最強の肩書きの重み
最強という言葉がでる作品にありがちな傾向がある。
それは作者の予期せぬキャラへのヘイトだ。
最強とは、最も強いという言葉である。
最も強いのだ。それはもう強い。この一言に限る。
つまり、最強と言われれば強いのだ。
なにを当たり前な事を……と思われるだろうが、読み手は文字と言葉で作品を感じ取る。
最強と言われれば、誰よりも強い=負けない、という図式が脳裏に浮かび上がる。
作中でキャラを指す言葉で最強と出れば、そのキャラは読者にとって敵はないのだ。
そして私もありがちだが、最強と万能を同一視してしまうのだ。
『最強=敵がない=なんでもできるから負けない』
というあってそうであってなさそうな謎理論が発生しがちだ。
つまり、最強の肩書きを持つキャラは負けてはならない、という読者の思い込みが発生する。
負けてはならないというのが問題で、それはあらゆる勝負事に負けてはならないのだ。
最強の肩書きを持つキャラが武力で最強と作者が謳っているつもりでも、そのキャラが、例えば斥候能力などで敵に負けると感想欄では「最強なのに気づけねーのか、クソ」のような物が書き込まれる。
また、最強の肩書きを持つキャラの人格が未熟であってもヘイトが溜まる。
未熟なキャラはヘイトが溜まりやすい傾向があるのだが、最強の人格などが未熟であると年齢の設定問わずヘイトがマッハで溜まる。
最強になる背景が描かれていないとそれは更に加速する。
最強は「完璧」という意味すら含まれてしまっている。
何故そんなことが起こりえるのか。
最強への期待が激しくのだ。
私も、最強という単語のある作品はどちらかと言うと頭をあまり働かせないで読めるスカッとする作品だと思って読むのだ。
だが、蓋を開けてみれば……というような期待していたものと違うのだからではないだろうか。
タイトルは分かりやすさが重視されている。
だが、それが誇張表現に感じられると思われた時、ヘイトが一気に爆発する。
そんなときこそ作者も読者も今一度冷静になって考え見るべきではないか。
本質は面白いか、楽しめるか、なのだ。
ヘイトが溜まればそれだけ作品にのめり込めている事でもあるし、意見が出ればそれだけ読んでくれているのだ。
ノーモア、喧嘩口調。