冷たい夏の訪問者[4]
それから、10分も掛からなかった。
実質には、6分ほど。
それは起こった。
男のただれた口の皮膚が元に戻り、
赤黒く変色した皮膚が元に戻り。
男の死骸にあったあの臭いが、部屋の中からなくなった。
元通りに成った男は、上半身を持ち上げて、あくびなどを一つこぼしながら、こちらを見た。
……………………。
まあ。
順当に言って、殺されるか犯されるか、その両方か。
部屋の中で、ソファ座りながらその死体を鑑賞していた私に向かって、一言。
「おはよう」
そんなことを言ってきた。
「………………おはようございます」
仕方がないので、こちらもそのように返す。
というか。
コイツ、本当に感情がないのだろうか。
「うーん、また死んだな。これで何回目だろう。今度のも同じだな。脳に酸素が行かなくなって死ぬ。ま
あ、たいていの死亡って、そういうものだけど」
そんな、特になんとも思っていないように、毒殺犯である私のほうに向いて、にこりと笑う。
「ね。なんか死ぬっていうのか、脳の活動が止まってるだけなのか、わからなくなりますよね」
そんなもの、わかりたくもない。
けど。
「ん? どしたのアンちゃん。あ、もしかして、オイラに復讐されるとか思ってます? なら安心していい。オイラ、きみに対する復讐なんてものに興味ねえから。あ、でも、きみがオイラに盛ったのは、あー、青酸カリかにゃー。なーんかそんな感じ。あ! ほら、アレ! シロアリ用の殺虫剤。アレですよ。なるほど、粥に混ぜたわけですな。そりゃあ、まあ、喰うよなあ。だって一週間水しか飲んでないんだから。あーもう。オイラの感謝を返しなさい。ありがとうなんて言うじゃなかったです」
よくわからないが、怒っているらしい。
しかし。
自分が殺されたというのに、この男、それをまるで『なんでもない』かのように受け止めるのだ。
死ぬ前の最悪の苦痛も。
殺した相手への失望も。
この男は、どちらもなくしたように、ただ笑う。
「いいですよ」
「あい? なにが?」
子守はあっけに取られたように、首を傾げる。
今のは、失言だったかな。
「どしたのアンちゃん。すげーイヤーな顔してるけど」
この男に話しかけるのをやめようかな。
「あ、もしかして、復讐することを「いいよ」っつったの? もういやねえ。オイラのことを殺した割には、ちゃんのとその辺は腹をくくってんのねえ」
…………………………。
コノヤロウ。
おちょくりやがって。
まあ、いい。
それに、私は今助かっているのだとを考えないと。
この『死なない男』が本気になったら、私なんてすぐに殺せるはずだから。
「センパイ、いつから『そう』なったんですか?」
「あい? あー、この体のこと? あ、そっか。きみ、オイラが公園で死んでたのを見てたんだっけ。目が覚めたらアンちゃんがいたからなあ。ああ、それでオイラの飯に一服盛ったわけね」
ナットク、と子守は首をふる。
納得するのかよ。
というか、話をそらされてる?
「話、そらしてます?」
「あ、バレた? いやだって、オイラにもわからないんですよー。少し前からこうなったみたいでね。はじめに気がついたのは、そうだな、大型トラックにはねられた時かな」
なにやってんだコイツ。
「それ、大丈夫だったんですか?」
「うーん。大丈夫じゃなかったんじゃない? 意識飛んでたし。あー、でもすぐに元に戻ったな。トラックの運ちゃんがね、心配そうにこっちのこと見てるから、笑って大丈夫ですよって。向こうもほら、運転手が事件とか起こすと仕事なくなったりして――――いや、一生事件のこと引きずったりして大変だからね」
そんな理由で、自分の死を許して語るのか、この男は。
ますます目眩がしてくる。
「センパイ、その、痛くなかったんですか? その時。――――私が、さっき、その、やったことも」
今更になって、その心配をする。
体が蘇生しても、その毒は体内に残るかもしれない。
毒が残らなくても、苦しみは「体験」している。
―――――――大丈夫かな?
「痛いよ。すげー痛い」
「センパイに言われるとなんか実感わかないですね」
この発言には、我ながら頭が悪過ぎると思った。
自分でこの人を殺しておいて、そりゃねえだろう、と。
「ま、そうだよね。でも説明はできない。オイラも、いつも痛みが頂点に達する前に意識を失うほうが先だし」
まあ、とにかく。
「センパイ、死なないんですね。本当に」
「あー、…………うん。そのことなんだけどね」
子守は、目を細くして私から目を背ける。
なんだろう、その子供が親に叱られるのを怖がっているかのような表情は。
「まあ、なに、オイラの体がこうなったときにさ、あるものを拾いまして」
は?
この男は今一体、なにを言ってんだ?
「うーん。ほい」
と、テーブルの上に彼の持っていたものが置かれる。
それは、象牙のような素材でできた、純白の懐中時計だった。
鎖はなく、懐中時計本体だけ。
蓋のあるハンタータイプ。
竜頭から鎖をつなぐアーチまで、すべてが同一の素材で作られているようだった。
表面はてかてかとして、光沢を放っている。
「まあ。これなんだけど」
「あの、センパイ」
「あい?」
「センパイが死ななくなったことと、なんでこの時計が関係あるんです」
といいながら、手を出す。
――――まあ、その。
懐中時計、というものには、何度かあこがれた記憶がなくもない。
本物を買うとあまりにも値が張るため、学生のうちは手にできないだろうな、と思っていた。
それに、実生活でも使わないだろうし。
と。
「軽っ」
実際に手で持ってみて、予想以上に軽かったことに驚いた。
大きめの時計なのに、その重量は100グラムもない。
たぶん、それの5分の1ほどの軽さ。
全身がプラスチックのばったもん、といっても間違っていないだろう。
「なんです、これ。偽物?」
「え、懐中時計に偽物も本物もあるの?」
目を丸くして聞かれる。
コイツ、装飾品とかに興味なさそうだしなぁ。
「おもちゃってことです。でも」
時計の中からは、機構が動いている音が聞こえる。
時計の中のネジが巻かれて、時間を刻んでいる。
そこで、その懐中時計の唯一のでっぱり、つまりは竜頭を押した。
懐中時計は、竜頭の頭にあるボタンを雄ことで、蓋の開閉が可能になる。
その機構にそって、時計を開いた瞬間。
「ひゃっ」
ぼん、と。
時計の中から何かが飛び出した。
透明で、カタチのない。
目には見えないなにかが海中宇時計の蓋の中から『噴出』した。
つい、その時計を離してしまう。
がちゃり、という、時計が床に落ちた音が響いた。
「びっくりしたぁ、一体なんですか? 今の」
そう、目の前にいる子守にきいてみたが、例のごとく無反応。
というより、私のことを見て、目を丸くしていた。
「へえ、結構声高いんだね。なんか、うん、意外」
「………………」
もう一度殺してやろうか、コイツ。
と、子守のことを睨んでいると。
「あれ」
落としたはずの時計が、消えていた。
確かにさっき、部屋の床に落ちた音が聞こえたんだけど。
「あれ、どこにいっちゃったんだろ」
きょろきょろと見回す。
先ほどの真っ白なケースの懐中時計など、すぐに見つけられそうなものだけど。
「あー、なくしたー」
うっせえ。
「センパイ。今の見てたんでしょう? どこに言ったかわかりませんか?」
「あー、うん」
なんだ、この気のない反応は。
「まあ、そのことなんだけどね」
そこで、子守は自分の足もと、なにもないその床に手を伸ばす。
「――――?」
この男、一体なにをしているんだと思ったが、すると。
床に伸ばされたその男の手が、ある一定にまで迫ったとき、
その伸ばされた手が、消滅した。
「え」
まるで、何かの中に入ったみたいに。
ある空間の中に手を伸ばした時点で、彼の腕、厳密には、手首から先が完全に消失している。
「あ」
切断。
そう思ったが、その瞬間、なくなった子守の手が現れ、その手の中には、先ほどの白い懐中時計が握られていた。
「――――――? え?」
目を疑う。
いや。
現実を疑う。
意味が、わからない。
今までの一連の事柄の、そのすべてがわからなくなる。
「セン、パイ?」
「うー…………んと、ね」
子守は、何か言葉を濁していた。
「今、アンちゃんはこの時計の蓋を開こうとしたじゃない?」
子守は、その時計を私に見せる。
そうして、純白の懐中時計の竜頭の部分を、指で押す。
その瞬間に、彼の手がまた、瞬時に消失する。
「え? なに?」
手品?
「この部分に手を伸ばせばわかる、かな? まあ、怪我はしないよ」
いや、言われている意味がわからないが、しかたなく、手首の先から消失した部分に手を伸ばす。
ある程度近くまで、伸ばしたとたん。
「あ」
なにか、ある。
その空間に、何か。
なんだろう。
空気の固まりみたいなものがあって、私の指を弾いている。
「なん、です、これ」
時計を持っている当人である子守でさえ、それには苦い顔をした。
「えっとね。説明いたしますと、この時計よっぽどのビビりみたいでさ。蓋を開かれると姿を消しちゃうの」
「え」
「厳密には、時計の中から光を屈折させるガスみたいなものを放出して、自分の姿を隠しちゃうのね。言うなら、そうねえ。木星かなぁ。ジュピター」
つまり。
今、私が見ている、光景。
子守の手から先が消えて、そこに時計など全く見えないようなこの光景は、時計が自分を『見えなく』しているのだと。
「で、蓋を閉めると戻るんだな」
ぱちん、と。
懐中時計の蓋を閉めると、子守の手の先にある時計と、それを握った手が現れる。
――――――まるで、魔法の指輪みたい。
………………いや。
こんなこと、反吐が出てもいえないけど。
「ね? どこぞの魔法の指輪みたいだしょ?」
ふざけた言葉で、私が考えていたこと同じことを言われた。
最悪だ。
「なん、ですか。その時計。ガスって」
構造的に、あり得ない。
人間の手を押し返すほどのガスの量を出すには、その時計は小さすぎる。
それに、噴射の機能も、あり得ない。
「だーから、オイラもわかんないんだって。気づいたらあってね。なくしても自分のポケットの中に入ってるし、あ、そうだ。トラックにはねられた時にね、さすがに壊れたかなあって思ったんだよ。そしたら――――――」
そんなの、言われなくてもわかる。
今子守の持っている時計には、ちいさな傷一つだって、ついてなかったんだから。
現実だと認めるには、あまりにも気持ちが悪いというものだ。
それも、この男が持っていたのでは。
「――――――で、加えて、オイラ死ななくなったでしょ? なーんか繋がりがあるのかなーと。あ、あとさ」
もう、なんか、疲れた。
放っておいたら死ぬから、ここまでつれてきたというのに、なんだ、コレ。
もう警察に引き取ってもらおうかな、コイツ。
「オイラ、あと半年で死ぬから」
「―――――――は?」
―――――――は?
今、コイツなんて言った?
「あの、今」
「あ、うん。半年後に必ず死ぬ。今が八月だから、ま、来年の二月あたりかにゃー」
「なんで、そんなこと」
「ん? わかるんだよ。――――って言っても仕方ないよな。えぇーっとね。なんていうんだろう、ほら、猫は自分の死期をなんとなく察するといいますか、それで飼い主に隠れて死ぬといいますか。…………いや、関係ないな」
頭の悪い。
そんな、頭の悪い、言葉を、はきながら。
コイツは。
死ぬ?
――――――――――――――。
死ぬ?
冗談、ではない。
いや、冗談でなければならない。
冗談だった場合には、顔面を殴り飛ばして、ここから追い出して――――――――。
「ま、あと半年の命なんです。それまで死なないけどねん。だからまあ、おまえさんに助けられたのは、正直にいって救いでした。残りの半年をどんな風に生きるのか、少し迷っていたからね。あ、大丈夫。死ぬ時になったらここからは離れるよ。猫らしく、飼い主とは全く無関係の場所で死にますよ」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――。
――――――――――――――――――――――――。
――――――――――――――――。
「――――――――ヒ」
私の目の前の男が、丸い目をして私のことを見ていた。
それは信じられないものをみた、という驚愕の顔。
なんだ。
なんなんだ、コイツは。
自分の死が半年に迫っていて、なぜそこまで楽観的でいられるんだろう。
いや、楽観的なんじゃない。
コイツはただ、幸福なのだ。
生きているということだけが。
生きているという行為そのものが。
たとえそれが、たった半年程度の命でも、この男は満足なのだ。
死なない、という問題ではない。
そんなものは。
「アン、ちゃん?」
向こうで、子守の声がする。
なぜそんな声を出しているのか、私にはわからない。
彼は、ただ目の前の光景が信じられないと見ているようで――――――
「―――――――え」
私の視界が、曇りガラスではめられたようにぼやける。
なにも見えない。
続いて、自分の頬から顎にかけて、何かが流れる感触を感じた。
「―――――――――っ」
気がついてからは、もう戻せなかった。
苦しい。
他人の死で、ここまで苦しいことがあるなんて、思っていなかった。
「――――――ヒ―――――ハ」
止まらない止まらない止まらない。
厭だ厭だ厭だ。
だってこんなの、全然私らしくないんだから。
「あっ…………ちょ、なんで。いや、アンちゃん。泣かないでよ。あーいや、その、なんだろう。そんなに気にするようなことかい? あ、駄目だ。いや、頼むから泣かないでくれよ。それじゃあ、オイラがふざけて言った意味がない」
そんな、この男の本性が出るほどに、私の行動は予想不可能であったらしい。
そりゃあ、そうだよ。
私だって、そうなんだから。
「あ―――――――ヒ、う、あ」
「いや、ああ、そうだ」
子守は、めちゃくちゃにテンパりながら、子守は私に、台所にあった布巾を手渡した。
いや、おまえ。
これで涙をふけ、ということらしい。
コイツ、センスないよなあ。
「………………」
無言で子守の手からそれをひったくって、自分の顔全体を覆う。
ああ、もう、本当に最悪。
こんなもの、誰にも見せたくなかったのに。
こういう時に、なぜかあの男は口を開かないのだ。
道化をやっているくせに、ひどく他人の痛みに感傷的。
そしてその感情を、決してくだらないものとは思わない。
「――――――――センパイ」
私の口から出たのは、小さく、ふるえた声だった。
「あ、はい」
「このこと言いふらしたら、殺しますからね」
「………………うん」
ああ、厭だ。
この空気そのものがヤダ。
たとえ、涙を拭ったとしても、涙の後は顔に残るのだ。
ぬぐっても消えない記憶みたいに。
ああ、もう。
そのまま私はたって、部屋を歩き、子守をおいて洗面所に入り込んだ。
鏡に写る姿は一切目にせずに、蛇口をひねって、手で掬った水を自分の顔にたたきつける。
「――――――――――――――」
落ち着け。
恥は認める。
自分でなぜあんなことをしたのか、まったくわからないからこその恥だ。
だからもう、これ以上あの男前で厭な姿は見せない。
それは、私が一番嫌いなものだから。
気持ちを切り替える。
精神を切り替える。
今の顔を、取り替える。
「――――――――――」
鏡を見て、まあ、及第点。
子供に化粧なんて無意味だと思っていた顔だ、なにも落ちていない。
まあ、顔に少しだけ、涙の赤い線のようなものは残っていたけれど。
タオルで自分の顔を拭って、元の場所まで戻ると、明らかに立ちすくんでいたと見える子守が私を見た。
「半年、ですか」
黙っているのが厭だったので、声を出す。
その男は戸惑ったような顔になりながらうなずく。
「うん。そうだよ。たぶん。これは絶対だと思う。なにをしてもなんとしても、覆らない。絶対に死んじゃうらしい。…………うん。いや、オイラ、きみには正直嫌われてるから、言っても大丈夫かな、と思ってたんだけど。すまん。やっぱ軽く言うことじゃなかったな」
なんで、謝られてんだ? 私。
あと、嫌われてる、か。
昔からそうなのだ。
私の態度とか、言葉とかから、周囲はそう感じるらしいのだが、私は、別に。
「まったくです」
私がそう言ったことに、子守はひどく驚いたような顔をした。
「そうだな。………………『オレ』ももう、自分の話で誰かが泣くのなんてごめんだ。二度と、見たくない」
そこだけ、その一瞬は、
この男の本性が出てきたような気がした。
誰も不幸にはしないと、道化を演じている本性。
自分のことで笑ってくれるなら、どんなばかでもやるという精神。
この男は、いつからそんな消費されるだけのモノになったんだろう?
ふむ、と、子守はなにかうなづいて、キッチンのほうに足を運んだ。
「アンちゃん、腹とか減ってます? なんだったら今度はオイラが作りましょう。なに。大丈夫、これでも仕事で帰ってこない両親の代わりに、妹たちにまずい飯を喰わせていたからね。ある程度はできますよ。さ、リクエスト」
「………………」
現在、深夜の二時半。
腹云々の前に、いつもなら控える時間だが。
「お粥」
「あい?」
「お粥がいいです」
「それってさ、青酸カリの入ってないやつよね?」
嫌味だ、これは。
「はい、そうです。お願いします」
私が言うと、彼はすこしだけ笑って、そのままキッチンへ入っていく。
「………………」
泣いた後の食事。
まさかこんなに早く、体感することになるなんて思っていなかった。