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Mr.サンダース氏と悩める新米神父

作者: rai

この文章には知ったような物言いが含まれています。嫌悪感を感じられる方は戻るボタンを押して頂くようお願いいたします。

 Mr.サンダース氏はカトリックの敬虔なる信徒だ。彼は経営する会社が軌道に乗っているのも、妻との間に可愛らしい二児を儲けることができたのも、ハムエッグを作るために割った卵から黄身が二つ出てきたのも、全て神のご加護があってのことだと思っている。だからミサには必ず参加したし、どんな小さな罪でも告解し神に赦しを乞うた。その信心深さは町でも有名であり、礼拝する姿が地方紙に掲載されたこともあるほどだ。

 そんなサンダース氏の住む町には立派な聖堂がある。外観もそうだが何より深い歴史に裏打ちされた格式があった。そのような聖堂に配属されることは非常に名誉なことである。格式高い聖堂に配属された新米神父は当初心を躍らせていた。もっともそれは自尊心をくすぐられたからではない。彼には倨傲(きょごう)を抑えられる鉄の自制心があり、他者を力の限り助けたいと思える慈愛の心があった。つまり彼が心を躍らせたのは、格式高い聖堂ならば迷える人々をたくさん救うことができると考えたからなのだった。

 しかし現実は違っていた。告解室で聞かされる悩みは取りとめないものばかり。特に中年のご婦人などは告解室を井戸端会議の会場と勘違いしており、軽い調子で他愛もないことをぺちゃくちゃと喋り続ける。そのくせ必ず、私は赦されるのでしょうか、と語末を締めるものだから話しを聞いているふりをするわけにもいかない。また、告解室に来る人々は神から赦されることに密かな満足感を覚えているふしがあり、主は赦すでしょう、と軽々しく言葉にするのも抵抗を覚えるのだった。

 とある清々しい早朝のこと。サンダース氏はネクタイをいつもより強く引き締めながら溜息をついていた。原因は六歳になる息子の好き嫌い。敏感な嗅覚がそうさせるのか、それとも子供の眼から見て燈色は食べ物に相応しいと思えないのか、とにかく息子がニンジンを食べずあまつさえ初めて明確な反抗をしたことに激怒してしまったのだ。なるほど大人という仮面を投げ捨てて怒り狂うほどのことでもないように思える。むしろ初めての反抗に子供の成長を感じ取って喜んでもいいくらいだろう。だがサンダース氏を激しく非難するわけにはいかない。彼は激怒に至るまで毎日毎日我慢強くニンジンを食べるよう言い続けてきた。その帰結が、ニンジンの突き刺さったフォークを父親に向かって投げるという息子の蛮行なのだから、目に入れても痛くない息子に眼薬を入れても治らないくらい血走った瞳を向けてもおかしくはなかった。

 だが今や怒りは収まった。冷静になったサンダース氏は、少しずつ髪が後退している額にごつごつした手を当てて頭を振った。子供相手にあそこまで激怒しなくても良かったのではないかと考えながら親指の爪を噛む。彼は後悔し、反省することが出来る人間なのだ。であればこそ、この町でひとかどの人物になれたのだ。ただし自身を救うことはどうしても出来ない。救われるには主の赦しが不可欠なのだ。

 腕時計を確認すると、出社までにはそれなりに時間があった。サンダース氏は車のアクセルを踏み込み、聖堂へと向かった。

 一方聖堂では新米神父が頭を抱えて悩んでいた。人々の罪を救う崇高な使命の意味が、引き延ばされたマーガリンのように薄れていくことを自覚せずにはいられない。しかも足りないと思えば足せるマーガリンと違い、情熱は簡単に足せないのだ。そして遂に、彼の心の中で一日一日ごとに成長していた鬱積がこの日爆発することになる。

 哀れな犠牲者となったのはサンダース氏だった。告解席に人の姿はなく、すんなり告解室に入ることの出来た彼は、仕切り窓を隔てた先に居る新米神父の声が幾分暗いことに気が付かなかった。自分の罪を赦してもらおうという思いで一杯なのだ。新米神父の機微を読みとるなど無理な注文だろう。

 軽い挨拶を経た後に告解が始まる。新米神父が、サンダース氏に問うた。

 「今日はどのような悩みを抱えていらっしゃったのですか?」

 「はい…私は罪を犯しました」サンダース氏は縋るような声色を含ませてもう一度言う。「罪を犯したのです」

 この段階で二人は対面している相手が誰であるか互いに気がついていた。聞き慣れた声なのだ。新米神父にしてみれば、またか、という気持ちが拭えない。サンダース氏はこの町の誰もが口を揃えて立派な人物だと紹介するだろうが、告解室の中では、或いは主の前では中年のご婦人方と大して変わりはない。新米神父はそう思っている。

 「どのような罪を犯したのですか?」

 「ああ、主よ、御救いください。私は必要以上に子供を叱ってしまったのです。子供のわがままに、理性を捨ててしまったのです」

 「わがまま。それはどういったものだったのですか?」

 「私は毎日息子に、ニンジンを食べるように、と言っています。しかし息子はニンジンを残すのです。今日はニンジンの刺さったフォークを私に投げてきました」

 そうですか、としか言いようがない。果たしてこんなちっぽけな罪のためだけに主は労力を割いて罰を与えるのだろうか。人を救うという情熱に燃えていた新米神父の心に残った燃えカスがそう訴える。

 主は赦すでしょう、と言えばこれで終わりだ。子供の傲慢さを寛大な心で受け入れるのも主からの試練なのです、と付け加えればサンダース氏は涙を流して感謝するだろう。しかしそれでいいのだろうか。恐らく数日後サンダース氏はまた告解室にやって来るに違いない。

 そして再び、主は赦すでしょう。

 果たしてこんな人々を救済する意味などあるのだろうか。いや、そもそも彼らは本当に救済されているのだろうか。

 「そうですか」新米神父の両手は震えていた。唇も震えていたが、どうにか声を狂わせずに済んだ。

 そして沈黙が落ちた。サンダース氏が、不安に眉根を寄せる。いつもならここで、主は赦すでしょう、と言われるはずが今日は様子が違う。それにこの真綿で首を絞られるような沈黙の発生源は、何なのだろうか。

 悩める神父がやっと口を開いた。しかしその口から吐き出された言葉はいつもと違っていた。

 「主は仰っています。これ以上告解だけで罪が赦されることはない。赦すには、それ相応の代償が必要だ、と」

 それは宣告だった。相変わらず神父は震えていたが、声には有無を言わさぬ朗々とした響きがあった。人を救うはずの神父が、人を救う場所である告解室で無情な宣告を行う。まず罪悪感と恐怖が新米神父の中で生まれ、次に何とも言えない達成感と勇気が湧き上がった。主を裏切ることでパンや葡萄酒が毒に変わるのならば、それを皿まで喰らう覚悟が今の彼にはある。

 ところでサンダース氏は呆けた表情で首を軽く捻っていた。新米神父から告げられた宣告を咀嚼するまでに四十回ほど瞼が上下し、咀嚼してからは鼓動が寿命を使い果たす勢いで暴れ出す。犠牲者は憐れに戸惑い、しかしこれは嘘なのだと、宣告の続きがあるのだと心の底で信じて疑わない。

 だが続きは訪れない。再び無情な沈黙が漂うばかりだ。

 サンダース氏は確かに可愛そうな、憐れな犠牲者だ。ただ彼がもう少しばかり罪らしい罪を告解したならば、また新米神父の声がもう少し自信のないものであれば、この結果はおとずれなかっただろう。

 さて、サンダース氏が宣告に続きがないことを受け入れようとするまでにしばらく時間が掛かった。数分たって彼はようやく大きく息を吸い込み、そして喉から絞り出した小さな声に一縷の希望を乗せた。

 「主は、赦さないと……本当に赦さないと、仰ったのですか?」

対する神父の言葉は否定だった。

 「いいえ。赦さないとは仰っておられません。代償があれば赦すと、そう仰せになっています」

 「…代償、ですか?それはその、どのようなものを払えばよいのでしょうか?」

 「主は、あなたが迷える人々を救うことができたなら、あなたの罪を赦すと仰っています」

 「私が迷える人々を救う?」

 サンダース氏は信仰心厚い信者だが、主の御心が聞こえた事はない。それはいつも神父を通して聞くものなのだ。主の御心が聞こえない自分が他者を救うことなど出来るはずがない。彼の疑問符には、そんな非難も混ざっていた。

 「そうです。今日一日、あなたは私の代わりに告解室で人々を救うのです。良いですね?」

 「そんな、無理です。私には無理です」

 「そうですか。であれば主はあなたをお赦しにならないでしょう。あなたが赦されるには、他者を救うしかないのです」

 もう犠牲者の顔はぐちゃぐちゃだった。鼻水と涙が混ざりあい、冷や汗が額に浮き出る。彼は今、一歩踏み出せば落ちてしまう崖の上に立っている。新米神父の無慈悲な一撃を待つだけの獲物になってしまっているのだ。

 「赦されぬ罪はいずれあなたを滅ぼすことになるでしょう。いえ、それも良いのかもしれません。主の裁きを甘んじて受けることも、時には必要でしょう」

 最後の一撃が振り下ろされた。狡猾な物言いで獲物を崖から突き落とした新米神父は熱に浮かされていた。自分が対面している人物より遥かに優れた人種であるような錯覚も覚えた。優位は人を残酷にさせるのだ。

 もうサンダース氏に選択権はなかった。幸か不幸か、聖堂の管理者である年老いた神父は遠方に出かけていて、それですんなり事が進んだ。人目を盗んで告解室の神父側の部屋に入ったサンダース氏に新米神父はあくまで強気で助言する。こうしてこの日、サンダース氏は人々を救う側になったのである。

 ちなみに仕事を休まなくてはいけなくなったサンダース氏は秘書にその旨を伝えたのだが一刀のもとに切り捨てられた。重要な会議があり、経営者であるサンダース氏が出席しないわけにはいかなかったのだ。だが、休まなければ私が滅びてしまう、と何度も主張するサンダース氏の緊迫した物言いに、頭の休息が必要だと思ったのだろう。最後には渋々了承したのだった。



 それから一時間ばかりが経過した。最初は緊張し、口ごもりながらでしか話せなかったサンダース氏も、神父という立場に少しだけ慣れていた。人々の口から罪らしき罪が告解されなかったことが大きな要因だろう。最後に赦しを求める人々に、決まった言葉を掛ければそれで万事がうまくいくのだ。とはいえサンダース氏はやはり主に畏怖の念を抱く信者であったから、神の御心を聞かずに決まった言葉を掛けることに抵抗があった。主との対話を何度も試み、その度にやって来る静謐に両手で顔を覆った。

 しかしそんな抵抗も更に数時間すると消え失せていた。コインを入れられれば商品を吐き出す自動販売機のように、赦しを求められればひたすらそれを与える。赦しを求める人間も、赦す自分も、なんだか滑稽に思えて仕方がない。なにせこの告解室には主が存在しえないのだ。

 告解席で順番を待つ人間がいなくなった事を認めたサンダース氏は大きな欠伸をつき、目を擦った。下らない告解を聞き、同じ言葉を返すのにも飽きてきていた。腕時計で時間を確認する。先ほど確認してからまだ二十分も経っていない。時間が凄まじく遅く感じられる。

 数十分して、告解室の扉が開かれる音がした。睡魔と闘っていたサンダース氏は慌ててぶるぶると顔を左右に震わせる。そして決まった第一声を告げた。

 「今日はどのような悩みを抱えていらっしゃったのですか?」

 捲し立てるように返答をする人物なら聞くに徹する。ぽつぽつと重々しい事のような返答してくる人間なら適当に相槌を打つ。何も言わないのであれば、口を開くまでひたすら待つか、明るく話しかけてあげる。数時間の経験で学んだことを機械的に実行しようとしていたサンダース氏だが、告解室に入って来た人物の反応はそのどれとも違っていた。嗚咽が聞こえてきたのだ。

 「だ、大丈夫です。どのような罪でも本心から後悔し、ええ、後悔するならばきっと主は赦されるでしょう」

 あらん限り優しくそう口にする。すると嗚咽はますます激しくなり、サンダース氏は久しぶりに、主よ、と願わずにはいられなくなった。

 その願いが通じたのかどうかは分からない。だが嗚咽は次第に勢いをなくし、告解室に入って来た人物は声を震わせながら喋り始めた。

 「私は…私は、とてつもない罪を、おかしたの、です」

 「とてつもない罪?」

 サンダース氏の心が昂る。そんな罪を神父でもない自分が救うことができるだろうかという不安と、聞き飽きたつまらない告解とは違った大いなる罪の予感に期待をしていたのだ。

 「私は、人を騙してしまったのです。悪魔の囁く誘惑に負けてしまったのです」

 おや、とサンダース氏は首を捻った。震える声は聞きとりづらく、そのせいで今まで気が付かなかったのだが、この声には聞き覚えがあったのだ。

 「誘惑、ですか。それは、どのような?」

 「それは…」ここで聞いた事のある声の男は躊躇った。「主の御心を偽れ、と。そのような誘惑です」

 「具体的にはどのように主の御心を偽ってしまったのですか?」

 この日の告解室には幾度となく沈黙がおりた。しかしサンダース氏は初めて、沈黙に緊張を感じなかった。彼の沈黙は要求の沈黙であり、それは優位なものに与えられる特権なのだ。

 「……私は聖職者です。しかし私は悩める人々の救済に意義を感じられなくなっていたのです。同じような告解を繰り返し行う人々を本当に救済出来ているのか、分からなくなったのです」

 「…そうですか」

 「そして今日、私は救いを求めにきた人物を騙してしまいました。救いを求める彼に、主は赦さないでしょう、と告げてしまったのです」

 予感はあった。声から、話す内容からそうではないかと思っていた。サンダース氏は顎に手を当て、仕切り窓を隔てた先に居る人物を、即ち新米神父を思い描いた。つい数時間前の強気な彼は消え失せていて、聖職者であるにも関わらず主の御心を偽った自責の念と、主の言葉を偽って人を騙して罪悪感に囚われていた。 一時の勇気と高揚が時間によって失われた彼は、酷く小さく、そして弱々しい人間だった。

 サンダース氏の口が自然に開いた。理由は分からないのに。これまで新米神父の一言によって救われてきたからなのか、彼を憐れと思ったのか、真に悩める彼を救いたいと思ったのか、聞き飽きた告解ではなかったことに心を逸らせたのか、優越感なのか。

 「主は」この告解室には主が存在しないのにはっきりと、そして強く。「主は、赦されるでしょう」

 そのたった一言で新米神父は救われたのである。言い飽いた言葉に救われたのである。神父は再び嗚咽する。サンダース氏は、騙された怒りがないわけではなかったが、その安堵に満ちた嗚咽を聞いて、満足そうに腕を組んだ。

 サンダース氏は確かにこの日、迷える人を救ったのだ。



 筆者は絶対者である主の、神の存在を信じてはいない。しかしもし主が存在し得るならばそれは人の心の中にだと思うのだ。だからこそ人は自分を救い他者を救い、そして救われることが出来ると思うのだ。


 余談ではあるが、この出来事の後サンダース氏は殆ど聖堂を訪れなくなった。また、神父は下らないと思える告解にも真剣に耳を傾けるようになり、告解室を訪れる人々を自分の力で少しでも救うことが出来ればいいと、そう思うようになったのだった。


カトリックについて殆ど知らないので、おかしな部分もあると思いますが目を瞑って頂けるようお願いしたい次第でございます。

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