ゆるふわ終了のお知らせ
わかったことを順に整理しよう。
一。この施設では、XG-029というウイルス(のような何か)について調べていた。
二。XG-029に感染すると、遺伝子は簡単に変化するようになる。
三。血清を使えば遺伝子情報の変化を促すことができる。
ここまではいい。なんだか仰々しく書かれてはいたが、要は遺伝子組み換えやゲノム編集技術の延長線だ。
私が生きた時代でも、クローン技術なんかの研究は進んでいた。二十年後ともなればより進化した技術くらいはあるだろう。
XG-029研究の主目的は遺伝子改良にあったらしい。どうすればより実用的かつ発展的な遺伝子改良を施すかに腐心した形跡が、このレポートの大部分を占めていた。
しかし、私が知りたいのは遺伝子のいじり方ではない。
それよりももっとろくでもないことだ。
四。血清を使わなかった場合、XG-029感染者は無茶苦茶な遺伝子変化を遂げる。
この無茶苦茶な遺伝子変化について、実験記録に数例の経緯が記されていた。
変化は非常に緩慢だ。十数年の時間をかけてゆっくりと人体は変質し、体組織や臓器がいびつな形に歪められていく。
そして特筆すべきは、この変化の初期段階について。
七から十年の時間を要するこの期間では、目に見える人体組織の変化はまだ起こらない。しかし細胞レベルでの変化は着実に進行していき、感染者は様々な原因不明の不調に悩まされることになる。
この期間での代表的な症状は頭痛と神経過敏。
症状の進行に伴って誰かに当たり散らすようなケースも見られ、人体が変質する段階まで進むと狂騒状態に陥るという。
「あー……。これって、そういうことなのかな……」
聞いたことのある症状だ。真白が言うには、この数年で社会は暴力的に変化していったらしい。
もしもそれがXG-029の症状によるものだとしたら。辻褄が合うのではないか。
それに、もう一つ決定的な情報がある。
五。XG-029は既存のウイルスの感染手段を模倣し、吸収する。
当初のXG-029の感染力は極めて限定的なものだったようだ。しかし研究を続ける中で性質が変化し、ついにはアウトブレイクの可能性が示唆された。
このレポートにそれ以上のことは記されていなかったが、おそらくXG-029は高い感染力を獲得してしまったのではないか。
そして懸念通りにアウトブレイクを引き起こし、XG-029は解き放たれた。
非常に長い潜伏期間も相まって、世界中に溢れかえったXG-029は、水面下で人々をじわじわと狂わせていく。狂騒化の影響により社会は暴力的に変化し、そして――。
「……そして、ゾンビになった?」
――いや、それはおかしい。
XG-029の最終段階は人体の崩壊だ。死者の蘇生ではない。
症状の進行と共に狂騒状態が悪化するのなら、例えば狂犬病のように、他人を襲ったり噛み付いたりすることもあるのかもしれない。
唾液を通じてウイルスが感染することだってあるだろう。
しかしそれは、限りなくゾンビに近くともゾンビではない。死体が動きだすなんて症状はXG-029にはないのだから。
ならばなぜ死体は動くのだろう。
レポートを読み直す。わからない。ここにはまだ、情報が足りない。
このファイルの最終更新日時は六年前だ。経過報告書と書いてあるからには、最終報告書もどこかにあるのかもしれない。
それを探し出せば、あるいは。
「お姉ちゃん。何読んでんの?」
夜兎の声に、思考の海から引き上げられた。
夜兎は既に目を覚ましていて、手術台には真白が寝転がっていた。レポートを読み込んでいる間に、気づけば随分と時間が経ってしまっていたらしい。
「手術終わったんだ。どうだった?」
「もう大丈夫。ご迷惑をおかけしました」
「本当に。手間のかかる妹だ」
「甘えても?」
「だーめ」
「やーん」
生体反応炉の隔壁修理が完了したなら、これ以上夜兎の体から放射能が漏れ出ることはない。後は私と真白の放射能を除去すれば、ようやく探索に戻れる。
「夜兎。XG-029って知ってる?」
「なにそれ?」
こてんと首を傾げられてしまう。嘘を言っている顔ではなかった。
「たぶん、ゾンビ化の原因。これなんだけど」
電子ペーパーを渡すと、夜兎は数分でそれに目を通した。
「……まあ。うちの研究所、怪しい施設だから。裏で何やっててもおかしくないよね」
返ってきたのは身も蓋もない感想だ。苦笑するしかない。
「XG-029については知らない。けど、プロジェクト"D"とXGオブジェクトってのは何度か耳にした」
「そう、それも気になってた。どういうものなの?」
「機動部隊『庭師の鋏』が四年前に配属されたプロジェクトがその"D"ってやつ。主要な任務は、制御管理化を離れたXGオブジェクトの鎮圧だったかな」
「プロジェクトの詳細は?」
「聞かされてない。XGオブジェクトが何なのかも知らない。結局一度も出動命令がくだされないまま、任期が過ぎて他のプロジェクトに移された。今思えばあれは休暇だったのかも」
「……よかったね」
「うん。部隊の仲間とUNOとか超やった」
修学旅行かよ。
夜兎は決定的な情報を聞かされていないらしい。残念だ。結局ちゃんとしたことはわからない。
「そういえば、あの任務用に配備された装備の中に、記憶処理装置があったのを覚えてる」
「記憶処理……。うわ、なにそれ」
「直近の記憶を混濁させて忘れさせる、内緒の道具。世間的には公になっていない技術が使われてる」
「うわぁ……」
「あとロケットランチャーとか大型火炎放射器とか、対物ライフル用のホローポイント弾とか。部隊の仲間は、ドラゴンでも相手にするのかなーってわくわくしてた」
対物ライフル――人間に向かって撃ったら大変なことになる銃。
ホローポイント弾――体内で炸裂して人体を効率的に破壊する弾丸。
この二つを組み合わせるなんて、それこそドラゴンでも相手にしない限りは過剰な装備である。
「プロジェクト"D"、一体何やってたんだ……」
「ろくでもないことなのは間違いないと思う。関わらないほうがいいかも」
「……そうかもね」
興味はあったが、夜兎の言うこともわかる。藪をつついて蛇を出しては元も子もない。
ゾンビ化のメカニズムについてはまだわからないこともあるが、ひとまずXG-029に近づかなければ良さそうだ。
だが、変質した現在のXG-029は、極めて高い感染力を持っている可能性が高い。
対処法としては手洗いうがい、こまめな消毒、それとマスクの着用か。
それで防ぎきれるとは思えないが、それ以上の対処法は残念ながらここにはなかった。
「もしかしたらさ、私たちってとっくにXG-029に冒されてたりしないかな」
「感染してるならもう発症してるかも」
「いやでも、感染してまだ日が浅いとか。症状の進行に時間かかるみたいだし」
「お姉ちゃんとましろんはそうかも。でも私は血液フィルター入れてるから。体の中に異常なものが入っても、自動的に排出される」
「……私も生体モジュール入れようかな」
「おそろい、しとく?」
「検討しとく」
便利でいいな、生体モジュール。こんな時代に生きるには必須なのかもしれない。
「それにしても、こんなのよく見つけたね」
夜兎は指先で電子ペーパーをいじくり回した。
「その辺に置いてあったよ」
「ロックかかってなかった?」
「真白がなんとかしてくれた。複合認証モード? とかいうやつで」
「……うん? どういうこと?」
真白から聞いた話をそのまま夜兎に説明する。生体認証の抜け道だとかなんとかという話だ。
「ありえない」
夜兎はそれを一言で切り捨てた。
「複合認証モードがあるのは本当。認証の精度が通常よりも甘めになるのも事実。だけど、血縁者や他人の空似くらいで突破できるようなものじゃない。この研究所で使われるセキュリティがそんなに甘いはずがない」
「待って、それってどういうこと?」
「如月真白から聞いた方法は実現不可能だということ」
夜兎はそう言うが、ここには現にロックが解除された電子ペーパーが存在する。
だとすると……。如月真白は、どうやってこのロックを解除したんだ。
「才羽海音。提案がある」
夜兎は手術台を横目で見る。そこに横たわる如月真白は、麻酔薬を投与されて眠りに落ちていた。
「あの子、ここで殺しとこう」