第十七話 別つとき
案内されたのは、以前音羽のことで兄と対峙し、刀を向けたあの部屋だった。
ここは蒼雪の仕事部屋で、いわゆる陰陽博士が生徒に勉強を教える部屋だ。
以前は何もなかったが、今は部屋の隅に縦長の机が一つと、そばに座布団が二つ積んである。
梓紗と亜矢はいつもここで授業を受けているのだろう。
足音がして、弓と矢を片付けに行っていた蒼雪が戻ってくる。
彼がそばまで来ると、千香が思い切ったように口を開いた。
「蒼雪、私も一緒に……」
「ごめん、二人で話したいんだ」
千香は部屋の入り口で立ったまま、目も合わせず通り過ぎて行く蒼雪をじっと見つめた。
何か言おうと口を開いたが、その後あきらめたような顔をして、小さくため息をついた。
千香の視線が、蒼雪の顔から足元の畳へゆっくりと移る。
「じゃあ、私は部屋に戻ります。抱月、桜夜ちゃんと音羽ちゃんを連れて、また遊びにいらっしゃいね」
それでも、彼女は顔をあげて微笑んだ。
どこか無理をしているように見えるのは、気のせいではないだろう。
抱月は千香に会釈をして、黙って障子が閉められるのを見ていた。
その心の内に、彼女はどれほどの孤独を抱えているのだろうか。
「そんなのさぁ、気にしてる暇なんかないよ。わかってるよね」
まるで抱月の心を読み取ったように、蒼雪は突き刺すような口調でそういった。
彼の方に向き直ると、先ほどとは雰囲気が変わっていた。
「まあ座りなよ」
蒼雪は座布団を持ち、部屋の真ん中辺りに敷くと、こちらを見てにっこりと笑う。
やけに機嫌が良いようにも見えるが、そう振舞っているだけかもしれない。
抱月は言われるままに、蒼雪と向かいあって腰を下ろした。
そしてまるで兄の真似をするように、刀を鞘ごと抜いて自分の隣に置いた。
こうして話すのは、本当に久しぶりである。
「それで、俺に何か言いたいことがあるんだろ?」
「昨日、隠密隊に襲われた。しかし、奴らは全員獣人だった。そして狙いは音羽……。なぜ害がない音羽を狙う? あの子はもう俺達を攻撃したりしない。知ってるだろ。それにお前だって、今はもう音羽を殺そうとしていない。それはあの子が他の獣人と違うからだって」
「はぁ……そんなに一度に沢山話されたって、わけがわからないよ。少しは落ち着いたらどうだい」
面倒だ、とでも言いたげに、蒼雪は肩をすくめた。
「蒼雪、何か知ってるんだろ。教えてくれ、なぜ音羽が狙われるんだ。あれは中国側の判断なのか? だとしたら、俺はこれからどうすれば良い。四人とも殺してしまった」
目の前の兄は、一体何を考えているのだろうか。
抱月は、蒼雪が困ったような顔で腕組みをしながらうつむくのをじっと見守った。
やがて、しっかりと抱月を見据えながら彼が問いかけてきた。
「じゃあ訊くけどね。なぜ俺達は新生種を狩らなくてはならないと思う」
「なんだよそれ。まず俺の質問に対して」
「いいから、言ってごらん」
「それは……“人としての理性を持っていない新生種をそのままにしておけば、我々の存在が脅かされる”からだろ」
「さすが抱月、よく出来ました。じゃあ、新生種がなぜ存在するのか、どこから来るのか考えたことはあるかい」
それは、今までのものとはどこか似ているようで似ていない問いかけだった。
新生種は突然変異によって誕生し、都を襲ってくるようになった危険因子。
自分達はそれを敵と見なし、当たり前のように戦ってきた。
何百年も前から、そしてきっとこれから何百年先も。
彼らは自分達を襲ってくるゆえに「魔物」として扱われ、どこにでも存在している。
どこから来るのか、なぜこの世に存在しているのか──そんな無意味なことを考えて暮らしている者はいないだろう。
それは、”なぜ自分が生きているのか?”と問われるのに等しい。
「昨日お前を襲った奴らは、確かに新生種だったんだろ? じゃあなぜ中国側の刺客となって動いている? 理性を持たないはずの新生種が、音羽ちゃんを狙って行動できるのはなぜだ」
「術か何かを使ったのかも知れない……いや、あれはそんな風には見えなかった。操られているような戦い方ではなかったんだ。誰かにきちんと訓練されてから、自分で考えながら戦っているような、そんな動き方だった」
「へえ、なるほど。良く相手を観察できてるね。ははは、ますますわからなくなってきたんじゃない? どうして、新生種のくせに意思をもって動けるんだろうねぇ」
蒼雪は少し間を置いて、
「最後に良いこと教えてあげるよ。音羽ちゃんは新生種だ。だが話すことも出来たし、考えることもできる。なぜなら彼女は、完成品だから」
「完成、品? どういうことだ」
「残念だが、これ以上は教えられない。俺は今、兄としてたった一人の弟に話をしただけだ。いいかい、あとはお前自身で考えるんだ。ヒントは充分与えたよ」
「何を言ってるんだ? 意味がわからない」
「だろうね。でも俺もこれ以上言うわけにはいかないんだ。まあ、せいぜい頑張ることだ」
蒼雪は刀を取り、すっと立ち上がった。
そして腰に差すまでの一連の動作を、抱月は呆気にとられたまま目で追った。
ああ、兄がやると何でも優雅で上品に見える。
幼い頃から、何度その手つきや仕草を真似しただろう。
(兄様、覚えていますか? あの頃の日々を)
“どうしたら、兄様みたいにカッコ良くなれるの?”
その度に蒼雪は、笑いながら答えてくれた。
“抱月は抱月らしく成長していけばいいんだよ。誰かの真似なんてする必要ないんだ。自分で考えて行動しなさい。そしてお前が正しいと思う道を選びなさい”
(両親を亡くしてから、二人で懸命に戦ってきたあの日々を。あなたはいつも、あらゆるものから俺を守ってくれた)
蒼雪は静かに歩き出す。
その背中を見てはっとして、慌てて抱月は彼を呼び止めた。
「待てよ、何をする気だ? 一体何を知ってるんだ」
慌てて立ち上がり、彼の腕を掴もうと手をのばす。
「それ以上近づくな」
やけに重苦しい口調だった。
まるで、全てのことに関わるなと言われたような気がして。
抱月がのばしたその手は、宙に浮いたままで終わった。
蒼雪が腰の刀に手をかけている。
「どうして何も言ってくれない。どうして一人で行こうとする。俺達兄弟だろ。なぜ俺には何も教えてくれないんだ。俺だって兄さんの力になりたい」
「悪いけど、お前にこれ以上付き合うほど俺は暇じゃないんだ。それに、お前だって自分のやるべきことがあるんじゃないのか」
彼は一度も振り向くことなく部屋を去っていった。
障子が閉まった瞬間、なぜかもう彼の顔を二度と見ることが出来ないのではという予感に囚われた。
だが、立ち止まるわけにはいかない。
たとえ兄とは正反対の道を進むことになったとしても。