第五話 決意を抱えて
どこか神秘的な、つまり妖しの力を感じ取ったのは、南門から帰ってくる途中のことだった。
自分達「千」の一族だけが引き継ぐ能力。
一種の魔術とでも言えばいいのだろうか。一般の古代種には見られなかった不思議な能力を自分達の先祖は持っていた。
「どういう事だよ」
後悔の念がどんどん膨らむのを感じながら、久しぶりに息が切れるほどの速さで舞い戻ってきた。
しかし家の前にたどり着いたとき、目の前に転がっていたのは二対の白虎像だった。
意図的に壊されたのだ。無造作に欠けた前足に、ひびの入った頭。何も語らない彼らが、余計に抱月の不安を強くする。
「何があった!」
飛び込んだ部屋に、いや、壁がもうないので部屋とは呼べないかもしれない。瓦礫の上に、仰向けで倒れている人間がいる事に気付く。
「どうしたんだ。おい、音羽はどこだ。なんでお前一人で」
首筋を火傷している。白い着物はあちこち擦り切れ、血で赤い模様が出来ていた。
彼女の胸倉を掴み力任せに揺さぶるが、その首は面白いようにガクガクと笑うだけ。
「桜夜、ふざけるなよ……何やってんだよ」
一種の恐怖を覚えた。なぜ目を覚まさないのだろう。嫌だ、そんなのは嫌だ。
無理矢理に彼女の上半身を起こし、自分の腕にその背中を寄りかからせ手首を取った。かすかな鼓動があるのを感じ、少し緊張の糸がほぐれる。まだ生きている。
いくらか混乱が治まったところで、ほんのわずかに残っている気配を探る。
もちろん全部がわかるわけではない。この場に残った妖しの力から、術を使った者をたどるのだ。
しかし抱月はあの時すでにわかっていたのかもしれない。桜夜の家を出たあの瞬間から、誰が何をしに来るのかということが。
「う……抱月、か?」
うめき声に気付いて見ると、桜夜は自分の力で起き上がろうとしていた。
「間に合わなくてごめん。俺がもう少し早く戻ってきていたら」
「早く行け。音羽が」
そのつまるような口調は、むせ返るのを必死にこらえているからであろう。両手を床に付きながら話すたびに、彼女の口からこぼれ落ちる鮮血。
「連れて行かれた。多分、陰陽寮へ。蒼雪様が、音羽を狩りに来た」
言葉が切れたと同時に咳き込んで、血溜まりは無情に広がっていく。
口で手をふさいで抱月に背を向け、さらにニ・三回咳き込んだ後、桜夜はゆっくりと呼吸を整える。
「あたし、大丈夫だからさ」
「駄目だ、一緒に行くんだ。かついでやるから」
「ふざけるな!」
刹那、桜夜の妖しの力が一気に膨張し、それをまとった腕が飛んでくる。
軌道に沿って金の光が生まれ、思わずよけた抱月の鼻の先でうなるような低い音がした。
「いい加減に、綺麗事言うのやめろ。お前が一番守りたいのはなんだ。お前の目的は何なんだ。都へあの娘を連れてきたのは一体誰だ」
血に染まった桜夜の顔が再びこちらを向いた。厳しくしかめた顔には、涙が浮かんでいる。
「綺麗事だけで……あたしも音羽も助けようって、全部自分の手のひらにおさめようなんて、そんなの無理に決まってるだろ。考えろよ、それじゃ何も残らねえんだよ!」
桜夜の吐いた血が、抱月の顔や着物に飛び散った。
「何ほうけた顔してるんだ。行け、馬鹿!」
頭の中がまた混乱に支配されようとしていた。
自分があの場を離れたのが悪かったのか、それとも、ただ運が悪かったのだと安い答えを出すのか。浮かんだ考えを検討している暇はない。
「頼むから、死ぬなよ」
強く念を込めながら桜夜を横たえる。心の中で、古くから伝わる言葉を唱える。
“貴女の回復と、我の行く先を照らし賜え──急急如律令”
急々に、律令のごとく行え。最後の言葉は、自分に言い聞かせるように。
走り出して間もなく、曇り空から大粒の雨が降り出した。
* * *
オレンジの明かりが揺らめいている。
抱月は障子を勢い良く開け、その先にいるはずの彼の姿をとらえて少し拍子抜けしてしまった。その空間は、なんとも穏やかな雰囲気に満ちていた。
「やあ抱月、今帰ったのか。やっぱり懐中電灯や蛍光灯よりも、ロウソクの方が落ち着くとは思わないかい」
部屋の中央に座っている男が抱月に笑いかけた。しかしその低温な表情で、途端に居心地が悪くなる。
「ふざけないでください、兄様」
「何が? ふざけてなんかいないけど。そういや今日は少し仕事が増えてしまってね。でも、今終わるところだから一緒に帰ろうか」
だが彼は依然としてあぐらをかいたまま動こうとはしなかった。まるで何もかも、わかっているかのように。
「音羽を、返してください」
ひたひたと、抱月の衣からは雨水がしたたる。やけに大きく聞こえるその音が、自分の鼓動と重なっていく。そしてあの桜夜の弱々しい鼓動と。
「そうか、やけに頭が痛むと思ったら。外では雨が降ってるんだね」
「蒼雪、もう一度だけ言う。音羽を返してくれ」
「その言葉、今ならまだ聞かなかったことにできるけど。あの娘は俺が殺してあげよう。そうだなあ、都に侵入しようとした新生種を、君が狩ったことにすればいいんだよ」
抱月はすでに刀へ手を掛けている。それを知りつつ、彼は恐ろしいほど冷静だった。
むしろ挑発的な口調とさえ取ることも出来るだろう。微笑を浮かべる自分と良く似た顔の男が、なんだかいつにも増して奇妙だった。
「今日届いた報告、知ってるかい。都の北側にある旧京都の前で、犬型の新生種が死んでいた。倒したのは君だね。でも、それよりさらに東へ進んだところにもう一つ死体があったんだ」
「だから何だっていうんだ」
「まあ、怒らずに聞いてよ。その死体というのが、面白い事に人型だったのさ。性別をわけるとすれば、女ということになるんだろうね。これがどういうことかわかるかい」
蒼雪はため息混じりに目を閉じ、その後ゆっくりと立ち上がった。
もちろん、自分の傍らに置いてあった黒い刀を手にしながら。
「その女の新生種の背中には、三本の爪跡。驚く事に、君が倒した犬型の新生種の爪と一致した」
「だとすると、音羽は」
「まだ検査の結果は出ていないけど、おそらく殺されたのはあの娘の母親だろうね。彼女は天涯孤独の身というわけか。さて、君は都を守る陰陽師。そしてあの娘は母も亡くしてさまよい続ける運命にある獣人。いくら興味を持ったからといって、あれでは妾にすらならないよ」
クスクスと声がする。
何がそんなに面白いのか、何に対して笑っているのか。
硬く鞘を握り締めた自分の手が、いつの間にか震えていた。
「蒼雪、今決めたよ。あの子は俺が守る。たとえ誰に何を言われようとも」
「そうか。君がどういうつもりであの娘を拾ってきたかなんて、知りたいとも思わないけど……あくまで俺に逆らうつもりだね。わかった、刀を抜け抱月」
白と黒が向かい合う。広がる空気の波紋が、徐々に張り詰めて行く。
幼い頃から何度も手合わせをしてきた。兄の癖や、細かな足の動かし方。どれも全部良く知っている。
しかしこの数年間、忙しいというのを理由に稽古をする時間はなくなっていた。その上、真剣を向け合うのはこれが初めてだ。
じりじりと間合いを縮める。
獣人相手に戦うのとはわけが違う。歳の差と実力共に、まるまる四年分違う。勝てるのかはわからない。
そしてほぼ同時に床を蹴った。抱月は迫る刃を一度受け止め、流しながらすれ違う。
再びお互いが向き合った瞬間、ふっとロウソクの火が消えて白い煙が漂う。
「俺には弓の方が合ってるみたいだ。刀は難しいね」
言葉とは裏腹に、黒の刃はこの上ないほど速く正確に切り込まれた。寸前でかわして、彼の懐目掛けて横に刀を払うが、すでに残るは残像のみ。
「こっちこっち、左だよ。ちゃんと目で追わなくちゃ。急に真剣で勝負なんて、さすがに君には荷が重すぎたかい」
また鋭い太刀が叩き込まれる事を予想して、抱月は改めて姿勢を正す。
しかしここで蒼雪の方が構えの姿勢を解いた。さも友好的に、刀を持ったまま両手を広げてみせる。
「大丈夫かい。その腹から血が出てるのは見間違いじゃないよね。俺はまだどこも切ってないはずだけど。さて、一体どこのだれに引っ掻かれたのかなぁ。そうだ、なんならもうやめようか。ただしあの娘は返さないけどね」
「それで俺が同意すると思うか? それより、いつのまにそんな殺気の出し方覚えたんだ。兄弟に対して向けていいものじゃないと思うんだが」
「そうかな、あんまり自覚ないや。でも新生種の駆除と探索、それから調査はあくまで仕事だから仕方ないんだよ。俺に睨まれたくないんなら、君はもうあの娘とかかわらないことだ」
「あいにくだが断る」
そして一歩、踏み出そうとした時だった。
「やめてください!!」
張り詰めた叫び声。
見れば廊下に立っているのは、蒼雪の教え子だった。
「蒼雪様、抱月様。どうか、刀をお引きください」
これには蒼雪も驚いたようで、表情こそ変えないが、彼の周りの空気が一瞬にして緩くなった。切り替えの速い男だ、意図的にそうしたのだろう。このまま殺気のこもった部屋に入れば、途端にこの少女は立っていることすら出来なくなるはずだ。
「なんだ、亜矢じゃないか。帰ったのかと思ってた」
「申し訳ありませんでした。言いつけどおり、弓を取りに走ったのですが。それが、途中で、その、見つかってしまって」
何とも言えない気まずそうな顔。
そっと確認するように右を向き、心細い様子で視線を送る。一体その先に何があるというのか。
「亜矢、もういいわ。あとは私にまかせてちょうだい」
淡い光が部屋を照らした。
亜矢の隣へと寄り添うように姿を現したのは、提灯を持った十二単の女だった。
少し茶色がかった長い髪。くせが強く、やわらかな曲線を幾重にも描いて伸びている。
廊下から降り注ぐ雨にさらされているのも構わず、彼女はゆったりとした歩みで部屋の中へ入ってきた。同時に華の香りが丸く漂う。
「千香」
長いまつげ、奥にきらめく瞳の黒。白い頬と桃色のくちびる。
蒼雪は噛みしめるようにゆっくりと、彼女の名を“千香”と呼んだ。