第三話 野鳥が舞う夜に
仰いだ月夜が眩しかった。独り占めするのには、もったいないくらいだ。
通りの先にある宴会所からは、陽気な三味線の音が聞こえてくる。
あれから、少女が落ち着きを取り戻すのを待って、家の中へと運び込んだ。しかし抱月は、腹に包帯を巻かれたかと思うと、そのまま外に放り出されてしまったのだ。
「はぁ……一体何してるんだか」
もう三十分はこうして三味線の音を聞きっぱなしだ。
獣人の少女の姿が、ぼんやりと思い出された。
白い狩衣の桜夜と並ぶと、少女がまとっている着物は単なるぼろきれにしか見えなかった。彼女が着ていたのは、おそらく人間から盗み取ったもの。
狩に出かけて帰ってこなかった同胞は、本当に数え切れないほどいるのだ。
自分でちぎったのだろうか、袖は肩までしかなかった。丈はなんとか膝まであったが、袴も何も穿いていない状態だった。
今まで彼女が、どんな生活を送ってきたのかを知る由はない。
しかし、これから少しでも良い思いをさせてあげられたら。少しでも喜ばせてあげられたら。
何をすれば喜んでくれるのだろう。何をすれば笑ってくれるのだろう。
そもそも、獣人達は笑うということを知っているのだろうか。
色々と考えが頭の中を巡った。そこで、ふとある事に気が付いた。
「名前、なんだろう」
獣人、新生種、少女。それを呼び名にしてしまっていた。
これからどうなるのかはわからない。もし誰かに見つかったら、あの娘は殺されてしまうのかもしれない。
それに自分が何をどうしたいのか、良くわかってすらいない。
けれど、せめて名前をつけてあげるくらいなら。
首筋を掻きながら、再び空を見上げた。星と雲と、丸い月が無言で浮かんでいる。
彼らは何も語らない。しかしこうしてただ観ているだけで、沢山の事を教えてくれる。
美しいと感じる心。穏やかな気持ち。
月を横切って、遠くへと野鳥が一羽飛んで行く。その翼でどこへ行くのだろう。相変わらずの三味線の音が、まるで野鳥へ捧げられているようにも思えてきた。
「翼、いや、羽……音……そうだな」
音のように自由に、鳥のように遠くへ。
「おとは……音羽」
確かめるように、そっと口にしてみた。
途端に嬉しくなって、抱月は家の中へと駆け込んだ。今すぐ伝えたい。
言葉はわからなくても、自分がそう呼んであげることによって、気付かせてあげたい。
「音羽!」
障子を勢い良くあけて、はっきりと言った。
桜夜の驚いた顔。その隣に、着物を着せられている途中の少女の姿があった。
「おい、呼ぶまで入ってくるなって」
「決めたんだ。音羽だ!」
傍に寄って目線を同じ高さにすると、少女の肩に手を置いた。
「音羽。そう呼んでもいいか? 君の名だ」
少女は首をかしげた。だが、笑っている抱月につられたのだろう。ぎこちなく、口の両端を緩ませた。
「見たか桜夜、今笑ったぞ」
「はいはい。じゃ、音羽の着付けを続けさせてもらってもいいかい、旦那」
「あ……」
桜夜は音羽を風呂に入れていたらしい。顔の汚れが消えていた。ほのかに、金木犀の香りがする。
そして音羽がまだ小袖と袴しか身に着けていないのを見て、なんだか罰が悪くなる。
「はい、わかったら出てってね」
* * *
「本日もお疲れ様でした。明日の予定を確認しに参りました」
屏風の向こうへ、機嫌を損ねないよう限りなく気を使った声を発した。
「そんなに怖がらなくてもいいのに。俺のこと嫌いなの?」
「いえ、そ、そんな。とんでもありません」
「大丈夫、今日は機嫌が良いんだ」
直後屏風から、紫の衣を着た男がするりと現れた。
彼の手には青銀に光る短剣。刃を出したり引っ込めたりしつつ、ニコニコしている。そのさわやかな顔がこちらを向いた。
「知ってる? これ、折りたたみ式の“ないふ”っていうんだ」
「はぁ……私の短剣は折りたたんだり出来ません。そういったものは初めて見ました」
「そう! じゃ、是非どうぞ。楽しいよ」
畳についている右手の傍で、ストンと歯切れの良い音がした。
見ると先ほどまで男の手の中にあったはずの“ないふ”が、人差し指の数ミリ手前に刺さっている。
「そっ、蒼雪様!」
驚きながら後退ると、彼はさらに楽しそうな笑い声を上げた。
「いやぁごめんごめん、ほんの冗談だよ。お詫びにそれあげるから。さて、今日の仕事はこれで終わりかな。帰るとしよう」
「では明日の予定を申し上げ」
するといきなり、顔面の前に手のひらを突きつけられた。
この男に言葉を制されると、口だけではなく体そのものが緊張して動かなくなってしまう。
本当に不思議なことだ。このまま永遠に、自分の中で時間が止まってしまうのではないかという不安さえ覚える。
「どう、なされましたか」
やっとのことで口を開く。途端、すべての時間が戻ったかのように、頬に一筋冷たいものが通った。
「気のせいだと良いんだけど。君は何か妙な気配を感じなかったかい。西の方だ」
ちらりと見えた真剣な眼差し。月夜を思わせる青みがかった黒い瞳。その先に一体何が見えているのだろうか。
自分も一応“千”の一族ではある。だがこの男を超えるなどというのは、一生かかっても無理だろう。学問も、占いも、遠くの気配を感じることも。
どことなくもどかしい気持ちになる。
もう少し、自分に才能があったなら──だが、まだまだ勉強不足だ。仕方なく黙ったまま頭を振った。なんて情けない返事だろう。
その後、ゆっくりと彼の手が下ろされた。
「じゃあ気のせいかもしれないね」
「蒼雪様にわからないことが、私なんかにわかるわけありません」
下ろした手の向こうに、またいつもの彼の笑顔が戻っていた。
「君はもう少し自信を持つといいよ。俺の生徒なんだから。そうそう、明日は参考書に“五行大義”を使うから、忘れずに持って来るんだよ」
「承知しております。あ、先生。これから少しお時間ありますか。教えていただきたいことがあるんです」
「ごめん、今日は行くところがあるから」
少し残念そうにする彼を見て、慌てて頭を畳に付けた。
「無理な事をいってすみませんでした」
「いいよ、じゃまた明日」
蒼雪の後ろ姿を外まで行って見送った。陰陽寮を出た彼は、そのまま都の西の方へ姿を消した。やはり先ほどの気配が気になるのだろうか。
少しでも何かを感じ取ったら、動く。それが彼なりの陰陽師としての心構えなのだろう。日夜、都を守るために。
早く自分もそうなりたい。都のために、戦えるようになりたい。
「見つかったら怒られるかな。でも、ちょっとくらいならいいよね」
今ならまだ間に合う。
好奇心が勝ってしまった彼女は、消えた蒼雪の後を追って走り出した。
やっと名前が出せました(^^;)
私もまだまだ試行錯誤中ですが、キャラクターと共に成長できたらいいなと思っています。