第十五話 闇を想う
朱色の衣を着た男が、疑わしげにこちらをじっと窺っている。
「蒼雪、貴様どういうつもりだ」
「お待ちください莱孔様。私の考えを聴いていただけないでしょうか」
刺すような視線を感じた。
進んで目を合わせたくは無い相手だが、畳に近づけていた頭を上げて真正面から見据えた。
莱孔は不機嫌そうな顔でじろりと抱月を睨んだが、やれやれとため息をつくと軽く頷いた。
「言ってみろ」
「それでは申し上げます。今あの少女を抱月から引き離すのは、極めて危険です」
「何が危険だというのだ」
「抱月の持つ妖の力です。ご存知だとは思いますが、あなた様が放った四名の刺客たちは、すでに全員殺されました。しかも抱月と戦わせたことによって、その正体を見破られた可能性があります」
「それがどうした。見破ったところで何が出来る」
「あれは私の弟です。そして私ですら、まともに戦えば負ける可能性があります」
「ではなぜそれほどの力を持ちながら、何の役職にも就いていないのだ。貴様が陰陽博士になったのは何時だ? 二十歳の時ではなかったのか?」
莱孔の顔がさらに曇る。
確かに頭は良いが、こいつは元来それほど気が長い性分の男ではない。
怒らせれば蒼雪でさえも殺されるだろう。この男ならば、おそらく何のためらいもなく。
自分よりも一回り歳上のくせに、未だ“丸くなる”ということを知らないようだ。
ここで失敗するわけにはいかない。蒼雪はにこやかに笑って見せた。
「あれには力を使えない理由があるのです。幼い頃より、妖の力を使うと体に負担がかかり、酷い時には気を失うことも」
「負担だと……? 能力と体の不一致とでもいうのか。しかしそのような例は聞いたことがないぞ」
「原因はわかりません。ですが発覚以来、本人はできるだけ力を使わないように気をつけています。新生種を退治する際も、負担がかからない程度に発動するのみ。今回は、少女を守るためにやむを得ず使ったようですが」
ここでようやく蒼雪の話の意図を読み取ってくれたらしく、莱孔の表情が少しだけ緩んだ。しかしまだ安心は出来ない。
「ですから、公的な命令を下すのが良いかと。あれも陰陽寮からの命では逆らうことは出来ないでしょう。少女は殺さないと念を押せば大丈夫です。私から直接、少女を引き渡すようにと」
「いや、良い考えがある。貴様とて勝てるか分からん相手なのだろう? しかも自分の身を省みず戦って、我々の刺客を殺してしまった。ならば我々の方へ付かせてしまえば良い」
今や機嫌を直しつつあるようで、さらに余裕まで生まれたらしい。
「名案だろう。俺ももう一人、部下がほしいと思っていたところだ」
彼がにやりと笑うと、胸の中に憎悪が走った。
「どうした? そうか、さすがの貴様もそれは嫌か。自分の手は染めても、弟の手は血に染めたくないのだな」
今すぐにでもその喉を引き裂き、二度と口を利けなくしてやりたい。
もしも、自分が何者にも縛られていないのならば。
「分かるぞ、貴様の葛藤が。俺を殺したいほど憎んでいるのだろうな」
「私はそのような顔を、いつもあなた様に向けておりますか」
先ほどから表情は全く変えていないつもりだ。
それなのに、なぜこいつには自分の心の中がわかるのだろう。
「いいや、完璧だ。何の曇りもなく良く出来た表情だ。しかしな、何がそうさせるのは知らんが、俺はいつも薄気味が悪くて仕方ないのだよ。貴様はいつか俺を蹴落とすだろうな。そんな気がする」
しばらくの沈黙が訪れた。
蒼雪は一瞬、頭の中が真っ白になった。そして改めて莱孔をよく見直した。
今初めてこの男に対して恐怖を抱き、それと同時に感心してしまった。
莱孔は大陸では名の知れた武人である。
そのしっかりした体つきは、彼の強さをそのまま現しているかのようだ。
さらに頭も良いが、欠点は気が短いこと。だと思っていた。
しかし二十四歳で大陸の陰陽隠密隊の頂点に立ち、三十歳の時には日本との通信役をすべて任されたらしい。
そして今は大陸の代表者として派遣され、重大な任務を抱えている。
つまりは、それだけ実力も地位もある男なのだ。
気を短くし、いつでも闘争心をむき出しにしていなければ、ここまで出世するのは不可能。
誰かを抹殺したり、他人を蹴落としたりの生活をしているのなら、性格が丸くてはとてもやっていけない。
だから、この男は“こういう性格でいる”のだろう。
蒼雪は身震いし、さらに慎重に言葉を選んだ。
「どうか……私にお任せください。大陸の船が出るまでには、必ずあの少女を連れてまいります。明後日まで、どうか手を出さないでいただけませんか。私はあなたの命に背くことはいたしません」
「そうか。貴様も役職にこだわっているようだからな。私事をはさむほど馬鹿ではないだろう。好きにするが良い」
莱孔は笑う。すべてをあざけるような表情で。
蒼雪は一礼すると逃げるようにして部屋を出たが、しばらくその表情が頭に焼き付いて離れなかった。
そうやって相手の心を探っているのだろうか。
彼の態度に殺意や憎しみを持ち、彼の敵となった者はおそらくもう生きていないのだろう。
あくまで想像にすぎないが、ただ漠然とそんな気がしてならなかった。
では、任務として言い渡され、義務的にあの男の部下となった自分は一体どうすべきか。
守ろうとしているすべてを、あの男に壊されてしまいそうで。
しかしこの立場にいる限り、務めを果たさなくてはならない。
自分の代わりになれる者はいない。そう、誰にもこんな思いをさせるわけにはいかないのだ。
陰陽寮を出て、一人夜道を歩き出した。
何もかもが急速に進展している。
あの少女がここへやってきたことで、すべてが変化しようとしている。
蒼雪は明るい月を見上げた。いつもと何も変わらない月を。
負けるわけにはいかない。そして服従するつもりもない──あの男だけには。
憎しみの心だけが、静かに膨らんでいくのがわかった。