第十八話 前夜へ
大陸からの使者達が、帰り支度を始めていた。
ようやく明日は、大陸の船が帰るところである。
「今年はバタバタしたなぁ……ちょっと、疲れた」
「そうだな、色々ありすぎて」
陰陽寮の中で使者達が慌ただしく動き回る様子を、二人は中庭から遠巻きにうかがう。
差し込む夕日を受け、桜夜は眩しそうに目を細めた。
もしかすると、先日音羽を狙った者がこの中にいるかもしれない。
「あたしは、絶対出て来るわけないと思うけどな。皆忙しそうに支度してるんだし、暗殺だの何だのってこんな場所で話してる馬鹿がいるわけない」
「わからないだろ。桜夜は大陸語得意なんだし、頼むよ」
「てか、抱月こそ散々勉強してたじゃん」
「あんなに早口で話してたら、全然わからないよ。お前は小さい頃、時々母さんと大陸語で話してたんだろ?」
「んー、まあね」
桜夜の母親は、大陸人だった。彼女の父が使者として向こうへ派遣された際に知り合ったそうだ。桜夜は両親を獣人に殺されてからというもの、あまり二人との思い出を話したくないようだった。
「それより、音羽ちゃんは大丈夫なのか」
「梓紗に頼ん……亜矢が、一緒だから」
「亜矢ちゃんが、一緒なんだな」
冷たい視線を感じたので、抱月は無意識に声が小さくなった。
「でも、いい加減に仲直りすれば」
「あいつとは仲たがいするように出来てるんだよ。それが宿命って奴だ。きっとお互いそういう星の元に生まれたんだよ」
桜夜がやけに真面目に話すので、抱月は思わず吹き出してしまった。
「なんだっけ、習字の時間に梓紗がふざけて筆を振り回したんだよな」
「……知らない」
「それで、お前の顔に墨が飛んだと。あれは凄いケンカだった」
「生意気なんだよあいつ。年下のくせに」
桜夜は文字通り、口をヘの字にした。
「もういいや、お前は音羽ちゃんのところへ行けよ。何かあれば式神を走らせる」
「悪いな、頼むよ」
明日の朝には、彼らは帰って行く──果たしてそう上手くいくだろうか。
何か仕掛けてくるとすれば、今夜だ。
歩きながら、抱月は独り考えた。
もし、大勢で来られたら逃げ場がない。都の中にいる限り、何が起きても不思議ではないのだ。
敵に動きは全く見られないが、音羽が狙われているのに違いはない。
ならば思い切って、都から出てみようか。
そうして色々考えながら歩いている、まさにその時だった。
遠くから、亜矢が駆け寄って来る。かなり焦っている様子だ。目が合った途端、泣き出しそうな声で何度も抱月は名前を呼ばれた。
「亜矢、どうしたんだ」
「私が悪いんです……音羽ちゃんから離れなければ」
酷く息切れをしながら、彼女はひたすら頭を下げた。
「落ち着いて。何があったんだ」
「音羽ちゃんが……いないんです」
それを聞いた瞬間、血の気が引いた。痛いくらいに、体中に緊張が走る。
「最後に見たのは?」
「ずっと一緒にいました。なのに、私がお茶の用意をしようと席を外して……ほんの一瞬目を離したから」
抱月の両腕を必死に掴み、半ば叫ぶような声で言うのは、どうにか事の重大さを知ってほしいからなのだろう。
「でも、遠くへは行けないはずだ。捜せばすぐに見つかる」
「違う! 違うんです! それじゃ駄目なんです。遠くへ……行ってしまう」
ついに亜矢は両手で顔を覆うと、その場に泣き崩れた。
「ごめんなさい……私は知ってたんです。先生が、彼女に何を言ったのか」
「先生って、蒼雪の事?」
抱月もその場に膝を付き、出来るだけ亜矢と視線を合わせようとした。
彼女は一度頷き涙を拭う。そして顔を上げると、意を決したように話し出す。
「音羽ちゃんが隠密隊に襲われた日……梓紗は先生の命に従い、音羽ちゃんを連れて来ました。先生と、あなたの家に」
一瞬、抱月の思考が停止する。
「ちょっと待ってくれ、どういう事なんだ」
「私と……梓紗は、先生の弟子です。陰陽寮の支配下にいる限り、私達は敵が来るなどの非常事態が起きた場合、先生の命に従い行動しなくてはなりません。その事は、あなたもご存知のはず」
ましてや陰陽博士ともなれば、一般の陰陽師達にも独断で命令が出来る。
抱月も、先代の陰陽博士から腐るほど聞かされた。しかし抱月が見習いだった間に、その命が下される事はなかった。
「そうか……じゃあ、梓紗も」
「だけど彼はあなたを慕っています。わかってあげて下さい。彼は今、凄く苦しんでいる。自分の進むべき道を選ばなくてはならないから」
動揺、そして焦燥感。これを、裏切りと呼ぶには度が過ぎるのだろう。だけど何かが、大きく崩れたような気がして。確かな信頼が、静かに目の前で崩れていくようで。
「あの晩、あなたが帰って来る前に先生が待機していました。そして音羽ちゃんと話しをしたんです。ほんの数分ですが」
「二人だけで?」
「私達は、襖ごしに聞いていました。音羽ちゃんは……」
亜矢は悲しそうな顔をすると、俯いて黙ってしまった。
「音羽に何を言ったんだ!?」
もどかしくなり、亜矢の両肩を掴んで揺する。
「痛っ」
その声にはっとして、手を離した。怒りの矛先を向ける相手を間違えている。
「ごめん……」
「いいえ。私がもっと早く伝えていれば良かったんです」
「君が悪いわけじゃない。これは仕方ない事だよ。君には君の立場がある。それに対してどう行動するのかは、君の自由だ」
亜矢は頷き、落ち着きを取り戻した様子で言った。
「まず、事情をお話します。一旦抱月様の家に戻りましょう。明日の朝までは大丈夫なはずですから」
(やはり、動くのは明日か。何をするつもりだ、蒼雪……)
不安な気持ちを亜矢に悟られぬよう、抱月は表情を穏やかな風に装う。
「梓紗は今、単独で音羽ちゃんを捜していますが、先に抱月様と私が接触出来たので呼び戻します」
彼女は懐から白い折り紙を取り出す。見習いの陰陽師がよく使う、飛ばしやすい型のものだ。
亜矢は妖しの力を込め、空に向かって放つ。
蝶々の形をしたそれは、淡く桃色に光りながら飛んでいった。
「前に見た時より、大分上手くなったな」
「いいえ、まだ蝶の型ですから。梓紗より妖力も弱いし――さあ、戻りましょう」
亜矢はしっかりした口調で言いながら歩き出した。