償い
やることは全てやった。今日は運命の日だ。
朝がやって来た。
春の陽射しは、これまでの「悪事」を包み隠し、これから起こる「行事」に対して、祝福してくれているようにも感じられた。
野本佳男は目を覚ますとすぐに布団から這い出て、顔を洗うために洗面所に向かった。次に口をゆすぎ、歯ブラシを突っ込む。彼の日課だ。
二十九歳になった彼は相変わらずのその日暮らしを続けていた。前日バイトで稼いだ金を今日で使い果たす。そしてバイト。単調な毎日だがレールに乗った人生に意味ないわと常日頃言い続けていることもあり、今の生活には満足していた。それに、理由はもう一つあった。
野本はクロワッサンを頬張りながら、ニュースを見ていた。
『内閣支持率の低下に歯止めがかかりません。ついに二十パーセントを切りました。これは先日の田村経済産業大臣の辞任が影響しているとみられ――』
「そんなん俺に関係ないじゃん」
野本は飲み終えたコーヒー牛乳のパックを握りつぶしながら、独り言をもらした。
ふと時計に目をやると、九時を回ったところを指していた。
今日は暖かくなりそうだったので、彼はお気に入りの長袖Tシャツを腕に通し、これでいいだろうという表情を浮かべた。紺色のジーンズを履いて、髭剃りシェーバーを手に取ると再び洗面所に向かった。
そうこうしているうちに、九時三十分を回っていた。ヤベッと舌打ちし、駆け足で部屋を縦断し、これまたお気に入りのコンバースの靴に足を通した。
外に出ると四月とは思えないほど強い光が照りつけてきた。これは暑い、いや、これから暑くなるな、そう思えた。
野本はバス停に向かって早足で歩いていた。九時四十三分のバスに乗らなければならない。
途中、二度唾を電灯に吐いた。二度目の唾吐きの後で、一度後ろを振り返り、鋭い眼光をとばしていた。
バス停にはちらほら人が見えた。その中に彼女が目に入った。
「悪い……待たせたな。もしかして危なかった?」
「大丈夫だよ。そんなに待ってない」
吉川愛輝。彼女と野本が出会ったのは一ヶ月前だった。それから週に二、三回は互いに日が合えば会うようにしている。
彼女はまだ大学生だった。薄化粧の割に目が大きく、はっきりした顔立ちをしていた。
定刻通りにバスが到着した。野本佳男は吉川愛輝を引き連れるような格好でバスステップに足をかけた。
バスは比較的空いているようにみえた。といっても野本達に席は残されていなかったので、バスの中程で手摺に掴まった。
発車してすぐに誰かの携帯が鳴り出した。おもむろにジーンズのポケットに手を突っ込む動作をしたことから野本のものだということが分かった。「おう! 久しぶりじゃん。どうした?」
大声で話し始めた彼に対して、不快感を顔に示す者も少なくなかった。特に左の前から二列目に座っている中年男性はちらちらと野本に視線をぶつけていた。野本の声は次第にハイトーンになっていき、誰か注意しろよという空気が漂い始めた。しかし空気は出来たものの何かが起こるという訳ではなかった。自分に不利になる、面倒なことには関わりたくない、という日本人の性質を表しているようだった。
十分くらい経ってから電話は切られ、八つ目の停車場が近づいていた。『とまりますボタン』が押されているので誰か降りるようだ。早めに二人立ち上がったので、バスの右側、一人用の座席が二つ空いた。その空いた席を見て野本がすっと身体をそちらに向けた。
「あ。ラッキー空いた空いた。楽ちんだなこりゃ」彼はどかっと座った。彼女も彼の後ろの席をとった。
その停車場では老夫婦らしき二人が杖を片手に佇んでいた。その老夫婦はのそのそとバスに乗り込むと、疲れた表情をして空いている席を探していた。
「あっ」と彼女は小さく声を漏らした。野本は気づいていないようだったが、二人は優先座席に座っていた。
「どうぞ」といって愛輝はうっすら笑顔を浮かべた。背の低い老婆は「おじいさん。おじいさん。ここ席空きますよ。お嬢さんありがとうね」と顔を皺でいっぱいにして、とぼとぼ歩く老人を招いた。
野本は「え?」と彼女を振り返りいった。
「ああ……老人か。愛輝そんなんいいって。老人は甘やかすから調子に乗るんだよ。立たしときゃいいんだってば。昔頑張ってたかも知んねーけど今何もしてねーじゃん。全く……年金もらってる奴らが何いってやがるんだよ」
「そりゃねーだろ」前の方の席から中年男がバスが動く中をしっかりとした足取りで歩いてきた。先ほど野本に視線を送っていた男だ。
「にいさんよ。あんたが今、平和にこのバスに乗ってるってことは年配の方のおかげなんだぞ」
「あ? そうかもしれねえけどよ、こいつらは分かんねえだろ。俺は今起こってることにしか興味ねえんだよ」野本は立ち上がった。
中年男は肩を震わせた。どうしてこんなガキにここまでいわれなければいけないんだろう。そしてこの男には何を言っても無駄なんだろうという感情が、肩の震えで周りに伝わっていた。
「とにかく、席を譲れクソガキ」中年男がそういった時、野本は既に動き始めていた。
「なんだこら」
野本は男の胸ぐらをぐいっと掴んで、凄んでみせた。本気で殴ってやるぞ、という勢いだった。
バスは赤信号で停止した。マイクから「走行中は危険ですので席を立たないようお願いします」と聞こえてきた。運転手にもやりとりが耳に入ったのだろう。それにしても当たり障りのないコメントだ。巻き込まれたくないという意識が強いのだろう。
ドライアイスのような冷たい視線が野本に集中していた。彼は右手の力を緩めていった。
「なんだよ。みんな俺の敵なわけ! 明らかにこいつのでしゃばりじゃん。ま、いいけど。俺には愛輝がいるし」
彼女は顔を真っ赤にしていたが、野本はそれには気づいていなかった。「やめてよ」その声でようやく眉間の皺を薄めて、男の襟から汚いものでも触った後のように手を離した。
「悪い」彼は彼女の目を見ていった。しかし彼女は見ていなかった。
「もちろん俺は譲らねーぜ。譲りて―奴が譲ればいいだろ」
すると彼女の後ろで本を読んでいた三十過ぎと思われる女性がどうぞ、といって席を立った。
結局それから更に十分が経過した後で二人はバスを降りた。(もちろんその間、野本が席を立つことはなかった)
バス停から北に進路をとった。その道中高めの声で野本がいった。「さっきはごめんな。嫌な思いさせて」
彼は謝りつつもどこか誇らしげな顔だった。自分はこんなにも悪い人間なんだぞと、親父に怒られても何も動じず逆に脅したぞと、更には彼女の一声でその男を許してやったぞといっているかのようだった。若い頃の悪かった自慢をするタイプの人間だ。
それでいて反省の弁を述べたのは、やはり彼女の機嫌を損ねさせないようにするためだろう。
「いいよ別に……いつもだから」愛輝ははにかんだ。
「いや、俺が悪かったよ。早いけど先に飯を食おう。俺が奢るからさ」
二人は和風レストラン『はなや』に入った。和風ハンバーグに定評があると店の前の看板に書かれていた。
『はなや』はアミューズメント施設『キャロルス』の中にある。『キャロルス』の中には、映画館やボウリング場、ゲームセンターにカラオケ、レストランがあり、デートするには困らない場所の一つといえた。
「どうする?」吉川愛輝はメニューをめくりながらいった。
「おすすめでいいじゃん。愛輝選んでくれていいよ。俺もそれにするから」
二人は同じ、ミックスグリルのライスセットを頼んだ。野本佳男はそれに加えて、サラダバーを注文していた。
栄養とか気にするタイプだっけと彼女は笑っていたが、彼はどうだっていいだろと受け流していた。変なところでプライドが高く、素直に自分を表現するのが苦手なようにみえた。
他愛もない会話が十分ほど続けられていた。野本はやたらとそわそわし始め、話半分で聞いている感じがした。そして近くを通りかかった店員に声をかけた。
「ちょっとちょっと。先に注文したのは俺らなのに、なんであっちの席の方が先に来るんだよ」クレームだ。
彼が先程から彼女の話を聞く際の相槌をつく回数が増えたのはこのためだったのだ。
「申し訳ございません。もう少々お待ちくださいませ」
彼は舌打ちした。彼女が何かいおうとした野本を遮るように早口でフォローを入れた。「いいじゃない。そこまでお腹減ってるわけじゃないんだしさ」
「俺は減ってるとか減ってないとかいってるんじゃないんだよ。普通先に頼んだほうが先に来るだろ。それがおかしいっつってんの」
彼女にされた注意を気にすることなく彼は続ける。店員は明らかに困っていた。瞬きの回数が増えている。
「っていうかさあ、そもそもここの料理高くない? そんな豪華な食材使ってないでしょ。これじゃ絶対客こなくなって潰れるよ。俺わかるんだよな、昔からうまいもんよく食ってるからさ。さっき向こうに運ばれた料理、あれも確か中国製のやついっぱい使ってたし」
「当店の商品の原材料に中国製はありません」若い店員が口を挟んだ。
「そりゃあんたみたいなバイトには伝えられないだろうよ。多分内緒なんだから。とにかく誠意見せてよ。彼女も待ってるんだからさ」
さっき彼女はあんたの意見と全くの逆をいってたけどね、と言いたげな表情を浮かべたが、口の端を噛んだあとで「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。
野本は満足したのか、もういい、早く持ってこい、とだけ付け加えて店員を帰した。
しかしその後も、あそこに飾られている絵は古臭いだとか、あの装飾は見ていて不愉快な気持ちになるとかネチネチと彼女に話していた。しかもこれみよがしとばかりに三つ離れた席にいても不快だと感じるほどの大声だった。彼女はそれを黙って聞いていた。
そうして料理が運ばれてきた。
「美味しいね」愛輝は頬を緩めた。
「そうか?」男は首を傾げる。「俺はそう思わないな。だってどこにでもありそうな味じゃん。これを美味いといえる人はいるんだろうな、とは思うけどね」
彼女は少し口を尖らせたがそれまでで、ピタッと話をやめた。
「じゃあ行こっか」紙ナプキンで口元を拭い終えた彼女にいった。
野本はヴィトンの財布から一万円札を抜き出し、何もいわずにカウンターに置いた。実は今日のデートのために、三日前に買ったものだった。親に『風邪ひいてしばらくバイトできない』と嘘をついて送ってもらったお金を使った。
お釣りがレジから出てくるまでの間、彼女にアピールするかのように財布を胸の当たりにさりげなく佇ませていた。えーそんな高いものよく買ったねー、といってほしいようだ。つくづく自分を表現するのが苦手なのだろう。
しかしそれに対して彼女は何もいわなかった。
店を出て、三階に上るエスカレーターで野本が振り向いた。「じゃあ今日のメインいきますか」
それから二人は、映画を観るためにチケットを買った。
『手品師の逆転』という、現在最も流行っていて、三週連続で興行収入一位という作品だ。内容は普通のマジシャンが命をかけたゲームをし、お金を稼いでいくという話だ。
しっかり二時間、映画を堪能した後で、吉川愛輝はプリクラを撮ろうという話を持ちかけ、ゲームセンターに向かった。ここで起こる「行事」を知らずに。
野本佳男はいきなり大声を出した。それはそれくらいの声を発しないと、店内のBGMに吹き飛ばされると感じたからだろう。
「先にクレーンゲームやっていい?」
「いいよ」
野本はあのヴィトンの財布を取り出し、百円硬貨を掴むと投入口に押しやった。
人気アニメの人気キャラクターのぬいぐるみだった。ちょっと動かせば隅にある開口部に落ちそう、というところに置かれている。
クレーンが動き出す。左右、前後を設定しぬいぐるみの真上に来た。アームが開き、首の部分にかかった。
「おし」
野本は力強い声を出した。
しかしアームはするすると上に移動し、ウイーンという音を立てながら開口部の上で虚しく開いた。もちろんなにも落ちてこない。
「なんだよ!あのアーム!ゆるゆるじゃねえか。つーかこれ揺らせば取れるんじゃね」
「ちょっと定員さん来ちゃうよ」
そんなことお構いなしだ、と言わんばかりに野本は思い切り台を揺らし始めた。
「よし、もうちょい……」
彼がそういったとき後ろから定員がやって来た。「お客様、台を揺らしてはいけないことになっております」
野本は舌打ちすると、
「こんなん取れるわけねーだろ。どれか一つただでやらせろよ」と睨んだ。
「子供じゃないですよね、お客様。そんなこといまどき小学生でも言わないですよ。恥ずかしいと思わないですか? 彼女の前で」
野本の顔が急に赤くなるのが分かった。
「すいません。私がこれ欲しいっていったからなんです。本当にすいません。タダでなんていいですから」
まったく、と言って店員は去っていった。確かにあの店員は若い。だから自分より年上の大人を説教するのは気が引けるのだろう。野本はしばらく黙っていたが、愛輝を見て笑顔を作った。
「向こうのやつならやれるかも」
どこからそんな自信がわくんだろう、という表情を浮かべたが、野本は例によって気づいていない様子だった。
次は飴や、ガムが大量に散らばった円形のクレーンゲームに目を付けた。これなら間違いなく取れるだろう、そんな顔をしている。
彼は先程同様硬貨を投入し、タイミングを図るように左手で腰をパタパタと叩いていた。
「頼むぞ」その声とほぼ同時にクレーンは機械的な音を立てて動いた。一直線にお菓子の塊に近づいてゆく――
乗った。しかし今度は野本が声を出す前に滑り落ちた。顔がみるみる紅潮していく。
「うおおおおおおお。ぜってー取れねーようになってるんじゃねーかよ」
そんなことはない。なぜなら前に挑戦した若者は三つもガムを取っていった。
野本は唸り声ともうめき声ともつかない声を発しながら、台に設置してあるボタンを思い切り叩き始めた。
「クソが。こんなんじゃいけねえだろ」
彼は声を荒らげたが誰も寄ってこない。するするとクレーンゲームの間を縫って近づいていった。
彼女がこちらを見た。野本は相も変わらず、これでもかという程台を叩いている。
"俺"はそっとジャケットの内ポケットから包丁を取り出し、野本のそばで足を止めた。
俺が野本佳男を殺そうと決意したのは一週間前だった。幼馴染の吉川愛輝が泣いていた。
「ねえ……私のために人を殺してくれる?」
話を聞くと、野本はどうしようもない男だということが分かった。ある店に入れば定員に平気でため口を聞き、外を歩けば道路に唾を吐き、電車に乗れば三人分ほどの席を一人で占領する。
この一週間、俺は野本を尾けた。常にぶれないイカれた行動を振舞うこの男は生きている価値がない。だから殺さなければならない。そしてそれができるのは俺しかいない。そう思った。
翌日にはCCDカメラを通じて、部屋の中にいる野本を監視していた。特に目的は無いのだが、俺が個人的に怒り、殺意を溜めるという意味では、役に立ってくれた。
そして今日――愛輝は野本を映画に誘うと言っていた。
私が家に着く前だったらいつでもいいから殺して欲しい、とのことだった。家に着く前と言ったのは、おそらく野本の死に様を自分でも見たかったからだろう。
彼女がどうしてこんなクズと付き合ったのかは知らない。いや、知らなくていいといったほうが正しいだろう。全くもって興味がわかない。
そして俺はこれからも、この考えを持ち続けて生きてゆく。
クズは生きている価値がない。人に迷惑ばかりかけ、自分は何も生み出さず、責任を他人になすりつける、俺は悪くないという人間。死んだほうがマシな人間は殺せばいい、と。
――いつでもいいぜ。殺したい奴がいたら呼んでくれ。報酬なんかいらねえからよ。
私が何者かに付けられていることには、数日前から気づいていた。
野本佳男と付き合い始めて三週間がたった頃、家のいたるところに盗聴器を見つけた。ストーカーだ。あいつが入ったんだ、この部屋に。
これで作戦の半分は成功だ。
実はこの日、私はあえて部屋の鍵を掛けなかった。前日閃いた、一気に片付ける方法を実行するために。
そこでワザと友達に私の携帯電話にかけてくれるよう図った。その瞬間、私は泣くふりを始め、打ち合わせ通りのセリフを吐いた。「ねえ……私のために人を殺してくれる?」と。
すると予想通り次の日から野本を執拗に付け回す男が現れた。間違いない。私をストーキングしていた男だ。そして確信する。この男なら大丈夫、絶対に殺してくれる。
翌週の日曜日。私はその日に決行するように決めた。理由は特にない。あえていうなら一週間ぐらいで丁度あの男がしびれを切らすのではないかと思ったからだ。今日の野本はいつも通り振舞ってくれた。同情の余地もない、見事だった。まさに死んでも誰も困らない、本来いてはならない人間がここにはいる。さらにストーカー男だ。しっかり付いてきてくれている。こうも見事に思惑通りの行動をしてくれると、私も最大限の演技を見せなければならない。本当にこのカスは簡単に支配できたなあ。そんな感慨深い思いさえ湧き上がってくる。
そして――
本当に殺してくれた。ちょっとしたことで喚き散らかす男も、このどこのどいつとも判らない男も終わりだ。
私はふっと顔を崩した。
「男なんて馬鹿しかいないじゃん」胸に包丁が突き刺さった男と取り押さえられる男を見て私は思わず呟いた。