熱のない殺意
如月真白にLIEのことは教えなかった。
警戒されると殺す時に不都合だからだ。
夜兎に警戒されてしまっているのは痛手だが、今のところ進んで彼女を殺す理由もない。夜兎には利用価値がある。まだまだ役に立ってもらおう。
少なくとも、この施設から脱出するまでは。
「ねえ夜兎。父さんがどこにいるかって心当たりある?」
「え……と。研究室にいないなら、下の方、かも」
「下の方?」
「生体モジュール研究開発に使われてるのは基本的に上層だけで、下層は何か別のことに使ってるらしいから。その、そういう意味」
「そうなんだ。他には?」
「え……。他にはって……?」
「他に何か知ってることはないかなって」
さっきから妙に夜兎がよそよそしい。一体どうしたのだろうか。
安心してほしくて笑みを向けてみた。彼女は体を震わせた。
「知らない。本当に、何も知らない。私が出入りできたのは上層だけで、下層は特別な権限が必要だったから……。だから何も知らないの。嘘、言ってない。本当に、嘘じゃない、です……」
「そうなんだ、ありがとう。助かったよ」
「お姉ちゃん、怖い……」
怖がられてしまった。なんでだ。
別になんと思ってくれても構わないが、円滑なコミュニケーションができないのは困ってしまう。夜兎と良好な関係性を築くのは有益だというのに。
ふむ、上手く行かないものだな。このままだと夜兎と敵対してしまうかもしれない。
真白は銃で撃てば簡単に殺せるが、この戦闘用バイオロイドはそうもいかないだろう。どうにかして夜兎を殺す方法も考えなくては。
「海音さん。怖がられてますけど、一体何したんですか」
「何もしてないよ。仲良し。だよね、夜兎」
「…………はい」
「めちゃくちゃ怯えてるじゃないですか。かわいそうですよ、やめてあげてください」
「本当に何もしてないんだけどなあ」
そんなに怖がることだろうか。私に感情があろうとなかろうと、何の問題もないと思うのだけど。
夜兎を先頭に広大な施設をさまよい歩き、やがて私たちは雰囲気の違う場所に行き着いた。
廊下の突き当りにあったしその区画はこれまでの通路よりも内装がしっかりとしている。床はステンレスの板張りで、壁は白くつるりとした隔壁めいた材質。そして正面には、分厚く頑丈なシャッター・ドアがあった。
ドアの上部にはセキュリティカメラが取り付けられていて、側には顔認証用のユニットが取り付けられている。
残念ながら、これらのセキュリティには電気がちゃんと通っていた。
「ここから先が下層。だけどセキュリティをパスしないと通れない」
「ふむ。夜兎の権限じゃ無理なんだよね」
「はい……。ごめんなさい、お姉さま」
「どうしたのさっきから。怒らないってば」
――怒るなんて感情もないからね。
口に出さなかった言葉は正しく夜兎に伝わり、彼女は体を震わせた。
「どっかの死体からセキュリティカードを見つけてくるってのがお約束だけど」
「それは無理。ここの認証は虹彩認証と声紋認証の複合。カード一枚ではどうにもならない」
「よし真白。君の出番だ」
「とんでもない無茶振りしますね。まあ、やるだけやってみますけど」
苦笑しつつ、真白はセキュリティの前に出る。
あー、だとか、うなー、だとか。いろんな声で鳴きながら、カメラの前をぴょんぴょんと飛びはねることしばし。
するとなんということだろう。認証ユニットに緑のランプが灯り、頑丈なシェルターはがっしょんがっしょんと開け放たれた。
「あれ、なんか開いちゃったみたいです」
「…………」
「ラッキーでしたね。なんででしょう、壊れてたのかな? まあいいや、行きましょうか」
やはり、この如月真白という女……。
私と夜兎は顔を見合わせる。なんだかすれ違ってしまった私たちだが、この時ばかりは心を一つにしていた。
上層とはうってかわって、下層にはどことなく物々しい雰囲気が漂っていた。
ステンレスの床は歩くたびに硬質な音を響かせ、隔壁めいた壁は目に痛いほど白く塗られている。部屋の扉も、上層にあったものより遥かに頑丈なハッチ・ドアだ。
気密性と耐久力。非常時への備え。それらを重視した作りだということは一目で見て取れた。
このフロアはまだ電気が生きている。煌々と輝く文明の光は、無骨で物々しい廊下と、それを鮮やかに彩る血しぶきの赤を鮮烈に映し出していた。
「夜兎はここで何をしていたのかまでは知らないんだよね」
「うん……。でも、生物学的な内容だと思う。実験動物を運び込んでいるのを見たことがある」
「十中八九、XG-029絡みだろうな」
「同感、です」
施設の作りも上層とは大きく変わっていた。
上層はどちらかと言えば病院のようだったが、ここはアリの巣に近い。広い通路や狭い抜け道、強化ガラスが貼られた部屋。隔壁とバイオハザードマークが記されたハッチ・ドア。部屋の入り口に設置された消毒用スペース。
それらが渾然一体となって、巨大な生き物の体内に閉じ込められたかのような錯覚がある。
血臭に加えて獣臭。ゴムが焦げたような匂いに、正体不明の刺激臭。強い匂いではなくとも、混じり合うそれらの匂いは決して心地よいものではない。
「電気が生きてるのはいいね。暗いところで目を凝らすのにも疲れてたんだ」
「才羽海音、油断しないで。何がいるかわからない」
「何かって?」
「それは――」
瞬間、雷鳴が轟いた。
屋内に響き渡る轟音と閃光。反射的に私と夜兎は体を伏せる。真白だけがその場に立ち尽くしていた。
「――こういうの、とか」
「なるほど」
二度、三度と雷鳴が鳴り響く。廊下に反響する爆音は鼓膜を突き破らんばかりだ。
よろしくない。こんな大きな音を立てられてしまっては、施設中の死体どもが目覚めてしまう。
近くに危険因子はない。雷鳴は遠くから響いていた。それを確認して、私たちは体を起こした。
「今の、なんですか……?」
「如月真白。突発的な異常に直面した場合、とりあえず防御行動を取ったほうがいい。瞬間的な反射行動の有無は生存率に影響する」
「あ、はい、ありがとうございます。ちょっと……、その、びっくりしちゃって」
「夜兎」
――余計なこと言うな。
音を出さずに唇を動かすと、夜兎は鋭く息を呑んだ。
余計なアドバイスだ。どうせ真白は死ぬんだから、そんなこと教える必要はない。むしろ変な知恵をつけられると殺す時に不都合じゃないか。
「え、と……。お姉ちゃん……?」
「夜兎。何が起こったかわかる?」
「あ、うん。北北西74メートル地点から112デシベルの異音を確認した。危険度は不明。それで、その、さっきのって」
「ありがとう。夜兎がいてくれてよかったよ。本当に頼りになる妹だ」
「はい……。ごめん、なさい。夜兎は悪い子でした……」
「そんなこと言ってないじゃん。もう、本当にどうしたんだよ」
使えるな、こいつの妄執は。
姉だかなんだか知らないが、夜兎は私に嫌われるのを恐れている。嬉しい誤算だ。適当に家族ごっこにつきあってやれば、都合よく動かせるかもしれない。
そんなことをしている間にも、四度目の雷鳴が鳴り響いた。
「どうする、見に行ってみる?」
「危険じゃないかなって思いますけど」
「夜兎は……。お姉ちゃんに、ついていきます……」
「お姉ちゃんはみんなで相談がしたい。この中で一番戦える人間である、やーぴょんの意見を求めています」
「え、と……。ん、ん。見に行くのにはリスクが伴うけど、そもそも何が起きてるのかわからない。ある程度接近して探ってみるのも悪くないと思う。だけど、私たちの目的は才羽数人だということは忘れないで」
それもそうだ。この雷鳴の先に父がいるとは限らない。
だけど、そもそもどこにいるのかもわからないのだ。
あてのない探索を続けるか、確認しに行ってみるか。どちらでもいいと言えばどちらでもいい。
「とりあえず様子見に行ってみるか。もしかしたらこの音を止められるかもしれないし。危なそうだったらさっさと撤退する感じで。二人もそれでいい?」
あんまりビカビカゴロゴロとやられてしまうと、探索にも支障が出てしまう。
上手くいけば儲けものくらいの考えで見に行ってみることにした。