真夜中の九人
1
叔父から街の窮地を伝える手紙を受け取ったアルフォンソは、すぐに有力者全員を集めて会議を開くようなことはしなかった。
それは彼が現実から逃避したためではない。
むしろいきなりこの事実を突き付ければ、本当に現実逃避を始めるような者が幾人も現れうることを懸念したのである。
クリフィノ市はこれまで大きな戦乱から幸運にも逃れることができていた。
しかし、その幸運は街の指導者層にとって、逆境に耐える力を養う機会が失われていたという裏を返せば不運でもあったのである。
普段なら多少困難な交渉などにも経験と知識で耐えるであろう人々も、このような生命に関わる事実を突き付けられて平静でいられると期待するほうが酷だろう。
そう考えたアルフォンソは、まずはごく限られた人々だけを集めて、この情報を明かすことにした。
しかし、もはやケンプロを頼ることはできない。
それはつまり共和国内に大きな味方がいなくなったということだ。
この事実はアルフォンソの心に大粒の冷や汗を流させずにはいられなかった。
市長に危急の用件と伝えられた人々は手紙の届いた翌日の夕方、コレク邸に集められた。
彼にとってその人々とは、エミーリオとポルコレ親子、他には市場の商売人たちの顔役であるグイド・タスカ、有力商人の一人で木材貿易のまとめ役でもあるアルジェロ・レニーニ、街のもう一つの神殿の神官長であるフェルモ、市の事務を取り仕切るミクリーノ・ガタワ、そしてアルフォンソの実の叔父であるフィルロ・コレクであった。
集められた人々は、まず予想だにしなかった絶望的な話の前に皆打ちのめされたような顔つきになった。
それを急き立てるようなことはせず、アルフォンソが黙って皆の次の言葉を待っていると、最初に口を開いたのはレニーニだった。
彼はアルフォンソの祖父の時代から木材貿易の中心人物であり、その分これまでに街を背負って困難な問題に立ち向かう局面は他の列席者に比して多かった。
その経験が彼の精神をやや早く現実に直面させたらしかった。
「市長はこれを受け入れるおつもりですか」
最初に出ると思っていた言葉が、まさにそのとおりとなった。
アルフォンソは自分の中で決まっている答えを、まずは視線で伝えようとするかのようにじっとレニーニの瞳を見つめた。
そして重々しく答えた。
「どのような条件での割譲かはわかりませんが、受け入れれば我々はラナホウン王に隷属する民となりますね。それは自らのことを自らが決めるという権利を、永久に手放してしまうということです」
「受け入れるわけにはいきませんな」
レニーニは微笑してアルフォンソの言葉を結んだ。
それに続いて発言したのはフェルモだった。
「受け入れなければどうなるのでしょうね」
「実力行使でしょう。それは共和国からなのかラナホウンからなのか、ですが」
「兵士が来る、ということですか」
徐々に暗く沈んでいくフェルモの言葉を遮るようにガタワが言う。
「この街に兵士などいません。いざ敵が攻めてきて勝てるものでしょうか」
「しかし我々にはこの街しかないんだ」
気弱な発言を一蹴するかのような語気でグイド・タスカが言った。
「この街を離れればどの道暮らしていけない者が大勢いる。かと言って座してラナホウンに征服されれば何をされるかわかったものじゃない。今の富を取り上げられ、農奴同然の暮らしになるかもしれないんだ」
「ラナホウンとこの街は関わりが長い。生命や財産の心配までは無用では」
フェルモの言葉は確かにそうだと思わせるものがあった。
ここにいる皆、何度となくラナホウン人と会ったことがあるのだ。
それは商売相手であったり、旅人であったりと様々だが、彼らがそれほど苛烈な処置をするだろうか。
これで幾人か心が割譲やむなしへと傾いたかもしれなかった時だった。
それまで黙って話の成り行きを見守っていたエミーリオが口を開いた。
「ラナホウン人はそこまでの問題じゃない。問題はコアディ家だ」
その言葉に意外な響きを感じなかったのは、アルフォンソとマルティーノだけであったかもしれない。
そのことには構わず、エミーリオは火が着いたように彼の所見をまくしたてだした。
「少し前にアルフォンソ宛に個人的な手紙だったが、ジェーリオ・コアディからこの街を窺うような意図が見られた。この議案の発議者もコアディの手の者だ。コアディはこの街を狙っているんだ。それもラナホウンまで巻き込むほど形振り構わずに、だ。もし事が思い通り成就すれば、コアディ家はきっとこの街を自分たちだけのものにするだろう。その算段が立ったからこんなことになったたんだ。つまり戦わなければ、きっと俺たちはすべてを失うだろう」
誰もその考えに言い返せなかった。
確かにコアディ家の影が濃すぎるのだ。
何か意図があって仕組んだことならば、唯々諾々と身を任せて安全が保障されるとは限らない。
穏便な方法を探っていた者たちも、もはや抗う以外の策しかないと心に決めた表情となっていた。
これを感じ取ったアルフォンソは立ち上がると、穏やかに、だが力強く聞こえるよう意識してその場の人々に語りかけた。
「戦いましょう、皆さん。この街に住んで何かを失って惜しくないと思う人などいないでしょうから」
そして皆の心が一つになった。
クリフィノ市は共和国最高評議会議決を拒否する。
ラナホウン王国への割譲には応じない。このことを貫くことが決定された。
この後、公式に会議を開いて他の有力者たちに同じことを諮らなければならないのだが、この夜集った人々の考えが同じであれば、特に他の人々への影響力の強い者たちばかりを集めているので大勢は決しているのだ。
2
しかし、結論が出たかに見えた後も、その席を誰も立とうとはしなかった。
皆立ち向かうことを決めても、他の選択肢を検討しきることを諦めない柔軟さを持ち合わせていたからだった。
また、いざ戦うとして何を目標にするかも決めてしまわねばならなかった。
もし本当にラナホウン軍と戦うならば、相手は何万という軍を差し向けてくることもできる大国である。
これに正面から立ち向かって勝利するなど絵空事に過ぎないことはその場の誰もがはっきりとわかっていた。
月はすでに天の頂から西へと傾き始めていた。
一番見込みありとされたのはラナホウン王国との直接交渉であった。
形の上とはいえラナホウン王国からしてみれば降って沸いた割譲話なのだ。
これを主に金銭で妥協するように仕向けられはしないか、というのが案の主旨だった。
評議会には徹底拒否の構えを見せて諦めさせ、相手方には柔軟に代わりの物を差し出すという手法はなかなか有効的であるかに思えた。
しかし、交渉するにしてもいずこかから軍を差し向けられるまでに首尾よく話をまとめられる確証はない。
どちらにしても戦いの準備は必要であるらしかった。
話がここまで及ぶと、またもエミーリオが活発に発言しだした。
昔からそうだが、この男は窮地に陥った時ほど活き活きとしだす傾向があることを、最近のアルフォンソは久しく忘れていた思いであった。
エミーリオの主張は城塞を修復して篭城戦を挑む、というものだった。
丘を囲む城壁も、今は朽ちかけているように見えるものの、本格的に手を入れる必要のある箇所は意外に少ないというのである。
これを直せば城塞化できる丘にはクリフィノ市民を匿えるだけの余裕もある。
こうして篭城しつつラナホウン王国と交渉を行い、もしくは評議会が諦めて代替案を考える方向へ仕向けることを目標とするのが、エミーリオの案であった。
そして、肝心の戦力だが、エミーリオは市民から志願兵を募ると言った。
この考えには列席した誰もが驚きを隠せなかった。
イーヴ共和国では前身の辺境伯国の時代から戦いは傭兵の仕事と考えられていたからである。
今回も皆当然のように傭兵を雇うものだと思っていたのだ。
しかし、それに対してエミーリオの言葉は辛辣だった。
「金で雇われた兵にこの街の運命を託せるものか。どうせ命が危うくなれば逃げ出すに決まっている。その時取り残されてすべてを失うよりも、最初から自分たちで命がけの戦いをするさ」
これには皆言葉を失ってしまった。
確かに傭兵を心底信頼してしまうことはできないが、かといって自分たちが武器を持つなど、今まで考えてもみなかったのである。
ふとアルフォンソはフィルロの顔を見やった。
今日の会議ではまだ一言も発していない男は、まるで今までの会話をすべて聞き流していたかのように、口元に微笑さえ湛えた表情だった。
アルフォンソはこの叔父に意見を問うことにしてみた。
「叔父さんはどうお考えですか」
まさか本当に何も聞いていなかったなどということはあるまい。
そう思うのだが、しかし問いかけた男の反応は当初鈍かった。
ふむ、と少し天井を見上げてそのまま別のことでも考えているのかと思い始めた矢先、叔父はこの晩初めて口を開いたのだった。
「皆さん、いくら支払われれば自分がマプロやコンクデリオのために命を賭けられるかを考えてみるとよろしい。傭兵とは所詮そういうものです」
フィルロの口調は部屋の張り詰めた空気とは正反対に、取るに足らない会話の中の一言であるかのようだった。
しかし、その言葉は皆の心に大きな影響を与えずにはいなかった。
フィルロは以前傭兵隊長であったという事実を、知らない者はいなかったからである。
その経歴に裏付けられた一言の重みには、自説を救われたはずのエミーリオさえも息を呑んだ。
しかし当の本人は、また椅子に深く腰掛けなおすと、もう自分の役目は済んだとばかりに腕を組んでしまっていた。
気だるげに首を回すと、甥と同じ紅い髪がランプの灯りに時折煌いている。
彼は今晩このような集まりがなくとも同じようにして夜を過ごしたのだろう。
アルフォンソは叔父のくつろいだ姿にそう思うのだった。
ともあれ、この話し合いの中で対策の骨子が決定した。
評議会の決定を市民に知らしめると同時に、防衛戦を戦うための戦力を募る。
城壁はヴィンタリか、もしくはマプロまで手を広げて技師を探し、早急に修復が必要な箇所に手を入れる。
食糧も市民が少なくとも一年は飢えない量を貯めておかねばならない。
交渉は評議会方面はロドリーゴに引き続き任せ、ラナホウンへはレニーニが派遣されることが決まった。
レニーニならば得意先のラナホウン商人を通じて、ともすれば宰相か大臣のいずれかに辿り着けるかもしれない可能性があっての抜擢だった。
市民たちを篭城戦へとまとめ上げるための活動は、商人に向けてはグイドが請け負った。
他の市民たちに向けてはフェルモと、マルティーノの父であるジーリオが働き掛けることとなった。
神殿は祈りの場であると同時に、雨風の心配をしなくてよい集会所のような役割も果たしているため、街に二人の神官長は市民から大きな敬意と親しみを寄せられているのである。
そして、いざ志願兵が集まれば、彼らをまとめる役割は表向きにはアルフォンソだが、実務面ではエミーリオが務めることとなった。
エミーリオ自身は一度フィルロに水を向けたのだが、「そういう器でないことはよく思い知らされたんだよ」と言われては何も返す言葉がなかったのである。
今の時点でクリフィノ市が篭城戦にどれほど耐えうるかの具体的な確認はミクリーノとマルティーノが手分けして行うこととなった。
3
こうして各々すべき事が定まると、心なしか皆の顔色がよくなったようだった。
それはもう昇ってしまってしばらく経つ太陽の光もあったかもしれない。
しかし、この晩集まった人々が、街の困難事に己の持てるすべてを注ぎ込む覚悟のある人物ばかりであった証明でもあったように思えてならないのであった。
アルフォンソは次々に辞して行く男たちの、その背を今日ほど頼もしく思うことに心が震えていた。
だが、そう思わねば他の理由で心が震えてしまうからかもしれないと、どこかで感じてもいた。
勝てるのだろうか。
この街が、これまでにない明確な悪意に抗しうるのだろうか。
考え始めれば終わることのない心の迷宮に、なるべく足を踏み入れぬようにすることが大切だと強く思うのだった。
その時、兄嫁にあたるアルフォンソの母に挨拶していたため、最も遅く屋敷を辞することになったフィルロが、見送りに玄関で立っていた甥に気付いて肩を叩いた。
はっとしたアルフォンソは、つい心の中に仕舞いこむことにした言葉を、口にしてしまった。
「我々が戦って、本当に勝てるのでしょうか」
うっかり弱音を吐いたことを窘められるか、もしくは適当にあしらわれるかと思った。
しかし、叔父は予想に反していつになく真剣な眼差しとなった。
この晩、どれほど話が危機的状況に言い及んでも、決して見せなかった眼が、ほんの漏れでた一言によって自分を見据えている。
そのことに表情は変えずとも立ちすくむことしかできない緊張を覚えるのが、新鮮な驚きにも感じられた。
「皆、お前を信じると決めたんだ。お前の信じるものに、共に命を賭けると決めた。それでお前自身が信じられないようではおかしな話じゃないか」
そう言うや、叔父はまたいつもの柔和な、何からも煩わされない風の微笑みを湛えた表情に戻っていた。
この顔つきを悪く言う者は腑抜けた顔であるとしている。
一度街に背を向けて、出戻ったフィルロのことを好く思わない者は、大きな声こそ出さないものの少なくなかった。
その者たちが、今の一瞬の叔父の顔を見れば何と言うか。
アルフォンソはもう一度、叔父の表情が変わらないかと、淡い期待を抱いた。
「叔父さんも命を賭けてくれますか」
すでに玄関をくぐり終えていたフィルロは、その言葉に足を止めた。
だが振り向いたときの顔は、彼の甥の気持ちを高揚させはしなかった。
言葉もなかった。
ただ一度振り返ると、彼はいつもの顔のまましばらく甥を見つめ、そして去っていった。
今日は春先くらいに涼しくなるかもしれない。
また一人立って空を見上げた矢先に吹いた風に、アルフォンソはそう思うのだった。




