『XG-029を用いた多次元空間適応遺伝子開発計画書』
夜兎と真白は猫の命名権を争って喧嘩を始めた。
「勝手にやってろ……」
心の底からどうでもよかった。女子供には好きにさせておいて、私は私で室内の物色を続けていた。
この部屋には実験記録がたっぷり詰まったコンソールが山ほどある。
XG-029絡みの情報の宝庫と言い換えていい。私は嬉々としてそれらを漁っていた。
「真白ー。この端末ロックかかってた。解除お願い」
「海音さんも、まろんの方がいいと思いますよね? やっぱり可愛い名前つけてあげたいですよね!?」
「うんうんそうだね。解除してね」
ロックが解除されたコンソールにはこれでもかとデータが詰まっていた。
使途不明のツールだとか、読み方がわからないデータファイルだとか、書きかけのプログラムだとか、そもそも何なのか見当もつかないものだとか。そういった簡単には触れそうにないものはすっぱりと諦め、他人が読むために書かれた報告書を探し求める。
だが、残念ながらどこにあるのか検討もつかない。
「んー……。どこにあるんだろ」
「小娘。何探してるんだ」
「研究成果の報告書。何か手がかりがないかなって」
真白の魔手を逃れてきたギルガメッシュが私の左肩に飛び乗る。猫一匹分の重量と体温。ぴんと伸びたひげが頬をくすぐった。
「その手のファイルをローカル保存はありえんだろ。サーバー上にあげられているはずだ。ネットワークを開け」
「詳しいね」
「どこも似たようなもんだからな。そのMAIN-SERVER-2ってやつ。それが怪しい」
「MAIN-SERVERじゃなくて、2がついてる方でいいの?」
「こんな適当な名前をつけるような奴らは、管理もずさんだと相場が決まってる。どうせ、新しいサーバーにぽんぽん放り込んでるんだろ」
ギルガメッシュのサポートを受けながらサーバー内を探し回る。彼にとっては手慣れたものらしく、ものの数分でお目当てのフォルダが見つかった。
「お手柄」
「ふん。他社の機密を無遠慮に踏み荒らすのは気分がいい」
「ハッカーの仕事でもしてたの?」
「そんなわけないだろ。ただのエンジニアだ」
フォルダにはXG-029絡みのファイルがあったが、それでも数が多い。十数件もあるレポートを一つ一つ確認していくのは骨が折れた。
「ねえギルガメッシュ」
「新一だ」
「このファイル全部の中から、特定の文字列をまとめて検索できたりしない?」
「grepも知らんのか。貸せ」
貸してみた。ギルガメッシュ氏はコンソールを猫ハンドで叩こうとした。ふっくらとした肉球が複数のキーを同時に叩き、思ったような入力はできなかった。
「それ、人間用だよ」
「……わかってる。才羽、俺の言う通りに操作しろ」
「はいはい」
彼の指示通りに端末を操作すると検索窓が開いた。なるほど、ここに検索したい文字列を入力すればいいらしい。便利なものだ。
「何を調べるんだ?」
調べたい文字列は決まっている。
『才羽海音』だ。
ヒット数、一件。ファイル名、『XG-029を用いた多次元空間適応遺伝子開発計画書』。
執筆責任者――才羽数人上級研究員。
「くそったれ」
ファイルを開く。ろくでもないことが書かれているのは、読む前からわかりきっていた。
"『XG-029を用いた多次元空間適応遺伝子開発計画書』
概要:
当計画は、多次元空間の多様かつ流動的な環境下で長時間の行動に耐えうる遺伝子の開発を目的とする。当計画はプロジェクト"D"の一環に位置するものであり、その重要性はプロジェクト"D"に追随するものとなる。
当計画の骨子はXG-029がもたらす遺伝子構造の柔軟性にある。XG-029の特性を用いていかなる環境にも適応可能な遺伝子を作り出せば、多次元空間の壊滅的な環境にも耐える可能性がある。これを、『多次元空間における遺伝子適応仮説』とする。
(追記)通常の血清を利用した変異では多次元空間での活動は不可能であることが実証された。以降の実験では、各種生物の遺伝子情報を配合した調合血清の使用を許可する。諸君らの大好きなとにかく混ぜろの時間だ。好きなようにやれ。"
このレポートには分厚い実験記録がついていた。
膨大な数の試行錯誤の記録。実験毎にやっていることは微妙に変わるが、「XG-029に感染した実験体にいろんな生き物の血清を打ち込んで、その後『多次元空間』なる場所に放り込んでどれだけ生き残るかを観察する」というのが大筋の流れだ。
動物のみならず、植物や昆虫の遺伝子情報を含んだ血清(それは血清と言うのだろうか)を使用したが、結果は芳しくない。
それを確認した研究チームは、複数の遺伝子情報の配合、つまりは血清のブレンドを試し始めたようだ。
「ブレンドコーヒーじゃねえんだぞ」
ギルガメッシュがそう言いたくなる気持ちもわかる。
実験記録を流し見する限り、あまりにも成果が出せない研究者たちは、途中から明らかにヤケになっていた。まるでファミレスのドリンクバーのように、色んな血清をぽんぽん混ぜまくっていたのだ。
そんな彼らの無軌道な実験は、やがて偶然の発見により進展を見せる。
八十二種類の遺伝子情報と二種類のXGオブジェクト(文面から察するに、XGオブジェクトとは遺伝子と同等の何からしい)を混ぜることで作り出されたSer-3397血清。それを投与された実験体は、多次元空間にて二百五十時間の生存が確認された。
以降の実験はSer-3397血清の改良にシフトし、試行錯誤の末に完成したそれは、アルファ血清と名付けられた。
最終試験にも合格し、アルファ血清はいよいよ実用の認可を待つ段階に入る。
それで実験は完了のはずだが、最後にもう一つ実験記録が残されていた。
日付は三日前。つい三日前に、書かれた記録だ。
"被検体番号:Cf1-001
性別:女 年齢:17 XG-029感染率:87%
使用薬品:アルファ血清
結果:
本来ならば実験結果を記載する場ではあるが、この場を借りて謝辞を残そうと思う。
『多次元空間における遺伝子適応仮説』。今思えばこんな穴だらけの仮説もないだろう。XG-029による変異のメカニズムは想像もよらないほどに苛烈で、多くの謎が解き明かされたこの世界に与えられた、最大最終の未知だった。
決して楽な道ではないことは誰もがわかっていた。それでも諸君らはこの研究に興味を示し、手探りながらも懸命に進み続け、仮説の穴を一つ一つ丁寧に埋めてくれた。諸君らの血がにじむような試行錯誤と執念に、心からの敬意を表したい。
この研究の締めくくりに、私の娘を使おうなどと言い出したのは誰だったか。あの時はただの世迷い言と聞き流していたが、今こうして彼女に血清を打つと心が動く。諸君らは私のことを冷酷な人間だと思っているようだが、これでも私は人の親である。
私は今、研究者であるという立場を忘れ、一人の親として娘に血清を投与した。恥ずべき行為であり、研究成果の私物化に他ならないが、なんとも誇らしい気持ちだ。
この行為が露見した暁には私は職を追われるだろう。それでも構わない。二十年、いや、それよりももっと長い間、私は娘との対話を怠ってきた。離職後は存分にその埋め合わせをするつもりだ。
きっと嫌われていることだろう。二十年前の罵倒語のレパートリーを披露されるのが今から楽しみで仕方ない。諸君らにも老人の愚痴に付き合ってもらうので、そのつもりでいるように。
私が言うべき言葉ではないが、娘は実験に多大なる貢献をしてくれた。最初で最後になるかもしれないアルファ血清の被検体に選ぶのも、あながち感傷だけではないのかもしれない。
私はプロジェクト"D"、あるいは世界の終焉を見届けることは叶わないが、諸君らの奮戦があれば、この忌まわしきプロジェクトに終止符を打てると確信している。
ともすれば、その役割は娘が担うのかもしれない。アルファ血清に加え、LIEを埋め込んだ彼女はまさしく生体工学の集大成とも言える存在だ。確かに素質はあるだろう。
説得は諸君らでやりたまえ。無論、状況説明くらいは私の方からしておくつもりだ。
それでは。我が最愛の娘、才羽海音を、よろしく頼む。
――才羽数人"
「お前、これって……」
ギルガメッシュのつぶやきは黙殺した。
もう一度、最後の実験記録を読み直す。上から下まで、丁寧に。一文字たりとも読みこぼすことのないように。
私の頭に埋め込まれたLIEはしっかりと機能した。これを読んでなお、私の心は動かない。
動かなかった、はずだ。それなのに。
「……クソ親父」
なんでそんなことをつぶやいたのか、自分でもよくわからなかった。
一度、わかったことを整理しよう。
三日前、私は父の手によりアルファ血清を打たれた。そうして私は目が覚めた。
私のXG-029感染率が異常に高い理由はこれだ。感染率が高いのに、ゾンビ化しない理由も。血清の力で遺伝子変異の方向性を指し示してやれば、XG-029は人体に無軌道な変異を強いることはない。
そしてもう一つ、プロジェクト"D"。
私はそれに終止符を打つ素質があるらしい。
「逃げられない、か」
プロジェクト"D"。どうやら知らなければならないようだ。
私は何かを期待されている。それが何かはわからないが、自分に関係があるものならば目をそらすわけにはいかない。
私の体はどうなったのか、この世界に一体何が起きたのか。目が覚めてから何度となく頭をよぎった疑問だ。
その答えがプロジェクト"D"にあるのなら、私は。
「才羽。お前、大丈夫か」
「うん……。まあ、別に。ちょっと考えてるだけ」
「なんかよくわからんが、お前も俺と同じ変異体ってことだよな。これって」
「そう言えなくもないかもね」
「大丈夫だ。お前はちゃんと人間に見える。俺よりはずっとな」
「お気遣いどうも」
外見はそうかもしれない。だけど、中身はどうだろう。
私とこの黒猫の、どちらがより人間らしいだろう。
わからない。もうわからないことだらけだ。私にはもう、自分が何者なのかもわからない。
心と身体の両方をいじられて、まるで別物の何かに作り変えられて、才羽海音はどういうモノに成り果てた。
私は一体、何なんだ。
少しでも確かな情報がほしくて、もう一度実験記録を読み直す。すると、見落としてしまっていた些細な情報を見つけた。
気にしなくてもいいくらいどうでもいいことだけど、情報は情報だ。あくまでも思考の整理として頭にとどめておこう。
才羽数人は。
血縁上の私の父は、あれでもちゃんと、私を愛していたらしい。