第二話 桜夜
今までに、これほどの緊張感を味わったことなどあるだろうか。
日が完全に沈むまで、抱月の体がようやく隠れる程度の茂みにずっと身を潜めていた。門番が交代するわずかな隙を突いて、なんとか南門から都の中へ入る事に成功した。
生まれてからずっと住んでいる陰陽師の都なのに、どうしてこんなにコソコソしなければ……一瞬、自分が抱えている少女の存在を忘れたりもした。
依然この小さな獣人が目を覚ます気配は全く感じられない。まさか死んでいるのではと心配になったが、もしそうだとすればあの赤い彼岸花になるはず。
しかし彼女が衰弱しているのは確かだ。一刻も早く自宅に戻らねばならない。
「抱月!」
聞きなれた声を耳にしてしまったのは、まさに歩き出そうとした瞬間だった。
「それ何だ!?」
そしてお決まりのわざとらしいわめき声。
振り向くと、懐中電灯で顔面を照らされた。
眉根を寄せて手で振り払うしぐさをすると、その女は仕方無さそうに明かりを消す。
抱月はため息をつくと、腕の中の少女を抱え直して近づく。
「桜夜、頼むから静かにしてくれ」
「ふーん、これはまた可愛い獣人をお連れのようだね」
またもや懐中電灯の明かりをつけ、今度は少女の顔面を照らす。
腰に手を当てながら妙にニヤリと笑いつつ、桜夜は少女をまじまじと眺めた。
「ところでお前、また白張を着てるのか。それ雑用係の着物だろ」
青い衣を着ている抱月と並ぶと、やたらに目立つ白の狩衣。しかも偉そうに烏帽子なんかかぶっている。
「お前の言ってんのは大昔の話だろ。今は何を着ようが自由だ。しかもあたしは白が好きなの! そんなことよりどうすんの、この子」
「それは……今考えてるところだけど」
「へぇ、そうかい。まぁ何をするつもりか知らないけど──秘密にしておいてあげてもいいよ」
勝ち誇ったように堂々としたこの口調。その辺の男と口げんかしたって、ほとんど負けることはない。
桜の咲く美しい夜に生まれかたら“さくや”。
どうか、この桜の様に美しく華やかに育ってほしい。
そんな想いを込めて名前をつけた彼女の両親は、当の本人がこんなに男勝りになるなんて予想もしなかったことだろう。
「来いよ、家にかくまってやる」
「信じていいのか?」
「まかせとけって」
付いて来いというようにあごで促すと、桜夜は意気揚々と歩き出した。
抱月の自宅は、都の中央に位置する陰陽寮のすぐ裏にある。
つまり陰陽寮の四方を護る警備係に、どうしても見られてしまう可能性がある。
もし自分一人だったら、もっと大変なことになっていただろう。それを考えると、調度桜夜と会えたのは好都合だったのかもしれない。
しかしこの女、興味を持ったことには何でも手を出そうとする。
「わかってるよ。またあたしが興味本位で手を出そうとしてる、とか思ってんだろ」
「他に理由があるのか」
「確かに半分くらいはそうだ。それは認める。でも今の陰陽師にとって、都を襲ってくる獣人を狩るのは大切な仕事。あいつらはあたしら陰陽師を殺そうとしているからな。その獣人を、お前は大事そうに拾ってきた。何かよほどの理由があるんだろ」
抱月は一瞬返答に戸惑った。
この少女を拾った事に、よほどの理由なんてあっただろうか。
いや、よほどのことでもないのかもしれない。それはよくわからない。
ただ、あの時。
「疑問に思ったんだ。この子は同じ種族であるはずの獣人に襲われていた。俺達は、少なくとも理由なしで他人を殺そうとしたりはしないだろう。どうして獣人は、同じ種族同士殺しあうのだろうかと思ってな」
「へぇ、相変わらず綺麗事言うね。あたしから言わせてもらえば、新生種なんてただの能無し。獣と変わらないね。自分が生きるために他の奴らを殺してるんだろう」
ちらりと獣人の少女を横目で見ると、桜夜はわざとらしく鼻をフンと鳴らしてそっぽを向いた。
「いや、別に意識して綺麗事を言ったつもりはないんだ。本当に何気なく思ったから……」
「言っとくけど、あたし新生種は嫌いだから」
彼女の言う“新生種”とは、もちろん獣人のこと。
世界に天変地異が起きてから数百年。
生き残った陰陽師の先祖達は、今日に至るまで必死になって文明を築き上げてきた。
一方の新生種は、二度目の平安の世が始まるとほぼ同時にこの世界へ姿を現した。
彼らはいつのころからか、陰陽師を襲い、都に侵入しようとするようになった。新生種は、人間とほぼ同じ姿をして人間を襲う生命体。
現在では、調査係によって少しずつその生態について研究が進められている。しかしまだまだ未知なる存在だ。
「桜夜。その新生種って呼び方、差別してるみたいで嫌いだって言ったじゃないか。俺の前で使わないでほしいんだけど」
「お前さっき白張がどうのこうの言ったくせに。それは差別じゃないんですかぁ〜」
この上なく馬鹿にした口調で切り返された。
何を考えているのかなんてさっぱりわからない。さっきまで楽しそうに笑っていたくせに、この娘を拾ってきた理由が気に食わないのか、今度は怒り出してしまうなんて。
仕方がない。
確かになんとなく感じが悪いが、こちらが怒って言い返せば大口論勃発だ。黙ったまま、ひたすら彼女のあとを付いていくことにした。
それほど広くはないが、この都は少し特殊な構造になっている。各家の周りを取り囲んでいる塀が、碁盤の目のように規則正しく都中に張り巡らされているのだ。
侵入してきた者を迷わせて、役所となっている陰陽寮へ簡単にたどり着けないようにするためである。
遥か昔、天変地異が起きる前に、自分達の先祖である“古代種”が考えだした仕組み。
そして現在、都は更なる拡大と整備のため工事中だ。
「着いたぜ。入りな」
彼女がようやく振り向く。いつの間にか家に到着していたらしい。
ここは陰陽寮から見て西側。しかも城壁と西門のすぐ傍。
そう、彼女の家はこの都の西側を司る陰陽師だ。いざという時は敵の侵入をここで防ぐため、戦いの指揮をとることになっている。
「今日もカッコイイだろ、この白虎達」
家の門の両脇に対を成して置かれている、台座に乗った白虎の銅像。
阿吽の口をしているこの二匹は、いつ来てもどっしりと構えつつ、誇らしげにこの小さな屋敷を護っている。
「早くその娘を休ませてやろう」
まるで身内の事を心配するような顔をした桜夜。
あまりの態度の変わりぶりに戸惑うと、彼女は先ほどのように怒った顔をした。
「じれったいな、よこせ」
抱月から少女を奪い取って、少し恥ずかしそうにつんとした声で言う。
「あたしはこの娘を獣人じゃなくて、女の子としてみてるんだ。同性として、ほっとくわけにはいかないだろ? ただそれだけだ」
すると、まるでそれに反応するかのようにすっと瞼が開き、赤い瞳が桜夜を見つめた。少女は確かめるように何度か瞬きをして、不思議そうな顔をしている。
「えっと……た、立てる?」
桜夜は苦笑いしながら声をかける。
「桜夜!」
抱月が叫んだのは、それとほぼ同時だった。
ふいに少女の左腕が動き、手の先の鋭い爪が桜夜の喉元へ走る。息を吸う暇さえもなかった。
抱月の脳裏に焼きついた、コマ割の世界。
桜夜へ手を伸ばし、足を踏み出し、突き飛ばし、少女の腕を掴み──
気付くと倒れていて、自分の腕の中には再び獣人の少女が納まっていた。
「抱月……!」
ほぼ悲鳴に近い桜夜の声。
「大丈夫だ。心配、ない」
少女を上に乗せたままゆっくり起き上がり、顔にかかった髪の毛を除けた。
「おい、血が出てる!」
指をさされて初めて気付いた。腹部の着物が縦に裂けている。
「そんなに深い傷じゃない。桜夜だってこの程度の傷を負ったことくらいあるだろう」
「お前、少しは痛そうにしろよ」
「我慢が大事だろ、何事も」
そこでふと視線を感じ、抱月は膝の上の少女を見た。
「そうだ、どこかぶつけたりしなかったか?」
一応声をかけるが、果たして日本語が通じているのかはわからない。
ぼんやりと、だが視線をそらすことなくじっと見つめてくる少女。なんだかこっちの居心地が悪くなってしまうくらいだ。
だがその視線が抱月の腹部へ落ちた瞬間、弾かれたように体がビクつき、虚ろだった赤い瞳が思い切り見開かれた。
「どうしたんだ?」
ほんのわずかに少女の唇が動き、何かつぶやきながら後ずさる。
やがて顔が苦痛にゆがみ、しまいには息をしゃくりあげ出す。
目からは涙の線が何本も流れ落ちた。
ゆっくりと両手で頭を覆い、間もなくその小さな手が、肩が、白い足が震えだす。
そこで自分の手から妙な匂いを感じたらしい。
“恐怖”に頭からつま先まで飲み込まれた少女が、抱月の血で赤く染まった自分の両手を捉えた。
刹那、形容しがたい甲高い叫び声が聞こえてきた。
それが彼女の口から上げられているというのに気付くのは、しばらく時間がかかったように思われる。動物の鳴き声のようでもあったからだ。
この世のすべてを否定し、まるで絶望するかのような赤い悲鳴。それは空高く、どこまでも伸びていった。
今回は少し長くなってしまいました。
その分テンポを良くしたつもりです。が、全然良くないじゃん!と思ったらどうぞご指摘ください。