丘の下の子供
急き立てるような風が街道を吹き抜ける。日没近いこともあり、川沿いの空気は冷たい。
岩肌の覗く山の向こうに橙の光が沈んでいき、東から紫が迫りつつある。
闇に足元がおぼつかなくなる前にと、旅の男は足を速めた。
何とか先を急ごうと、一つ前の街道宿をあえて逃したのが裏目に出た。日が落ちるまでには次の宿に辿り着けるだろうと踏んでいたのだが、地図で読むのと実際に歩くのとではわけが違い、思いのほか時間を食ってしまっていた。
男はぶるりと一つ身震いをした。
野宿をするわけにはいかない。夜の帳が降り切ればぐっと冷え込むし、例え寒さをしのげたところで暗闇の中で一晩過ごすのは危険だ。
男は道の先の小高い丘を恨めしげに見やる。頂点にはすでにいくつもの明かりが灯り始めている。密集した家屋の明かりはまるで一つのランプのようで、光と温もりに心が誘われる。だがこの町もできることなら留まらずに通り過ぎたかった。とはいえ、日が暮れ行く中丘を迂回して進もうとすれば、足元はこの先余計に悪くなる。
いずれにせよ、川といくらかの木々しかないような場で立ち往生している場合ではない。男は疲れた足に鞭打って、丘の方角へと歩き続けた。
いよいよ丘の登り口も近くなり、緑の斜面が大きく迫ってきたときだった。
視界の端に光が見えた。よくよく見るまでもなく、男はそれが建物の窓から漏れ出でたものであると気づいた。丘までの一本道からそれた脇道の先に、小さくぽつんと佇む家があった。
こんな平原のただ中に人家があるとは思ってもみなかった。
それはなかなかに変わった造りの家だった。年季の入った木の小屋の後ろに、煙突にも見える石の塔が張り付くようにして建っている。といっても煙突よりずっと大きく、煙も出ていないのだが。工房か何かのような印象だ。屋根の後ろに突き出す塔は凡庸な小屋を仰々しく見せていた。
明かりが漏れているからには人がいる。空き家の方が都合がよかったが、それでも男にとっては天の助けだ。何だっていいから一晩身を寄せる場所が欲しかった。
男は戸口に歩み寄ろうとして、一度足を止めた。
中に何者がいるかもわからぬ小屋に安易に助けを求めるのは下策ではないか。何せすぐ丘の上に町があるというのにその外に居を構える人間だ。あるいは男と同じように事情あって町に泊まることのできないような人間という目もある。
家の中に耳を澄ましてみる。ならず者の胴間声こそ聞こえないものの、無害と分かる誰かの声が聞こえるわけでもない。人の動き回るような気配はするが、それ以外のことはわからずじまいだった。
再び吹き降りた風に観念するのはすぐだった。
二回叩いた扉はすぐに開かれた。
「はーい?」
出てきたのは短髪の少女だった。男からすると娘ほどの歳に見える。偏屈な老人なり屈強な丈夫なりが出てくる覚悟でいた男は、拍子抜けすると同時に自分の方が場違いなような気まずい心地に襲われた。
咄嗟のことで言おうとしていたことを見失った男に代わり、少女の方が口を開いた。
「町の人じゃないよね、うちに何かご用でも?」
質素な小屋に似つかわしくない華やかな顔立ちの少女は、目を瞬かせて男を窺う。男は居心地悪さをどうにか押し込め、委縮させぬよう努めて柔らかい声で言った。
「旅の者なんだが、よければ一晩宿を貸してもらえないかと――」
「いいよ」
思ったのだが、と撤回しようかと思った男を遮り、少女はあっさりと頷いて家の中へと踵を返した。ちょっと待って、と玄関先の床に積まれた木箱などの我楽多を壁際に寄せ、もったいぶった調子で珍客を迎え入れる。
一切の躊躇を見せない様子に男の方が困惑した。初対面の男が夕暮れ時に尋ねてくるというだけで不審に思うには十分だというのに。この少女は警戒心というものを持ち合わせていないのか。
ためらう男を、少女はひょうひょうと招く。
「入らないの? 冷えるから戸、早く閉めちゃってよ」
「あ、ああ。失礼する」
気が付けば未だあどけなさの残る少女に主導権を握られていた。
こわごわと入り口をくぐると、すぐに台所を兼ねた居間となっていた。外からの印象に違わず、テーブルと椅子を置いてやっと通り道が残る程度の狭さだ。壁際の調理台ではごろごろと野菜の入った鍋が火にかけられており、ふつふつと音を立てていた。火の温もりと豊かな匂いに、強張った頬がつい緩む。
少女は木べらを手に取りつつ男に話しかけることも止めない。
「おじさん、この先すぐの町に宿あるけどお金無いの?」
「……そんなところだ」
「そっか、大変だね。どっかのお店に口利きしようか」
「いや大丈夫だ、当てはある」
「ふうん。あ、今晩シチューなんだけど一緒に食べるよね?」
「それは有難いが、少しいいか」
心の咎めをごまかすように、男は少女の饒舌に歯止めを掛けた。
「君はこんなところに一人で住んでいるわけではないだろう。ご家族はどこにいるんだ?」
疑問を投げかけると、少女は目を丸くして向き直った。
町がこれだけ近くにあるというのにわざわざ門の外に居を構えるというのは、なかなか奇妙なことだ。利点はせいぜい静かであること程度。何かあってもすぐに助けを求められないという点ではむしろ不都合、一人暮らしとなればなおさらだ。まして厭世家の職人などならともかく、たかだか十五歳ほどにしか見えないような少女がこんな場所に一人留まっているとは思えない。
少女は利口さを湛えた瞳をくるりとおどらせた。
「家族はいるよ、一応。けどあいにく保護者じゃないの」
そして奥の壁へと振り返る。男はつられて同じ方に目を向けた。
壁には二枚の戸が線対称に付いている。奥にはまだ部屋があるのだろう。
そちらから視線を外さない少女に倣って壁を見ていると、そのうち奥の方から音がするのが耳に届いた。猫の足音のようなそれは次第に近づいてくる。
そして一際大きくなったかと思うと、右手の扉が静かに開いた。
現れた影を一瞬認識できなかったのは、それが思ったよりもずいぶんと下にあったからだった。
立っていたのは少女よりもさらに小さい人影だった。さらに言えば、性別も表情も分からなかった。目元に黒ガラスのはまった金属の遮光面をかぶっていたからだ。小さな体躯には不釣り合いと思われる重厚な仮面に、顔全体が覆われていた。
表情の変化は見えないが、男を認識したことで小さな体がびくりとすくむのが分かった。
「こちらお客さん。今晩泊まっていかれるからね」
親しげな少女の言葉を受けてようやく、おずおずと面が押し上げられた。
案の定、現れたのはあどけない少年の顔だった。それをいくらか大人びて見せる無表情の中、大きな瞳がじっと男を窺っている。
明らかに警戒していると見える少年の肩を、歩み寄った少女がなだめるように優しく叩いた。
「君の弟か」
まあね、と少女は得意げに頷いた。
「リドっていうの。あ、私はエールン」
よろしく、と、少女――エールンは快活に笑った。
リドが小さな手で皿やさじを並べていく。エールンが鍋を運んでくると、仄甘い香りを含んだ湯気が卓上に立つ。
結局男は流されるがままに一晩の宿を借りることになった。寝室余ってないから椅子でいいよね、の一言でほぼ決着がついてしまったのには驚いた。固辞する間もなかった。今は旅の身でも、勤め人だった時分は決して押しの弱い性質ではなかったのだが。夢でも見せられている心地の男であった。
日頃は子供二人で囲んでいるだろう食卓に見ず知らずの大人が加わり、歪な三角形を描き夕食は始まった。
子供達は男のことを不審とも思っていないようで、ごく自然に振る舞っている。
「口に合う?」
「ああ」
「良かった。夕食に手の込んだもの作るの久しぶりでさあ。おじさんいい時に来たね。リドは? 全部食べられる?」
リドは小さく頷いた。
エールンは寡黙な男によく話しかける。元々人当たりが良いのだろう。
対して弟、リドの方は大人しい子供だ。このくらいの男児と言えばやんちゃ盛りの年頃だろうが、騒ぎもせずに行儀よくパンを口に運んでいる。むしろ静かすぎるほどだ。見慣れぬ客人が同席しているためだろうかと思い当たると男は申し訳ないような気分になり、同時にぐずりもしない子供に感心した。
エールンがリドの頬に付いたシチューを拭う。その様はごく普通の仲睦まじい姉弟だ。
それだけに、このような静かな場所に二人きりで暮らしているという話が気にかかった。
「本当に……この小屋に子供だけで暮らしているのか?」
間近な壁を見回しつつおもむろに切り出す。
エールンは当然だとでも言わんばかりに大きく頷いた。
「もう二人で住んで長いよ」
「それにしても、町中の方が住まうには良いと思うが」
「坂だって大した長さじゃないから行こうと思えばすぐだし、そう思えばいい立地よ。静かだしね。隠者暮らしって素敵な響きでしょ」
「無用心では? 私がならず者だったらどうしたんだ」
「おじさん、子供だけだって知ってて来たの?」
「知っていたら来なかった」
「でしょ? こんなへんてこな建物に女子供だけで暮らしてるなんて普通思わないよ」
「しかし、知って来る輩もいるかもしれない」
「そういう人たちは閉め出す」
これでも用心してるんだから、と胸を張るエールンに、男ははあ、と吐息ともつかぬ返事をするしかない。どこまで本気で言っているのやら。
ちらと調理台の方へ目をやる。そこには五徳の付いた木と石組みの台座が置いてあった。先ほどまでスープ鍋の乗っていた物だ。
男は似た物を知っている。魔力を用いて火を起こす道具だ。
魔術は基本的に人の手により行使されるものである。だがその規模や精密性は個人の力量によるものであり、例えば火であれば指先ほどから大木を一瞬にして灰燼に帰してしまうような大きさのものまでその差は幅広い。その能力を一定に制御、あるいは増幅する装置として作られるのが魔術具である。どれだけ試しても扱えない者もいるが、安定した力で魔術の恩恵を受けられる点には価値がある。
未だ原理が解明されておらず量産不可能なことも値打ちを高める一因となっている。
だから、本来子供ばかりの住まいにあるとは思えない代物だ。それこそが疑念の最たる理由だった。
彼らは親が一時的に不在とかいう訳ではなく常から二人きりで暮らしているという。暮らしぶりを一見した感じでは莫大な遺産があるというようにも見えない。だがはつらつとした姉と初々しげな弟に隠し立てをするところがあるとは、とてもじゃないが考え難かった。
ふと、幼い頃に読みふけったおとぎ話が思い起こされる。鳥や若い女に化けた妖術使いが森に迷った幼子を棲み処へと誘い込むという教訓話。
――不安になったでもあるまいに、馬鹿馬鹿しい。男は内心で頭を振った。
何にせよ他所の事情に首を突っ込む理由などない。今は自身のことに集中すべきだ。
男は疑問を頭の隅に押し込み、食事に戻った。
乾いた毛布とクッションで眠り、目が覚めた頃には東の窓から仄白い光が差し込んでいた。
椅子の上に半身を起こし、薄暗い台所で男は考える。これからの行程のことだ。
従来通り宿に泊まっていたのなら、起床し次第直ちに出て行っていただろう。
しかし今は違う。好意で泊めてもらった手前、黙って立ち去るという不義理はできない。
かといって長居するわけにもいかなかった。一旦人里へ出ないと、この先どこへ向かうべきかの判断材料すら得られない。ただ、不用意に町へ入ることも不都合だった。
悩んでいるうちにエールンが起き出してきて、早速てきぱきと朝食の支度を始めた。起き抜けから働き者の娘だ。
軽い食事を摂り後片付けまで済ませると、エールンは買い物に行くと言い出した。
「町まで行くけど、おじさんも行く?」
これは時機なのだろうと思った。
いずれ行かなければいけない場所だ。旅立つには準備が要る。案内があった方が支度は速やかに済ませられる。
腹を決めて男は頷いた。
家から何分か歩き短い坂道を登ったところに町はあった。丘という限られた土台の上に収まる町は小さく、その分密集している。煉瓦の建物が所狭しと並び小ぢんまりまとまった様は、坂の下から眺めると一つの城郭のようだった。
開けた箇所が少なく似たような小路ばかりが多い町では、勝手を知るエールンが先導役となった。慣れた足取りで細い通りに入る姉に手を引かれるリド、そしてその後ろに男が続く。父親ほどの歳なれどそうと見るには覚束ない距離感。はたから見れば滑稽なような、どこか変わった一行だ。
小さな町である。商店街と呼べるような場所は無いが、それでも漠然と店屋が寄り集まっている地区があることは余所者の男にも分かった。住宅と店舗が入り混じる街並みに目を走らせながら路地を進む。
エールンは雑貨店の看板がぶら下った扉へと向かって行った。ドアベルが陽気な音を立て、日当たりの良い店内から声がかかる。店主と顔見知りらしいエールンが話し込む間、男は商品を物色する素振りを見せつつ考える。
――さて、これからどうしようか。
ひとまずどこかの店で旅糧や消耗品を調達するとして、男の一番の目的はこの先の身の振り方を定める情報だ。その後もうしばらくこの辺りに留まるか、それとも早く先へ進むべきか。いずれを選ぶにせよ準備がいるため、判断をつけるのも早い方が良い。情報が集まりやすい場所と言えば酒場だが、幼い姉弟からそれとなく離れられたものか。
通りに面した窓に目を移す。
ちょうど斜向かいの店舗から男の二人連れが出てくるのが見え――男はさっと顔を背けた。
もはや情報集めに行く必要は無くなった。
想定はできていたことだ、あからさまに動揺することではない。それでも頬は強張った。
外套を引く感触がした。見下ろせば、リドが無言で袖をつかんでいる。上目遣いに男を窺うその表情は相変わらず読めないが、心なしか気遣わしげな色があるように思えた。一瞬の緊張でもこの子供には伝わっていたらしい。大丈夫だ、という意味を込めて、男は表情を解く。リドは安心したのかそうでないのか、ただ黙って手をひっこめた。
さりげなくカーテンの陰に身を隠しつつ、再度外を窺う。二人組はいずれも壮年で、男とそう変わらない年恰好だ。一方は帽子を目深にかぶり、もう一方は背が高い。身なりは整っているが只者でない雰囲気の二人組は、何事か言葉を交わしあっている。窓硝子越しには何を話しているのかは聞こえなかった。
こちらへ来てくれるな。
男の願いが通じたのか、やがて彼らは話しながら小路の奥へと歩いて行った。
「二人とも、用が無ければ次行こう」
そのうち買い物を終えたエールンは、扉の方へ歩き出そうとした。男はすかさずその腕をつかむ。
「待て」
「どうしたの?」
「すまないが、すぐに発たないといけない。荷物を取りに先に家へ戻ることを許してくれ」
「あら、そりゃまた急。 じゃあ私達も」
「駄目だ」
男は強い口調で押しとどめた。それまでは無骨ながらも物柔らかだった態度との差に、少女はややたじろぐ。
再度表に目を走らせる。二人組はちょうど角を曲がって姿を消すところだった。
男は店内へと見返り早口で言う。
「私はこれから店を出る。君達は少し間を置いてから出なさい。すぐに出てきてはいけない。
そしてもし私のような男のことを尋ねられたら、どうか知らぬ振りをしてほしい」
まくしたてるように言い置くと、男は店を飛び出した。残された少年と少女が顔を見合わせるのを振り返らずに。
けたたましいドアベルの音がしばらく反響し続けていた。
元来た道を早足に戻り、男は坂の下まで一息に降りた。子供達の家はすぐそこだ。
足を動かしながら、以降の動きについて思考をめぐらす。台所に置いた荷物を担いだら町へ戻らず丘の下をひたすら走るか、川の対岸の森に逃げ込むか、はたまた一度来た道を戻るか。足と同時に思考も逸り、考えがまとまりきらない。
落ち着け。
己に苛立っているうちに小屋へと着いていた。外より幾分か暗い屋内に入り、呼吸を整える。
落ち着いたらすぐこの場に別れを告げなければ。
深呼吸する男の背に、声がかかった。
「いきなりだなあ、おじさん。本当にどうしたのさ」
息が跳ねた。
振り返れば戸口には置いてきたはずの子供達が立っていた。姉の方が片手に持った買い物袋をひらひらと振る。
「すぐに来てはいけないといっただろう!」
声を荒げた男に、エールンは扉を閉めつつ反論する。
「間を置いて出て、それから家に帰っちゃいけないなんて言ってないでしょ。
それに、納得させたいのならもう少し説明してくれたっていいじゃない」
前半は詭弁と言っていいだろう。しかし彼女が不満を抱くのももっともで、男は言葉に詰まる。その一瞬を突いてエールンは追撃を仕掛けた。
「保護者でもない人の言うこと頭から聞けるわけないよ。大体どっちかっていうと、今は私の方が大家でしょ」
「年長者としても世話になった身としても、君達のような子供を個人の都合で揉め事に巻き込むわけにはいかない」
エールンは怪訝な顔をした。
「揉め事って何よ」
男は苦々しいものを心中に浮かべた。ここまで喋ることはなかった。
男と少女の睨み合いは長くは続かなかった。玄関扉が無作法な音を立てて再び開いたからだ。
「またずいぶんな隠れ家だな」
嘲笑うような声が飛び込んできた。
そこにいたのは町にいた、男からすれば見知った二人組だった。帽子をかぶった男の言葉に、扉の衝撃で転がった我楽多を戻しながらエールンが食って掛かる。
「人ん家にずいぶんな言い方じゃない」
立ち上がって二人組の顔をじろじろと交互に窺う娘の腕を男は強く引いた。体重の軽さのためもあり、エールンは思った以上にすんなりと引き下がった。
「弟を奥に」
二人で奥の部屋へ退避させるつもりだったが、男の意に反して子供たちは台所から退かなかった。リドがエールンの背に張り付いて身を隠しただけだ。
男は自身が盾となるように、子供らと二人組の間に立ちふさがった。
「ここに来てようやく影をとらえることができた。いや、王都からは長かった」
帽子の男は歪めた笑いと共に男へ向き直る。
「いつここに気付いた」
「詰めが甘かったな。大して高い丘でもないが、麓の様子はよく見えるんだ」
慌てて町を飛び出したのが裏目に出たというわけだ。男は歯噛みする。
「元文官殿。共に都に戻ってもらおうか」
「そして、どうするつもりだ。公に背いた罪人の汚名でも着せようと?」
「見せしめとまではするまいさ。ただ、どうあっても連れて来いとのお達しだ」
いかにも荒事に慣れていそうな背の高い方が外套の内に手を差し入れた。合図があればすぐにでも隠し持った何かをつかみ出さんという格好だ。
エールンが背中越しに「こういうこと」と囁く。男は答えず、目をきつく閉じた。
「……せめて外へ出ないか」
「自ら袋小路へ飛び込んでおいて何を言う」
「家人にはもう迷惑をかけすぎている」
「なるほど」
闖入者は小馬鹿にしたような笑いと共に台所の奥に目をやった。
「お嬢さん、安心しなさい。手荒な真似をするつもりはないよ。我々に不都合が起こらなければの話だが」
その言葉は男への鎖に他ならなかった。
やはりこんな子供を巻き込むべきではなかった。
男は背後に視線を走らせた。
エールンは殊の外冷静だった。
昨夜からの短い付き合いではあるが、その間ほとんど彼女は明るい笑みを浮かべていた。ところが今、その表情は書き損じた便箋を見るよりも平坦だ。
少女は変わらぬ口調で問うた。
「事情は知らないけど、とりあえずあちらのお二人は侵入者よね」
張りつめた場にそぐわぬあどけない問いには誰も答えない。場の静寂を少女は気にも留めない。
「これからお客さんを見送らないといけないの。悪いけど出てって」
「先ほども言ったが、荒事にするつもりはなかったのだけどね」
「こっちもよ。帰る気があるならそれ以上踏み込まないでさっさと帰って」
相手はせせら笑う。威勢ばかり良い小娘だと嘲るかのように。
男はたまらずエールンの肩をつかんだ。それでも彼女は引き下がろうとせず侵入者らを見つめている。せめて幼い弟だけでもと名を呼ぶが、こちらも姉から離れようとしない。
帽子男の薄笑いが一歩近づいた。
男が止める間もなく、視界が白い光であふれた。
直後湧き上がった衝撃と轟音に耐えたのもつかの間。
瞑っていた目を開くと、二人組の姿はどこにもなかった。
全開の玄関扉が、その向こうに見える芝生が、木々が揺れている。まるでこの地の空気を見えざる手がかき回していったように。
「上出来」
咄嗟に抱え込んだ腕の中で、エールンがリドの頭を撫でる。
今の奪い去るような衝撃は。
「風の魔術、か」
リドは小さく頷いた。
初めはどこの国にもある政治上の論争だったのが、決定的な対立にまで発展した。
相手が一派閥を形成するだけの曲者であったことが男にとっての不幸だった。強固な後ろ盾を持たない男はあっけなく職位を追われ、北の有力者に援助を願い出るため都落ちすることとなった。
対立した高官としても敵に回ると分かった相手をむざむざ放っておきはしない。部下を差し向け男の足取りを追わせた。追われる男は休む間もなく北上し続けることを余儀なくされた。
そしてついに迫った追手をあっさりと蹴散らしてしまったのが、暴風の一撃だった。
魔術とは使い方を習って訓練を重ねれば、素質の差はあれど大抵の者が身に着けることができる。
ただ、その中でも名手と呼べる技量を持つのはほんの一握りだ。それにも種類がある。一方は自身の努力によって上達したもの、そしてもう一方は、生まれつき才能を秘めていた者だ。
まだ幼いリドは、恐らく後者なのだろう。
だがそれだけではないようだ。
エールンは玄関脇にある我楽多の小山の前にしゃがみこんだ。固い音を立てて引っ張り出したそれを一目見て、男は声を上げた。
「魔術具」
「じゃーん、なんとこちら、お手製です」
少女がおどけた調子で掲げたそれは、両手に収まるほどの六面体の木の塊。きらめく珠の粒が曲線を描くようにいくつも埋め込まれ、細い溝が彫られている。
「君が?」
「正しくは共同制作」
姉弟は顔を見合わせて頷き合う。
「玄関のこっち側に許可してない人が入ってきたらリドの魔術を強くするように、って作ったの。素人工作だけどちゃんと働いてよかった」
「その炉台もか」
「まあね、便利でしょ」
少女が無邪気に言ってのけたそれは、人中の研究家がこぞって欲しがる技量だ。
そして、制御を魔術具に頼ったとしても、あれほどの――。
子供達が男を警戒しなかった理由が分かった。これほどの力があれば、並の人間など危険視すべくもないだろう。
しかし、風の魔術をどのように使えば先ほどの彼らのように侵入者が掻き消えるのか。恐ろしい想像が浮かび、男は玄関の外、平原の遠望へと振り返る。その先には豊かな清水を湛える河川。見える範囲に二人組の姿はない。
「川には流石にね。あっちの森に放り込んだから、上手くいけば木に引っ掛かってのびてるかな? 野草とか取りに人が出入りするところだし運が良ければすぐ救助されるでしょ」
エールンは魅力的に笑い、「きっと飢え死にする前には」と付け足した。
男がその場に立っていられたことを鑑みると、侵入者のみを叩きだすように調節が為されていたのだろう。男が受けた風だって酷いものだったというのに、それ以上の暴風を叩きつけられ、あまつさえ川向こうまで飛ばされた二人の恐怖はいかばかりか。
男はつい先程まで己に害なそうとしていた二人にわずかばかり同情し、そして自分が暴漢でなかったことを心から喜んだ。
「私はこれから大森林の方に向かう。協力者がいるんだ」
いつ二人組が脱出してくるとも限らない。先刻ほどではないにしろ、出発は慌ただしいものとなった。
風の余韻はすっかり静まっており、青空に流れる雲も穏やかだ。暖かな陽の光が草地に、川沿いの田畑に降り注いでいる。旅立ちにはふさわしい景色と言うべきものであった。
「ありがとう……と言うのが良いのだろうな」
予想もしていなかった出来事が眼前で起こったことに、未だ現実感がなかった。政敵の使いの者共は影形もなく、今しがたの出来事は全て夢だったかのように思われた。
だが男は真実を知っている。己が身を救ったのが目の前であどけなく笑む子供達であることを。
「リド、彼の魔術の才はその歳にしては並ならぬものだ。こんな身の上でなければ都の学校へ紹介状を出してあげられたのだが。魔術具も工房に入ればもっと」
もう、とエールンは頬を膨らませてみせた。
「隠者暮らしも気に入ってるんだってば。言ったでしょ?」
そうだったなと男は微苦笑を浮かべた。
「今の私は一介の落人だ。だがいつか必ずこの恩は返すと約束する」
おじさんも、と少女は返す。
「また追いかけられたらうちにおいでよ。また屋根と毛布くらい貸したげる」
そう言っていたずらっぽく口角を持ち上げるエールンの背から、リドがおもむろに顔を覗かせる。
「またね」
無口で無表情の少年は、ようやく年相応の幼さを見せた。
町で支度を整えると、男は街道伝いに丘の反対側に降りた。手を振る二人はもう見えない。
変わり映えのしない平原の風景が地平線まで続いている。大森林の入口の都市はまだまだ先だ。辿り着くまで何もないとも限らない。追手もは再び舞い戻るかもしれないし、連絡のないことに焦れた都の上官はまた新たな部下を差し向けるかもしれない。
しかしこの時ばかりは男を脅かすものは何もない。
道はたおやかに流れる川と平行に地平線の向こうへ続いていく。昇ってきた太陽ときらめく水面の眩しさを、頬に感じる冷たい空気を、清々しく思えるのは久しぶりのことだった。
背中を押すような風が街道を吹き抜けた。