エルトラント奪回作戦 ③
メカルク公国は、地球で言えばハワイ諸島周辺に散らばる島嶼国家である。首都ハナルのあるカウワ島が四国ほどの面積を有した最大の島で、人口は600万人ほどを擁している。
そのメカルク公国首都ハナルに近いラナハイ軍港を、数十隻の艦船が大勢のメカルク国民の見送りを受けて出港していく。いよいよ始まるエルトラント王国奪回作戦のため、日本、メカルク、フリーランド、エルトラント(エルトラントは厳密にはマシャナ侵攻後各国に亡命していた艦船)各国の商船や海軍艦艇からなる船団と護衛艦隊であった。
「開戦時を思い出すな」
その大船団を構成する1隻、輸送船「楓丸」の船橋から、船長の森下幸司は船団を見て感慨に耽っていた。
「あの時も大規模な船団を組みましたからね」
部下の航海士も、森下と同じくかつて見た輸送船団の姿を思い出しているのであろう。
二人が思い出す開戦時というのは、もちろん元いた世界での戦争、アメリカやイギリス相手の大東亜戦争が始まった時のことである。
開戦時、夙に有名になったのは海軍南雲機動部隊によるハワイ真珠湾奇襲だ。敵国アメリカ海軍の要衝ハワイ真珠湾を奇襲し、米太平洋艦隊を壊滅に陥れたそのインパクトは大きく、国民を熱狂させた。開戦1年後には映画になったくらいだ。
しかしながら、そのハワイ奇襲攻撃は開戦時太平洋各地域で行われた作戦の中の一つに過ぎない。むしろ規模で言えば、かつて森下たちが参加した南方攻略作戦の方が大きい。
自存自衛の態勢を確立すべく、大日本帝国は開戦と同時に豊富な資源を有する南方資源地帯の攻略を目指し、その入り口とも言うべきマレー半島とフィリピンへと侵攻した。
当然ながら、海を渡るために大規模な輸送船団が仕立てられた。特にフィリピン・リンガエン湾への上陸作戦では、80隻以上の輸送船が動員された。
森下の乗り込む「楓丸」は5000総トンと取り立てて大型の船ではなかったが、昭和11年竣工の比較的船齢の若い船であり、速力も巡航で13ノットを発揮できたため、開戦時の南方攻略船団に加わった。
その時仕立てられた勇壮な船団の姿を、森下は今自分たちが加わっている船団の姿に重ねていた。
「しかし運ぶ兵隊の顔は様変わりしているがな」
「ですね」
今回「楓丸」にはフリーランド陸軍の砲兵隊が乗り込んでいた。フリーランドは地球で言えばアメリカ周辺の位置にある複数の大きな島などからなる連邦国家だ。人種は白人や黒人、黄色人種もいる多民族国家で、これもアメリカと似ていた。ただし白人がそれほど威張っていないのと、言葉は全く違ったが。
それはともかく、「楓丸」は今回明らかに日本軍とは違う軍人たちを大量に載せていた。そして、それだけではなくその載せ方も森下たちには驚きだった。
「フリーランドて国は、随分と贅沢な方法で兵隊を運ぶんだな」
と言うのが森下はじめ、輸送船乗員たちの偽らざる気持であった。
最初森下たちは、フリーランドの兵隊を自分たちの知る常識で輸送するつもりであった。つまりは、船倉に蚕棚を設置して、そこに兵隊を押し込んで運ぶ方法だ。
この蚕棚と言うのは、兵員輸送の際に特設される木製の棚の俗称だ。名前の由来は絹を取り出すために繭を作る蚕が入れられる籠を載せる棚である。
日本の輸送船はこの蚕棚を船倉一杯に設置する。そして、そこに兵隊を押し込むのである。棚と呼ばれるが、一人一人に区画が分けられているわけではなく、後の世で言うプライバシーなどと言う言葉はない。加えて、船倉に設置されるために環境も劣悪だ。
「楓丸」は元々南洋諸島と本土の間を結ぶ貨客船であった。客という文字が付いているが、本来載せられる乗客は各等級合わせて100人程度であった。つまり、主たる荷物は貨物ということである。だから船倉も、人ではなく貨物を運ぶことしか想定されていない。当然ながら、人がそこで過ごすために必要な設備はない。
そんな船倉に多数の人間を押し込むのだ。しかも、主戦場となったのは南方地域である。結果、船倉に押し込まれた兵隊は、高温多湿な環境に苦しむこととなる。また本来は貨物用であるから、灯や階段、便所と言った設備も当然不足する。これらも増設されたが、階段や便所などは木製の脆弱な物であった。
しかも、日本の場合輸送船の不足から極限まで兵隊を押し込む。「楓丸」ぐらいの船でも1000名以上、場合によっては2000名という多数の将兵を運ぶことは別段珍しいことではない。
これが日本の兵員輸送の常識であった。
ところが、フリーランドが「楓丸」に求めた輸送人数は800名であった。しかもその輸送方法も、蚕棚ではなく、船倉に特設の床とキャンバス製のベッドを設置するという方式であった。
この作業はメカルクのドッグで行われたが、兵隊一人一人に簡易ながらもベッドが与えられるという時点で、日本の軍人にも船員たちにも衝撃であった。
さらに、船倉の換気強化のための送風機や照明器具の大幅な増設に、船倉と上甲板をつなぐ階段も木製のものではなく、金属製の梯子が設置された。また照明等の動力となる発電機の設置や、救命用筏の設置も行われている。
日本の場合より少ない人数の輸送に、はるかに贅沢な設備を設置するフリーランドに、日本人は驚いたが、逆にフリーランド人に日本の兵員輸送について話すと、彼らの方が仰天した。と言うより、仰天を通り越して狂人でも見るような目をして言った。
「それでは、万が一船が沈むようなことがあったら、兵隊が助からないじゃないか!?君たちの国では兵隊は使い捨てだったのかい!?」
その言葉に、森下たちは憤りとともに完全否定できないもどかしさを感じた。実際、万が一船が沈むようなことになれば、船倉にいた兵隊の多くが助からないのは事実だったのだから。
もし輸送船に魚雷や爆弾が命中すれば、艦艇に比べて脆弱な輸送船は大打撃を被る。轟沈することだってあり得るし、そうでなくても大被害を受ける。機関は停止し、船内は滅茶苦茶に破壊され、火災が発生して船体は傾く。もちろん、破孔からは浸水して海水が濁流となって船内へと雪崩れ込む。
こうなると船内は真っ暗になり、船倉内にいる兵隊たちは出口を目指すことさえ困難となる。さらに船倉の出口にたどり着いても、上層とつながる木製の階段が被弾の衝撃で落ちてしまっていれば脱出できない。
結局多くの兵隊が脱出もかなわず、生きながら水葬にされてしまう。森下自身は見たことなかったが、遭難した仲間の船長から体験談を聞いたことはあった。
さらに、日本の場合脱出した後の救命用装備も不十分であった。日本の兵隊輸送船の救命装備と言えば、その船が有している固有の救命ボートや、後から載せた木製や竹製の筏、さらには水に浮く竹や木などであった。
しかしながら、これらは応急的なものに過ぎず、場合によっては沈んだ船から浮かび上がる際に海上を泳ぐ生存者に下から直撃してケガを負わせる可能性もあった。
すし詰めの兵隊に、その兵隊を守るための装備も劣悪なのが日本の兵隊輸送船の実情であった。
もちろん、それには理由がある。まず日本の場合は大型の客船が少ない。これが敵であったアメリカやイギリスの場合、大西洋航路をはじめ多数の人が行きかう航路があり、超大型の客船を有していた。「クイーン・エリザベス」などはその筆頭である。こうした客船は戦時になると兵員輸送船に変身して、効率よく多数の兵隊を輸送できた。
しかし日本の場合客船を配船する航路としては、太平洋横断航路や南米航路、欧亜航路があったがそれらは大西洋航路などに比べて遥かに小規模な規模でしかなかった。そのため、日本の場合客船の数は少ないし、その大きさも欧米の物より小さかった。おまけに、その数少ない客船の多くは高速であるため兵員輸送に使われることは少なく、空母化改造の対象や、その他の特設艦船として召し上げられてしまっていた。必然的に兵隊輸送は純粋な客船ではない貨物船や貨客船が行うことになる。
次にそもそも船舶量が絶対的に不足していた。日本は開戦時約630万総トンと世界第三位の商船隊を有していたが、太平洋や亜細亜に拡大した戦線を賄いつつ、国力を維持するための資源輸送を行うにはこれでさえも不足であった。そして、戦時造船計画は元来の国力の小ささなどもあって、捗らない。
必然的に、数少ない輸送船で少しでも多くの物を運ぶために無理に無理を重ねることとなる。もちろん、兵隊輸送船として必要となる設備なども、資源も時間もないない尽くしの日本では贅沢なことはできない。
だから、森下たちとしては他にやりようがなかったというのが正直な気持であったが、実際にそれが兵隊の命を無駄に損なう可能性を高めていたのだから、反論しようにもできない部分があった。
そして森下は、その時になってフリーランド人から初めてフリーランドと言う国のことを、一部とは言え聞かされたのであった。
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