第七話 呪文のように
音羽が都に来てから、調度四日後のことだった。
都の中心、そして政治の中心でもある陰陽寮では、緊急に会議が開かれた。
その結果、正式に音羽を都へ迎え入れる許可がおりたのだ。
これは過去に前例のないこと。
そして意外なことに、会議の席ではなぜか蒼雪が率先して音羽を支持したという噂だ。
「弟への気遣いとでも言いたいのか。それとも……」
兄は陰陽博士の位についている。
周りの者よりも妖しの力が強く、優れた知識を持った陰陽師にしか与えられない位だ。この都には二人しかいない。
主な仕事は、陰陽師候補の生徒に対して指導をするいわば学校の先生だ。
そのため立場上、嫌でも会議には出なければならない。
だが抱月は言うなればただの一兵士。
いくら自分が連れてきた少女が問題になったとはいえ、もちろんそんな場には出られるわけがない。会議の結果をもどかしく待っていることしか出来なかった。
あの噂がどこから流れてきたのかはわからない。
しかしもし本当ならば、兄に対して抱くのは感謝よりもむしろ不振や疑問の気持ちだ。
そこで見上げてくる少女と目が合うと、抱月は今頭の中にある考えを別のものと切り替えた。
「これから、さくやちゃんのとこへ行くの?」
白い朝日が廊下に長く光る。
そのまぶしさに思わず目を細めつつも、音羽は期待を込めたような顔で前を見据えた。
陰陽寮の中に、まだ人の動く気配はない。
「あれから少し良くなったみたいだから」
「さくやちゃんと会えるの、うれしい」
音羽の背中を押して歩き出した。
時が経つにつれて、この少女は沢山の言葉を話すようになってきている。
獣人がこれほどまで高い知能を持っている事に驚きつつも、やはりこみ上げてくる嬉しさは大きい。
「あいつもきっと喜ぶよ。こんなに音羽が喋れるようになったし」
「本当? 私、もっと話したい」
毎日のように獣人狩りに出ていたため、こんなにゆっくりと時間が過ぎていくのは久しぶりな気がした。
隣にいるのは間違いなく、敵であるはずの新生種。常識から考えれば、まずあってはならないことなのだろう。
けれど今こうして、二人が並んで歩いている。
音羽も親を失った身とわかった今、抱月はますます彼女に親近感を持ち始めていた。
そして言葉では言い表せないような満足感と、少しの戸惑い──今までこんな事を考えたことがあっただろうか。
抱月の心の中はいつになく穏やかだった。
* * *
音羽の顔を見た瞬間、桜夜は嬉しそうな顔をした。
まだ起き上がることは無理なのだろう。それでも桜夜は布団の中から重たそうに腕を伸ばし、少女の手を取る。
「よし。ちゃんと生きてるな」
「さくやちゃん、ありがとう」
音羽はそっと手を握り返した。
「もう駄目かと思った。はは、あたしもまだまだ弱いな」
「そういう問題じゃないだろ。それより、具合はどうなんだ。少しは良くなったのか」
「少しはね。まあ、寝てりゃ治るさ」
つまらなさそうな顔をしている。そういえばいつだったか桜夜が足を折った時、まだ治りきらないくせに、つまらないからと勝手に走り回っていたのを思い出した。
彼女は運悪く階段から転がり落ちて回復が余計に遅れ、その時一緒に走り回って遊んでいた抱月は色んな人からこれでもかというほど叱られたのだ。
「勝手にいなくなるなよ。お前はちょっと良くなるとすぐに動き回るからな」
「はいはい、ご忠告感謝しますよ」
すました顔をして返事をした。おそらく忠告なんて全然聞いていないのだろう。
「今日は音羽に都を案内してあげるのか」
「いや……仕事なんだ」
思ったよりも明るい声は出てきてくれなかった。自分でも驚くほど重い一言になってしまい、一瞬にして気まずい空気が流れる。
「音羽のことは、亜矢に頼もうかと思う」
仕事──獣人狩りにでるのは仕方のないことだ。
獣人は妖しの力に惹かれて都にやってくるらしい、という説がある。
この都の者は皆、わずかだとしても妖しの力を持っている。それゆえに、毎日のようにこの力は使われる。
傷ついたものの回復のため、占いのため……千の一族の日常には欠かせない力だ。
現に獣人は都の近くを徘徊しているし、侵入してこようとする者もいる。妖の力に惹かれてやってくるという説は、正しいものとして皆が信じている。
「じゃあそろそろ行くから。また来るよ」
これ以上は何も言えなかった。
音羽が仕事について何かたずねてきたらどうしようか。それだけが気になって。
抱月の胸中を知ってか知らぬか、桜夜は音羽だけに笑いかけた後、頭から布団をかぶってしまった。
穏やかな気持ちが、どこか遠くへ消え去っていくのを感じていた。頭の隅の方から、気持ちが切り替わっていく。
新生種を駆除しなくてはならない。それが出来るのは、自分達だけなのだ。
どちらが正義かなんていうのは問題ではない。こちらから見れば向こうが悪だが、向こうから見ればこちらが悪なのだ。
自分達を殺そうとするなら、その前に殺さなくてはならない。
幼い頃から教えられてきた理屈を頭の中で何度も唱えた。呪文のように。
“どうして殺さなくてはならないのだろうか。共存する方法はないのだろうか”
「綺麗事」という隙間から湧きあがってくるその疑問に蓋をして、呪文のように。
* * *
「私の名前は亜矢です。よろしくね」
緊張感を覚えつつも、亜矢は笑顔で話しかけた。
すると目の前にいる少女は一瞬ひるんだような顔をしたが、すぐに口の両端を吊り上げてみせた。
「私、音羽です。よろしく」
「じゃあ、今日は一日音羽のことよろしく頼むよ。なるべく早く帰れるようにするから」
隣に立っている抱月が音羽の背を軽く押して、亜矢が返事をする間もなくこちらに背を向けた。彼の雰囲気や表情が、普段見せているものとはどこか違う近寄りがたいものだということに気づいた。
「お預かりします。お気をつけて」
去っていく抱月は、こちらを一度も振り返らなかった。きっと今は音羽の顔を見たくないのだろう。
「抱月、どこへ行くの」
「お仕事だよ」
これしか言葉が思いつかなかった。
音羽はどう思っているのかわからないが、誰だって同種を殺されるのは気分が悪いだろう。
陰陽師にとっての仕事とは、獣人を狩ることなのだから。
「さて。じゃあ外に出て都の中でも歩こうか。お金は預かってるし。音羽ちゃん、好きなものなんでも買ってあげるよ」
「私外に行きたい」
「じゃあ早速行こう」
「……外に行きたいの」
遠くを見据える瞳。
彼女が行きたいのは、この都──「京栄」の中ではないらしい。
「外って、都の外に行きたいの?」
少女は黙って頷き、それ以降は視線を泳がせ亜矢と目を合わせようとはしなかった。
ふと疑問が浮かぶ。外の世界へ行きたいという重大な事を、どうして抱月ではなく自分なんかに言うのだろうかと。
「あのね、この世界には安全なところがこの都しかないんだよ。人間はもう、私達陰陽師の一族しかいないんだよ」
「どうして。私は、都の外から来たよ。外にも沢山人がいたよ。どうして陰陽師だけなの」
それは人ではないと、どうして言えるだろうか。
彼女にとってみれば、獣人も人なのだ。生きている物に「人」という言葉を当てはめるのならば、の話だが。
「ごめんね。私は外にでちゃいけないから。音羽ちゃんも、もう外には出ないで。お願い」
「でも……抱月は外に行ったんでしょ。私も一緒に行きたい」
あなたの一族は、この都を襲って来るんだよ。本当はあなたも殺されるはずだった。
私が生まれる前からずっとずっと、獣人と陰陽師は敵同士。だから陰陽師は獣人を殺すんだよ。それがこの世界の決まり。
口が裂けても言えないその言葉は、頭の中を渦巻きながらやがて消えていった。
獣人について、詳しいことは亜矢にもまだわからない。だから安易なことは言えない。
「そっか、抱月様のこと心配なんだね。でも抱月様はちゃんと帰ってくるから大丈夫だよ」
今だ彼方を見つめる音羽の手を引き、亜矢は歩き出した。