霊狩ラビリンス①
ある世界、ある国、ある森の中の、ある洞窟。
生きて出ることのできなかった二十の幽霊とそれを狩りに来た死霊神が一柱、それとは別に魔女が一人――迷った。
全二話。
ジンことジャイズンは今、非常に機嫌が悪かった。
淡褐色の瞳は苛立ちで光り、眉と眉の間には少しばかりしわが寄っている。
「あの馬鹿、魔嬢様、一回殺してやろうか」
ブツブツと呟きながら、彼は荷馬車に揺られていた。同乗している干草が臭う。
ひゅぅ、と湿った風が吹き、彼の少しくせのある栗毛が弄ばれた。
ジンはついこの間、十八になったばかりの青年だ。死者を霊界や冥界へ送る【霊狩】や、勝手に異世界へ旅行したモノを元の場所へ戻す【引戻】が仕事である。
彼は風に飛ばされぬようしっかりと持った指令書という名の紙切れの一点を忌々しげに睨んだ。そこには、彼が『魔嬢様』と呼び、苦手としている者の名が書かれている。
ジンは指令書を丁寧に、小さく折りたたんでズボンのポケットへと突っ込んだ。
そして荷馬車に揺られながら、細かく速い呼吸をする。その後に深呼吸を二回した。彼が落ち着く為の呼吸法だ。
後の事を考えて鬱になるよりも、目の前の事を考える方がずっといい。
ジンは、正直いつの間にか入っていた森の、うっそうとした木々の向こうへと投げて捨ててしまいたかった指令書を頭から追い出した。それを気にするのは、これから始める仕事が終わったその後でいいのだから。
「ジン、どうかしたのか?」
彼の様子に気付いた荷馬車の主が、馬を操りながら話しかけて来た。
「なんでもない。気にしないでくれ」
荷馬車の主である牧童は「ふぅん」とだけ呟いて、それ以上は何も言わず、ただ手にした手綱で時々馬に指示を送っていた。
この森が位置する場所の為だろうか。空気はちょうどいいくらいにひんやりとしていて、少しばかり湿っている。途中、小川も見かけた。
緑の中で、鳥が何羽か会話をするように鳴く。がさがさと動物の動く音がし、虫の羽音が聞こえた。そんな豊かな森に、何度も何度も通った為に出来た道。そこを干草とジン、牧童をのせた荷馬車が車輪の音を立てながら進む。
たまに、荷馬車の上から獣道が見えた。ジンがそれを横目に見ていると、獣道にしては若干太いものがあった。その前で、牧童が手綱を引いた。
「馬車が使えるのは、ここまでだ」
荷台の方を振り返り、大きな瞳をした牧童が言う。干草に持たれかかっていたジンは、傍らに置いてあった、たった一つの荷物であり商売道具であるものを取って、荷馬車を飛び降りた。
「この道を辿れば着く。でも、外から眺めるだけにしておいた方がいいぜ。入ったきり出てこなかった奴は、ほぼ全員だからな。
……奇跡ってのは、期待しても起こっちゃくれねぇよ」
獣道の先を指しながら、淡々と牧童が言う。ジンもそちらを見て、分かったと頷いた。
礼を言おうと、牧童の方に向き直って気がついた。彼は唇を噛み、忌々しげに、木と木の間を裂くように伸びる獣道を睨み付けていた。否、その先にある物を、ここからは見えない物を睨みつけている。
彼が自分を見ている事に気がつくと、牧童は気まずそうに眉根を寄せ、そして人懐っこい笑みを浮かべた。
頬が引きつっている。
ジンはそこには突っ込まず、ただここまで乗せてもらった礼を言った。そして、馬に進むよう指示を出した彼を見送る。簡単な別れの挨拶だけを交わした。
荷馬車の音がいくらか小さくなった頃。ジンはそれに背を向けて、獣道を歩き始めた。
この先にあるのは、牧童が睨みつけていたものであろう、大きな洞窟。
もちろん、ただの洞窟ではない。マジョランと呼ばれるその洞窟の中は、迷路になっているのだという。
入った者の殆どが帰らなかったが、数人程生きて出てきた英雄もおり、彼がそう話したのだそうだ。
とは言え、帰ってきた事に変わりは無い。その為に、マジョラン大洞窟に挑戦しようという勇気ある馬鹿は尽きないのだ。
そしてジンは、その挑戦に失敗し、死してなお洞窟で彷徨い続ける霊を冥界へと送る為に来た。彼が好む仕事であり、得意とする仕事【霊狩】である。【引戻】はどうも性に合わない。
ジンは立ち止まり、少し耳を澄ませた。彼の前では真っ暗な洞窟が口を大きく開けている。中からは何者かの声が、かすかに響いて聞こえてきた。
それを聞いた彼は、満足気な笑みを口元に浮かべる。そしてまるで臆することなく、むしろ楽しげな軽い足取りでその中へと入って行った。
彼の商売道具はしっかりと右手に握られ、肩に担がれている。
洞窟の中は涼しく、そして湿っていた。外とはあまり変わらないような印象を受ける。違うのは、足音が響く事と、入口から数歩も離れると、ろくに前が見えないほど暗い事くらいだろうか。
壁に左の指先で触れ、壁伝いに歩く。ある程度眼がなれて、自分の手が届く範囲は見渡せるようになった。その頃、頭上から紫色の淡い光が降ってきた。岩の天井を見上げてみると、掌くらいの長さを持つ、細長くて先の尖った結晶が数本集まって球状になっていた。光源はどうやらそこのようだ。
その光る結晶が現れた辺りから、道が分かれ始めた。十字路になっていたり、先が二つに分かれていたり。
「さすが」
そうジンは呟いた。正に迷路。帰る者が殆ど居なかったのは、これのせいに違いない。
しかしジンは、その事に気付いていながらもすたすたと進んで行く。迷う事をまるで恐れていない。記憶力に自信があっての行動だ。
入口から遠ざかるにつれ、道はどんどん複雑になってゆく。しかし、それと比例するかのように結晶も大きくなって、やはり淡いものの比較的強い光を発するようになる。迷った者を嘲笑っているのだろうか。それとも、励ましてくれているのだろうか?
はじめの頃に比べて、結晶の一本一本が二倍ほどの長さになった頃。最初の霊が見つかった。
硬そうな髪が好き勝手な方向に跳ねてしまっている、ガリガリに痩せた男だ。大きな目玉を光らせて、ゾンビのような足取りで歩く。醜く、あまり眼を向けたくないような姿だった。
ジンは、担いでいた商売道具――もとい、得物を握り直す。数代前の先祖と同じ種族に貰った、細身で黒光りする金棒だ。
六角柱に、細い持手がついたそれは、先の方に高さが低い円錐が十数個付いている。それを振り上げて、霊の上に落とした。
大男は頭でそれを受けたが、生きた人間とは違い、すぅっとその姿が薄くなる。彼が消えると、彼はボソッと呟いた。
「あと十九霊」
そしてまた、次の霊を探して歩き始める。
しかし、そこから数歩も歩いていない時、背後で衣擦れの音がした。振り返ると、少し離れた所に一人の女が立っているのが目に入る。華やかさは抑えられているものの、安くはない、そしてこんな洞窟には不釣合いなドレスを着た、若い大人の女性。ジンが最も嫌いな、魔嬢様が。
「惨い事をなさるのですね」
彼が霊にした、先程の行動を彼女は見ていたらしい。荷馬車に乗っていたとき、ジンの機嫌を損ねていた原因の第一声はそれだった。
彼女の名はレイツェル・ド・ブライアース。数年前に異世界へ飛ぶ為の魔法を開発し、それ以来何度も何度もジンに【引戻】の仕事を与えている。
持ち前の魔術に関する知識、そして天才と呼ばれるほどの発想力。名に『ド』が付いている通り、貴族の……それも、大がつくほどの身分があるために、資金にはまるで困らない。魔法の研究もし放題だ。魔女のお嬢様で魔嬢様、と、彼女に皮肉を言うとき、ジンはそう呼んでいるのだ。
眼を半分伏せ、霊が消えた方を哀しげに見つめるレイツェルを、ジンは睨みつけた。
「……水差しやがって。この魔嬢様」
「あら、正直な意見を申し上げただけですわ。何故そんな事をなさるのです?」
「仕事だから」
即答した彼へと、レイツェルは微笑んだ。
「ご苦労様です。嫌なお仕事ですこと」
微笑んではいるが、その若草色の目はまるで笑っていない。人形にはめ込まれたガラス玉のように、冷たくジンを映していた。
その瞳をまるで気にすることなく、彼はひょいと片眉を上げた。
「俺は気に入ってるが?」
「わたくしは好きになることなんて、到底できませんわ」
「誰も好きになれとは言ってねぇよ」
少しの間があって、レイツェルが口を開いた。
「貴方は……人を殺す事が、お好きなのですか?」
「戦場で暴れるのは大好きだ」
「そうではございませんわ。武器を持たない、弱い者を殺す事がお好きなのかと」
「嫌いだ。つまんねぇしな」
子供のように、彼はそう言った。
「つまる、つまらないの問題ではございませんわ」
徐々にレイツェルの顔が険しくなってゆく。ジンは首をすくめると、「わかった、わかった」と鬱陶しげに手を振った。
「わかっていらっしゃいません」
少し低くなった彼女の声を遮るように、「それはそうと」とジンは言った。
「アンタが自分で、元居たとこに戻ってくれると、仕事が減ってかなり助かるんだが?」
レイツェルはいつも、訪れた世界を充分に堪能しないかぎり、ずっとその場に滞在しようとする。満足していない彼女をそこから引っぺがすのは、かなり大変な作業なのだ。下手をすれば、魔法を使った攻撃までしかけて来る。
今までの【ド・ブライアース嬢引戻作業】を思い出しながら顔をしかめるジン。しかしレイツェルは、彼が連れ戻そうとやってくる度に見せる自信に満ちた表情は浮かべなかった。
代りに、少し俯いて、搾り出すように言う。
「生憎ながら、それは……」
彼女の言葉を遮るように、腹に響く低音が岩に覆われた地を震わせた。ジンは息を飲んで天井を見上げ、レイツェルはその場を急いで離れる。
轟音が止んだとき、目の前の道は塞がっていた。大量の、硬い岩達によって。今そこを通る事ができるのは精々虫くらいのものだろう。
ぱらぱらと、小さな岩の破片が零れ落ちる音と共に、ジンは周囲を確認した。
あるのは彼とレイツェル、光を放ちつづける結晶に、高笑いする大男の霊。
ジンはレイツェルの顔を見、左手でその霊を指す。
「ほら、あんなのが居るから、俺みたいな仕事する奴が必要になる」
「……彼はお亡くなりになっているのでしょう? なぜ岩を壊す事ができるのです?」
「頑張ったんだろう」
「答えになっていらっしゃいません」というレイツェルの言葉を、ジンは無視した。
頑張った、というのは本当のはずだ。努力して、幽霊が持つ仮の体、霊体の使い方を研究すれば、幽霊でも物質に触れたり、動かしたりと、生前できたことの殆どができるようになる。
とはいえ、大抵そこまで行く前に幽霊は冥界へと逝くのだが。
「っしゃぁ! これで完成だ!」
大男がガッツポーズをし、老けた顔に少年のような輝きを宿した。
「……これをやったのはテメェだな」
「そうだ! 凄いだろう、この新しい技!」
「何に使うんだよ」という、ジンの冷ややかな言葉と共に、霊の上に金棒が振り下ろされた。霊は一瞬にして消え去る。
「また……」
「こっちはこれで食ってんだ。他人の仕事に口を挟むな」
レイツェルには冷たい視線をプレゼントしつつそう返し、あと十八霊と小さく呟く。金棒を肩に担ぎなおして、すっかり道を塞いでしまっている岩を見上げた。金棒で叩いてみる。その岩は無駄に硬く、金棒が削れそうなので止めた。
「おい、レイツェル。アンタの魔法でこの岩壊してくれ」
振り返る事はせず、レイツェルに声をかける。少々低い声音になってしまったのは仕方がないだろう。
「無理ですわ」
「あぁ?」
予想とは正反対の返答に、ジンは思わず顔をしかめて振り返る。
「ここでは、魔法は使えませんの」
「じゃあ、さっきのデカブツが使ってたのは何だ?」
「彼は魔法を使っていらっしゃいませんでしたわ。私が分かるのはそれだけです」
レイツェルの言葉で、ジンは沈黙する。顔はしかめられたままで、納得はしていないと訴えている。
「ここに魔力は薄いのです。魔力が無ければ魔法は発動できませんわ。ご存知でしょう?」
「知ってる。でもここは魔界の属界だぜ。アンタの住んでるそこには劣るだろうが、魔法が発動できねぇほど薄いなんて筈はねぇよ」
「貴方は魔法の知識もろくにございませんのね。この結晶が何かご存知ありませんの?」
レイツェルは岩と共に落ちてきた結晶の欠片を拾い、ジンの目の前に突き出す。天井や足元に生えていた、淡い紫に光る結晶だ。
「便利だと思ってたけど。それがなんだ?」
そっと彼女の手を押し避けながら、彼は怪訝そうな表情をする。そんな彼の表情を見て、レイツェルは溜息を吐いた。自分の世界では、子供ですら知っているというのに。
「魔力結晶ですわ。大気中の魔力を全て吸ってしまうのです。大規模な魔法を発動する時に使いますけれど、それ以外ではインテリアにしかなりませんのよ」
専門家の話を、ジンは「ふぅん」という生返事で受け流した。彼は少し首を傾げ、言う。
「大規模な魔法でもいいじゃねぇか。壊せるんだろ?」
レイツェルはそんな彼の言葉に、むっとした表情を作り、腰に手を当てた。ちなみに、その動作は貴族の令嬢らしく優雅なものだったので、あまり怒っているようには見えない。
「ご冗談を。こんな欠片では何もできませんわ。そこに生えた大きな物では、この周辺の全てが吹き飛んでしまいますし……」
「へぇ、そりゃ愉快だな」
喉で笑いながら、そう言ったジンを呆れたように見て、彼女は少し厳しい口調で言った
「愉快ではございません。前々から思っておりましたけれど、貴方の価値観は一度矯正しなければならないようですわね」
自分の背が低い為に身長があまり変わらない年上の言葉で、ジンは首をすくめる。
「結構です。そう簡単に矯正できませんから。……アンタの魔法もダメなら、このまま奥に進むか。他にもルートはあるだろうし」
「えぇ。そうする事にいたしましょう」
レイツェルは頷き、彼に背を向けて優雅な足取りで歩き出した。
ジンも彼女を追って歩き出そうとして、何か硬い石のような物を踏んだ。進んだ後振り返ってみると、先程レイツェルに付き付けられた魔力結晶の欠片があった。欠片となっても淡く光りつづけるそれを拾い、ポケットの中へ入れる。
「お守りにしちゃ頼りねぇけど」
そう呟いて苦笑し、彼が付いて来ていない事に気付いて振り返ったレイツェルの元へと駆け寄った。