ジャックという少年
「ソフィア。こちらへ来なさい。」
「お父様。」
その時、父に呼ばれ、ソフィアは顔を上げた。紹介したい者がいると言って父はソフィアをある人物の元に連れ出した。
「エーヴェルト男爵。こちらが娘のソフィアです。」
例の男爵夫妻だ。ソフィアは礼を返した。すると、男爵の隣に見覚えのある少年が立っていた。金髪碧眼の天使のような美少年…。博物館で出会った男の子だ。
「あなたは…、」
「何だ。ジャック。知り合いなのかい?」
美少年は夫妻に養子として迎えられた例の少年だった。偶然の出会いに驚いているソフィアにジャックはじっと見つめた。
「ソフィア。彼はまだ貴族入りしたばかりでまだ社交界のルールに不慣れらしい。お前が色々と教えてあげなさい。」
両親にそう言われ、ソフィアは頷いた。要するに商談をする間、少年の話し相手になれという事らしい。
「改めまして…、私はソフィア・ローゼンクォーツ。先日はどうもありがとう。」
「ジャック・エーヴェルトだ。よろしく。ソフィア。」
「あ、駄目ですよ。貴族の世界では紳士は気軽に女性の名を呼んではいけないの。」
「僕に呼び捨てにされるのは嫌なの?」
何処となく切なそうな目で見られ、ソフィアはどきりとした。
「そ、そんな事ないわ。でも、親しい人間以外に…、それも異性を呼び捨てにするのは…。」
「そう。じゃあ…、僕と…、友達になってくれる?」
ジャックはソフィアに手を差し出した。
「親しい人間になったら、敬称なしで君を名で呼ぶことを許して欲しい。…駄目、かな?」
「う、うん…。それなら…、いいわ。」
「良かった。」
ふわりとジャックは笑った。まるで太陽のように輝くばかりの笑顔でソフィアはどきんとした。
「では、親愛の証として僕と一曲ダンスのお相手を務めさせて下さいませんか?麗しいレディ。」
ダンスを申し込む少年は文句なしに上品で優雅な仕草だった。ソフィアは少年の手の上に自分の手を重ねた。
「あの…、実は私あんまりダンスは得意じゃなくて…、」
「僕に任せて。」
そう言って、少年はソフィアをリードした。身体が軽い。背中に羽根が生えたみたいに自然に体が動いた。同い年なのにここまでダンスが上手な男の子に出会ったことはない。ソフィアは気分が高揚する。ダンスをここまで楽しいと思ったのは初めてだった。
「あなた、とてもダンスがお上手なのね。」
「別に。これ位、普通でしょ。皆、踊れるし。」
「でも、とっても踊りやすかった。そういえば、あなたの噂は聞いているわ。天才と呼び声高いのでしょう?どんな分野をやらせても完璧にこなすって聞いてたけど本当に噂通りなのね。凄いことだわ。」
「凄くない。ただ生まれつきのものだよ。周囲からはやっかみを受けるし、うんざりする。」
「でも…、人より優れて生まれたってことはあなたは幸せ者だわ。」
「僕が…、幸せ?」
「お父様が言ってたの。金持ちや身分が高い人間は生まれた時より、人より恵まれている。でも、それを享受するだけじゃいけないって。たくさんの恵まれた物を持っている人は足りてない人にそれを分け与えてあげなさいって。だから、あなたは生まれながらにして天才なのはちゃんと理由があると思うの。人より優れているってことは他の人を幸せにすることができるって事でしょう?あなたは人を幸せにすることができるそんな凄い人なんだよ。きっと。」
ジャックは目を瞠った。
「それって、素敵な事だわ。他人を幸せにしたら自分も幸せな気持ちになれるもの。」
「そんな事…、初めて言われた。」
「そうなの?」
ジャックは笑った。
「やっぱり…、君は面白い娘だね。君といれば…、俺は…、」
「どうしたの?」
「何でもないよ。…ねえ、ソフィア。これからも僕と会ってくれない?もっと、君を…、知りたい。」
ソフィアはジャックに手を握られる。ソフィアはじっと真剣な目で見つめるジャックにソフィアは促されるままこくん、と頷いた。
「ジャックー!」
ソフィアはあれからすっかりジャックと打ち解けた。お互いの家を行き来し、一緒に勉強したり、遠乗りに行ったり、町に買い物に行ったり、劇場に行ったりもした。初対面のジャックは冷たい印象だったが夜会で出会ってからはまるで別人の様に甘く、優しくて紳士的だった。きっと、初めて会った時は機嫌が悪かったのだろう。ソフィアはそう思った。ジャックは噂通り天才だった。博識で会話をしているだけで楽しい。ソフィアは同世代の少年少女と比べると大人びいてて同い年の男の子との会話は物足りなく感じていたがジャックと話している時はそんな事を感じない。何より、ソフィアよりも遥かに優秀だった彼はソフィアに勉強も教えてくれた。
「ジャック。ここの問題がどうしても分からないの。…教えてくれない?」
「ああ。それは…、」
ジャックは教え方が丁寧で分かりやすい。
「成程!ありがとう!ジャック。何だかもうジャックが私の教師になって欲しい位だわ。」
「僕はそれでも全然いいよ。…そうすれば、君といる時間が増えるからね。」
「でも、それだともう家族みたいになっちゃうね。」
冗談交じりに笑うソフィアにジャックは笑った。アニーはジャックを絶世の美少年だけど無表情で笑わない少年と言うがそんなの嘘だ。こんなに朗らかに笑うのに…。
「ジャック。何読んでいるの?」
「ああ。人体の解剖学だよ。」
「わ…、これって専門書でしょう?医者の見習いとかが読むやつじゃない?凄い難しそう…。面白いの?」
「ああ。面白いよ。人体の身体が何で形成されているのかとか興味深いことばかりだ。」
「ジャックは将来、医者になりたいの?」
「…いや。そういう訳じゃないけど…、ただ興味があるんだ。…人間は容姿が違っても中身は一緒なんだって思うと面白いね。」
「どういう意味?」
「つまりさ…、どんな美人でも身体を開いてしまえば醜いんだよ。ソフィア。人の身体ってさ中身はグロテスクで生々しいんだ。皮を剥いでしまえば人間なんてどれも醜悪になってしまうんだよ。…まるで人間の本質みたいだ。」
「ジャック…?」
まるでそれを知っているかのような口ぶりだ。ジャックの纏う雰囲気が鋭く、冷たい。ソフィアは鳥肌が立った。
「って、ある本に書いてあったんだ。…人体ってよくできてるよね。姿形は違っても皆同じもので作り上げられているんだからさ。だから、僕は純粋にそれを知りたいなって思っただけだ。」
ソフィアはほっとした。いつもの優しい雰囲気のジャックに戻っている。さっき抱いた違和感は気のせいだろう。ソフィアはそう思った。ジャックとはいつの間にか親友と呼べる位の間柄になっていた。ジャックはソフィアの初恋だった。けれど、彼は突然、姿を消した。ソフィアの心にはそれが今でも深く残っている。