが山とある」
歯を食いしばる。この一分一秒が貴重な時間だということを自覚する。
胸の内に荒れ狂うものがある。だけど、今は感情に身を任せるわけにはいかない。
「父さん」
意識して気を鎮めるとLIEが動き出す。感情が抑制され、心のさざなみは凪いでいく。
肉親が死に瀕しているというのに、眉一つ動かさない冷たい私が姿を表した。
「アルファ血清のことは知ってる。プロジェクト"D"のことも。でも、まだわからないことがある。それを教えてほしい」
「ほう……。話が早いな。何が聞きたい」
「私のこと。私に何があったんだ。私は、どうしてこの時代で目を覚ましたんだ」
「言えんな」
父は迷わず答えた。
「お前は知らんでいいことだ」
「ふざけないで。私はそれを聞きに来た」
「知らんでいい。お前は今生きている。それが全てだ」
「……ああ、そう」
感情が波立つことはない。駆動したLIEは、彼の言葉を解釈した。
私は今生きている。今は、生きている。深読みなのかもしれないけれど、ずっと考えていた可能性があった。
「私は一度、死んだんだね」
「なぜそう思う」
「二十年という時間が経ったのに、私の体は何も変わらない。この矛盾の答えはそう多くはないでしょ。タイムスリップか冷凍睡眠のどっちかなら説明がつくけど、二十年前にそんな技術はない。となると、答えはもうそれしかない」
「……ふむ。続けてみろ」
「私は二十年前に死んだんだ。父さんは私の死体を保存し、二十年の時を経て蘇らせようとした。そのために使ったのがXG-029であり、アルファ血清。違う?」
父の口元は、わずかに微笑んだように見えた。
「XG-029についての研究資料はちゃんと読んだのか。あれに死体を蘇らせるだけの力はない」
「外部からの指令があれば話は違うんでしょ。何かが命令を出せば、XG-029は生き返るために力を貸してくれる」
「ならばその指令を下した外部とはなんだ」
「決まってる。LIEだ」
LIEは最初から同じ目的を指し示していた。私の生存という、ただそれだけを。それ以外の何を犠牲にしようとも。
どうしてこんなものが私の頭に入っているのか疑問に思っていた。だけどこれは生きるために必要なものだったのだ。私の体内のXG-029に、生きるという指令を下すために。
二十年前に私は死んだ。その死体は長い間冷凍保存でもされていたのだろう。最近になって父は私の体を解凍し、XG-029に感染させ、アルファ血清を使ってゾンビ化を防いだ。そして脳内に埋め込まれたLIEが、私の体内のXG-029に蘇生指令を出して体を蘇らせた。
そう考えると多くの辻褄は合う。だが――。
「一つ、致命的な誤りがある。ウイルスの感染手段を模倣したXG-029は、生きた細胞にしか寄生しない。お前が二十年前に死んだのならば、XG-029に感染できるはずがないだろう」
「そう、そこが気になっていた。だけど成長が止まっていた以上私は本当に死んでいたはずだ。そうじゃなかったなら……。やっぱり、タイムスリップか冷凍睡眠?」
「そんなものはない。思考を止めるな、すべての可能性を考慮しろ。お前にはそれだけの力があるはずだ」
言われなくてもそうする。私は知りたい。自分に何が起きたのかを。
XG-029は指令を下すことで死者を蘇らせることができる。しかし、それは死体が既に感染している場合だ。XG-029が発見されたのはごく最近、私が死んだ二十年前のことではない。
私が二十年前に死んだというのが誤りだったのだろうか。いや、二十年間の成長が止まっているという理由が、それ以外に説明がつかない。
ならばXG-029ではなく他の手段で蘇生した? それも考えづらい。XG-029にアルファ血清、LIEといった要素は、間違いなく私の蘇生を指し示している。
どう考えても矛盾が生じる。となると……。
「才羽博士。この子、何も知らないところからここまで頑張ったのよ。そんなに意地悪することないんじゃないかしら」
「その声、如月研究員か。ふふ……。よもや君が生きていたとはな」
「憎まれっ子ほど世にはばかるの。よかったわね、あなたは私より良い人だったみたいよ」
「抜かせ。口出しは無用だ、君はしばらく静かにしていろ」
「うふふふ。そうね、見ているだけで十分面白いわ」
……待て。
何かが引っかかった。魔女と父のやり取りの中で、何かが。
「父さん。今、この人のこと如月研究員って呼んだよね」
「ああ。それがどうした?」
「下の名前は真白で間違いない?」
「そうだ。如月真白はXG-029の専任研究員にして、私の部下だ」
この女が如月真白だということはこれで確定した。となると、嘘をついていたのはあの子の方だったということになる。
だけど……。もしもあの子が本当に如月真白だったとするのなら。
大きさが異なる二人の如月真白が、同時に存在していたとするのなら。一つ、突拍子もない可能性が湧いてくる。
「もしかしてだけど――」
XG-029は本来、遺伝子研究の一環としての位置づけだった。
遺伝子組み換えやゲノム編集なんかに応用するための研究だと考えていたが、それ以外にも使用用途があるとしたら。
冷凍保存でもタイムスリップでもない、遺伝子に関わる未来技術を実用化するためだったとしたら。
「人間のクローンって、もうできるようになった?」
父は、満足そうに頷いた。
「六年前にな」




