第十六話 待ち人
いつになく柔らかで明るい日差しの下を、抱月は足早に陰陽寮へと向かっていた。
昨晩自分が隠密隊に襲撃されたことを、兄に言わなくてはならない。
もっとも、その兄が自分を狙って、という可能性もあるのだが。
いずれにせよ、「都の住人が大陸の者に襲われた」という事実は、今後双方の仲を狂わせることになるかもしれないのだ。
上部の人間を捕まえて、何らかの情報を聞き出さなくてはならない。
間もなく陰陽寮の赤い門が見えてくる。
するとその向こうに、いつもよりも大分薄手の着物を纏った人物を発見する。
「千香様。こんなに早くからどこへ行くんですか」
かなり近付いても、彼女はうつむいたままで抱月に気がつかなかった。
「あら、抱月」
朝の光をきらきらと纏った瞳が、驚いたように抱月を見上げた。
「ごめんなさい。ちょっと考え込んでしまって」
「もしや兄の事ですか?」
兄と千香はまだ正式に夫婦となったわけではない。
しかし、物心ついた時から千香はずっと抱月の「姉」であった。
色々なことを相談したし、特に幼い頃桜夜とケンカをした時は、必ず千香のところへ助けを求めにいったものだ。
その分、最近は何か千香の役に立てないだろうかと、彼女の悩みを少しでも聞こうと考えている。
「あの人ね……何だか、ここ数日様子がおかしいの」
「俺も調度、蒼雪と話をするために会いに来たところだったんです」
彼女は蒼雪を愛し、慕っている。
しかし、彼の仕事に対するすさまじい執着心に対して、不安を感じ心配している様子だった。
「昨日、夕方会ったのだけど、なんだか思いつめたような感じでね」
いつの頃からだろうか。
蒼雪が自分の役職と立場を常に気にし始め、いつも緊張したような、感情を押し殺したような顔をするようになった。
会話をしても、どこか当たり障りのないことしか言わなくなった。
「抱月、あなたは何か聞いていない?」
「いえ、俺には……」
陰陽寮には、この都の行政を取り仕切る七人の役人がいる。
その頂点に立っているのが陰陽頭である。
彼女の父は七人の役職の中でも、次の陰陽頭と影でささやかれている人物だ。
陰陽博士の蒼雪と、時期陰陽頭の娘千香。
誰もがうらやむような、これ以上ない組み合わせだった。
始めは、それゆえ役人達の期待にこたえようと必死になっているのかと思われた。
だが、彼は昔から誰かに媚を売ることが大嫌いだったはずだ。
昔のままならば、何も変わっていなければ──時がたつに連れて兄との距離は大きくなるばかりで、今となっては聞き出す余地もなくなってしまった。
「とにかく会ってきます。蒼雪はどこに」
「それが昨日夜中に陰陽寮を出て行ったきり、帰ってこないのよ。大陸の方と話があったみたいで、終わったらまた来るって言ってくれたのに」
そこで思わずはっとした。
彼女が着ているのは薄手の着物だと思っていたのだが、良く見れば上に羽織っている一枚だけが着物で、その下は白い寝巻きであったのだ。
「その格好……まさか、一晩中ここで蒼雪を待ってたんじゃ」
思わずその存在を確認するかのように、千香の両肩を掴んだ。
すると彼女はくすりと笑って、
「いいえ。さすがに、そんなにずっとは待ってないわ。ついさっき、起きてきたところよ」
「姉上、中で待ちましょう。日差しは明るいけど、今日は少し肌寒い。風邪を引きます」
「大丈夫よ。今出てきたばかりなんだから」
しばらくじっと、お互い隙を見せずに視線を合わせ続けた。
しかし抱月は耐え切れずに、やれやれとため息をついた。
「わかりましたよ、待てばいいのでしょう。じゃあ、俺も一緒に待ちます」
無言の争いを制したのは、千香であった。
その美しい瞳は、何者にも負けない力を秘めていて、見るものを圧倒し屈服させてしまうのだ。
にらめっこで「姉上」に勝てることは、多分この先ずっとないのだろう。
「あら、頼もしいこと。でも、もう本当に大丈夫みたいね。ほら、帰ってきましたよ」
振り返ると、抱月が今来た道を蒼雪が歩いてくる。片手には弓を携え、矢の入った布袋を背負っている。
その表情は、特に普段と変わりない様子だ。
「何、二人とも。そんなところで」
至って明るく、軽やかな調子で蒼雪が話しかけてきた。
「千香、悪かったね。ちょっと都を出ていた。どうも獣人が数体、都を狙ってうろついていたみたいでさ。夜中に急に狩りに出ることになったんだ」
するりと割り込んで抱月から千香の隣を奪うと、彼は優しく千香の肩に手を置いた。
「そうだったの。怪我は無かった?」
「大丈夫。出来の悪い弟と違って、俺は仕留め損ねたりしないさ」
「もしもし、兄上様?」
すっかり二人の世界を作り上げてしまった蒼雪に思わず苛立ち、抱月はわざと丁寧な口調で呼びかけた。
「……まだいたの。なんだい、その疲れ果てた顔は。美しくないよ」
「その優しさを、たった一人の弟にはむけてくれないのですね、兄上様」
「やだなぁ、俺はいつだって優しいじゃないか。ね、千香」
「からかっては駄目よ。抱月、あなたにお話があるって」
すると蒼雪は意外そうな顔をして、抱月の顔を珍しそうに眺めた。
まるで不思議な物体であるとでも言わんばかりの、初めて見たものに興味津々な幼子の表情である。
「ふーん。なるほどね、弟もちょっとは頭が働くようになったようだ。では少し話を聴いてやろうか。来なさい抱月」
彼の後について陰陽寮の中へと入っていく。
いつ以来だろうか。久しぶりに兄と言葉を交わした。
誰の邪魔も入らず、蒼雪と千香と抱月の三人だけでいたからこそなのだろう。
当たり前だった会話が、こんなにも懐かしい。
この後兄から告げられる真実を耳にするまでの、束の間のやりとりではあったが、抱月の心には昔と変わらない温かい気持ちが蘇りつつあった。