序章
1
静かな朝の空気は、この季節になると冷たさをやや多く含むようになっていた。
これにすぐ東で隣接するハクサ山脈から吹き降ろす風が加わるようになるともう本格的に冬の入り口が見えてくるのだが、今朝はまだそれほどでもない。
そのため、玄関の扉を開け放したままで家人が客との別れを惜しんでいても、屋敷の中が冷えてしまうというような心配はなかった。
頬にしみるように漂う冷気が家人には惜しさを、客には旅立ちの決意を、それぞれに募らせるのだった。
「大変お世話になりました。このご厚情はきっと忘れません」
「お言葉ほどにお構いできたかどうか。とにかく帰りの旅のご無事をお祈りしています。また近くにいらしたらお寄りください」
「ありがとうございます」
相対して言葉を交わすのは、屋敷を背にする方がまだ少年の雰囲気も多く残す、互いに若い青年同士であった。
屋敷に向かう、つまり客の立場である方は、髪が光の当たり具合によっては青く輝いても見えるようで、穏やかな顔つきの男である。
その後ろには二頭の馬を引いて似た背格好の男がもう一人いるが、こちらは生気が顔中から発散するように溌剌とした表情である。
二人の客を見送ろうとする男は、三人で並べば一番背が低いのだが、それを誰も問題にしないであろうほどに気品溢れる姿勢で立っていた。
彼は若くして、その屋敷の主人なのである。
そして二人の客人を、その滞在中に申し分のない振る舞いで遇していたのだった。
男たちがそれぞれ馬に跨り、いよいよ屋敷の主人に馬上から最後の挨拶をした時だった。
開かれていた玄関の扉から女性が進み出てきた。
その頬は薄赤く染まっていたが、騎乗した男たちの丁度影に入ったので、気付いたのはすぐ横になった主人の男だけだったであろう。
女性も優雅な仕草で立ち止まると、しかし顔はやや俯けたままで言った。
「どうぞまたお立ち寄りくださいね」
馬上の青黒い髪の男には女性がどのような顔をしているか、彼女が俯いてしまっているので判らなかったに違いない。
しかし、彼もまた穏やかな表情から自然に発せられる落ち着いた声でそれに応えるのだった。
「ええ、約束しましょうとも」
屋敷の主人はその言葉に、彼の姉が泣いてしまうのではないかと一瞬考えたが、そうならなかったことにも少し心残りな気がしていた。
ただ幸せそうに微笑む姉が、無性に切なく思えるのだった。
2
男たちは静かな朝の空気をそのままにして去っていった。
気持ちの好い男たちだったと、アルフォンソは思った。
特に青黒く輝く髪の男は不思議な男であったように思えて仕方がなかった。
立ち振る舞いは他の紳士にも同じくらいの者は多くあっただろう。
しかし、一度言葉を交わし、さらにその瞳に見つめられると、そこへ吸い寄せられるような心地がしたのだった。
あの青い瞳を見ると、まるでどこまでも透き通る湖の水底を探すように心が夢中にされるようであったのだ。
もう一人の男は彼に比べるとまるで無教養であるように思われたが、それでも機知に優れ、情け深い性格なのはすぐに見て取れた。
なにより二人は互いに深く信頼し合っており、それは互いの人物を得がたく思っているからに違いないのだ。
どう光が当たっても黒い髪のままの男は剣士で、自分は従僕であるとうそぶいていた。
だが、きっと二人は帰りの旅路も互いを思いやり合いながら行くのだろうと考えると、ますます心地よい気分がするのだった。
「素敵な方々でしたね、姉さん」
「そうね・・・。本当ね」
口にしてから見やると、姉はまだ彼らが去っていった方を見つめていた。
知らずに胸の前で合わさった手は何を掴みたくてそこまで上がったのだったか。
熱っぽく潤んだ瞳は、今年で二十歳の彼女を今まで一番美しくしているようだ。
ふと、あの男に嫁がせられないものか、という考えが浮かぶ。
しかし彼の姉には親の代から決まっていた婚約者がいるのである。
きっと姉は将来の夫には一度たりとも今の瞳を向けはすまい。
そう思うと彼は尚更姉のことが切なく感じるのだった。
3
しばらくして、ただ立っていることで寒さを覚えるようになった。
姉はまだそのままでいたい風だったが、その肩を優しく抱くと、二人は屋敷へと入っていった。
十月の朝はもう少しすれば暖かみも増すだろう。
そうなれば装いも整えて街に出るとしよう。
市の会合にはまだ五日ほどあるのだから、今日も有力商人たちに会ってできるだけ意見の摺り合わせをしておかなければならない。
そのためにはもう少し自分の言葉を洗練して用意しておかねばならないだろう。
アルフォンソの頭は、姉の肩を抱きながらもすでに様々のことを思い描いていた。
すると姉も自然な動作でその腕から一歩先へ進み出る。
それは優しさを感じながらも、もはやその思考を煩わせないようにという、姉が弟を思いやる気持ちからであった。
この姉弟に日常が戻ったのである。
少なくともアルフォンソにとってはそうであった。
姉はもう少し忘れられぬ思いをもてあそぶかもしれないことを感じながらも、病床の母の世話へと、これも日々の中へと身を任せていった。
クリフィノ市の十月上旬によくみられる、穏やかな朝の出来事であった。
そして、それは年を越して二月も終わりかける頃には姉弟と、彼らをよく知る人々の間では口にもされないほどに過ぎ去った出来事となっていった。
その年はイーヴ共和国が正式に採用している創暦では九一〇年と数える年であった。