魔女と少年
この章のための基本知識図鑑
(基本知識とか言ってる割に読まなくても大体平気)
死霊
死んだ生物。中身も外見も生きていたころと変わらない。もう一度死ぬと冥界へ消える。今回出番無し。
オバケ
霊界の生物。生物の中で唯一、霊体で生まれてくる。今回出番無し。
死霊神
① 霊界の学舎で学んだり訓練したりした死霊やオバケ、その他の霊だけが就ける職業の事。
② ①の仕事をしている死霊のこと。
死神
死んだモノを冥界に送るための生き物。ぶっちゃけ最近ヒマ。今回出番無し。
死霊神の仕事は沢山ある。
死んだことすら気づかなかったり、未練があったりして、元の世界に留まっている霊が居る。それを無理矢理、たまに説得して、冥界へ行かせる《霊狩り》
世界と世界の間、界間を越えて別の世界へ行ってしまった生物を無理やり引き戻す《引戻》等等。
そのまま過ぎるかも知れないが、名前なんてそんなものだ。
「おいこら、逃げるな!」
そして今、とある小さな世界の秋が近づく森の中で《引き戻し》がたった一人の死霊神により行われている。
彼の足は速い、速い。気付くのに早かったからこそ今はまだ捕まっていないのだが、もう追いつかれてしまうだろう。
追われている女は、森の木々の隙間から見える雲一つ無い天を仰ぎ、
「あぁ、おじい様、おばあ様、レイチェルはここまでのようです……。だって、だって……、黒服の変な奴が追いかけてくるのですもの! せっかく、せっかく、異世界渡りの魔法を完成させましたのに! やっと、自由になれたと思ったのに! あぁ、おじい様、おばあ様、レイチェルも間もなくそちらへ……キャッ!」
長いドレスの端をつまみあげて走りながら、何やら長々と一人喋っていた彼女は木の枝に足を取られてバランスを崩す。
柔らかな、長い金色の髪が宙に広がる。金色に縁どられた若菜色の大きな瞳がギュッと閉じられ、そのまま森のやわらかい落ち葉と土の中へ倒れた。
「はぁ、はぁ、貴族のお嬢様のくせしてずいぶん体力あるじゃないですか……レイチェルさん?」
追っ手が、木に手をついて弾んだ息を整えながら、レイチェルの方を見下ろした。
起き上がりって、木の根元に横座りになった彼女も肩を大きく上下させながら言う。
「あいたたた……貴方に体力が無いだけですわ……。はぁ、ふぅ。それでも男の子でして?」
見上げると、そこには、チャイナボタンが付いた黒い革の上着を着た少年が居た。
整った、鋭い顔つき。青みのかかった黒い瞳。後ろで束ねられている、くせのついた黒髪が木漏れ日で青く光って見える。
彼は、
「俺にないのは持久力だけです」
と、言い訳になっているのかいないのか、よく分からない言い訳を言って、木から手を離す。息は早くも整っていた。
「ふふ、ではずっと走っていれば、貴方から逃げ切れるという事ですか?」
「逃げ切る前に追いついて見せます。まだ逃げる気で?」
立ち上がり、ドレスに着いた土や落ち葉を叩き落とす彼女を見て、少年は面倒臭そうに聞いた。
「いいえ、追いかけっこはこれでお仕舞いです」
白く細い指を、ピンク色の唇へ持ってくると、レイチェルは悪戯っぽい笑みを、その可愛らしい童顔に浮かべた。
「これからは、かくれんぼですわ!」
叫びながら、八の字を描くように、舌で舐めた指を動かした。
少年の周りに、大風が吹く。
レイチェルは、座ったまま地面に魔方陣を描いておいたのだ。魔方陣のすぐそばに居る、彼女以外の者を攻撃する風の魔法。
攻撃と言っても、ただの目くらましなのだが。
レイチェルは今まで走ってきた獣道から抜けて、木と木が絡み合い、迷路のようになっている中へ入って行った。
枝を飛び越え、歩けそうなところを探して奥へ奥へと進んでいくうちに、ふと思った。
「…………どうやって森を抜けましょう……」
逃げる事しか考えていなかった自分の馬鹿らしさに溜息を吐く。
こうなったら一度捕まって……と、考え始めてから、そもそもなぜ追われているのかも分からなかったので、それは
「没ですわね……。えぇい! 私なら何とかなりますわ! 多分! きっと! 恐らく! 今までも、何とかなったではありませんか! えぇ、大丈夫ですわ、レイチェル。今するべきは逃げる事です!」
本来なら大声で叫びたいところだったが、そんな事をして捕まってはそれこそ馬鹿みたいなので、出来る限り小声で、自分でも声が出ているのか分からないような声で自分を励ます。
「自分は大丈夫と思った奴が一番危険なんですよ。知ってました?」
ビクッと体を震わせて、レイチェルは慌てて振り返り、後ずさる。
いつの間にか、少年がすぐそばに来ていた。
笑みのようなものを無理やり押さえ込んだ無表情。さっきまでの、ただの無表情とは少し違う。
しかも、体がうっすらと、淡い青の光を放っている。こんな森の奥のように、暗くなければ分からないほどの光だ。
「な、なんでここに……それにあの魔法はしばらく貴方を追い続けるようにしたはず……」
「俺は死霊神です。そりゃあ、今は貴女を追ったり話したりするために貴女にも見えるよう実体化していますけど……本来は霊体なんです。実体無いんです。幽霊同様、何でもすり抜けられますし、魔法も標的が無くなっては意味がありません。後は貴女を追うだけです。これで満足ですか?」
淡々とした口調で説明すると、少年はレイチェルに近寄ってきた。
彼女はあきらめたように溜息を吐くと、背中に当たった木に寄り掛かる。
「死霊神……? 私は死ぬのですか? それとも、もう死んだのでしょうか。異世界渡りの魔法は、完成していなかったと……?」
「いいえ。貴女は世界を渡っただけ。その魔法は完成していますよ。完璧に。でも、文化やら技術やら、勝手に持ち込まれては困りますので……貴方には元居た世界に戻っていただきます」
同じ高さにある顔が、そう言った。
レイチェルは、線香花火のような淡い光を見て、好奇心から聞いてみた。
「死霊神とやらは、皆あなたのように光っているのですか?」
「いいえ。何でか知らないけど、時々光るんです。困ってるんですよ、光ってる時、どうしても血が見たく……」
口角をあげて、狂気的な笑みを浮かべかけた彼は大きく首を横に振り、その笑みを消す。
「失礼しました。とにかく、貴女を元居た世界に戻すので、抵抗しないでくださいよ……今の俺じゃ、下手すりゃ冥界に送ってしまいます」
そう言って少年は、レイチェルの手を掴んだ。黄と白の間くらいの色をしたその手は、妙に冷たく感じた。
彼女は静かに目を瞑り、
「…………分かりました。大人しく戻りましょう。私だって、命は惜しいですもの」
そう言うと、森から二人の姿が、消えた。