第十四話 遠い夜空
梓紗の気配を辿っていくと、たどり着いたのは自分の家の前だった。
戸を開けようと手をかけた瞬間、それは勝手に動いて中から亜矢が出てきた。
「抱月様、良かった! 桜夜さんまで。ひとまず中へ。音羽ちゃんが待っています」
「なんだ、亜矢か。音羽と一緒にいてくれたのか」
「はい、梓紗の式神に呼ばれました。びっくりしましたけど。私なんかでも、少しはお役に立てれば幸いですから」
玄関から廊下を挟んで正面の部屋。いつもどおり障子は開いていて、八畳ほどのその部屋の中には、茶色の髪の毛の少女が一人ぽつんと座っていた。
「音羽」
抱月の一声で、音羽が振り返る。
目が合って、しかしその顔に笑顔が浮かぶことは無かった。
「大丈夫だったか。梓紗は?」
中に入って彼女のそばへ寄る。
「梓紗は、他に敵がいないか見に行ったよ。すぐに戻ってくるって」
言い終わると、音羽はさっと視線を逸らした。
その不自然さに違和感を覚え、思わず抱月は桜夜と顔を合わせる。彼女も不思議そうに眉根を寄せて首をかしげた。
しばらくの沈黙の後、気を使うように亜矢がそっと口を開く。
「それで……私が音羽ちゃんのそばにいるように頼まれたんです。でも、お二人が来たなら大丈夫ですね。もうすぐ梓紗も戻ってくると思いますから」
「来てくれてありがとう。夜遅くなってしまって悪かったな」
「いいえ、大丈夫です。ではこれで。勝手に家に上がり込んでしまってすみませんでした。音羽ちゃん、またね」
亜矢は抱月と桜夜が部屋に入るのを見届けると、軽く一礼をして去っていった。
音羽は閉められた戸をしばらく名残惜しそうに見ていた。
「な、なぁ音羽ちゃん、どうしたの。元気がないみたいだけど」
思い切ったように、わざとらしく明るい声。桜夜が音羽の顔をのぞき込んだ。
「大丈夫だよ。桜夜ちゃんは、動いてもいいの? 怪我は?」
「ああ。千香様が治してくれたし、もう大丈夫だ」
そう、良かった──紅い瞳は、どこか悲しそうに宙を見つめた。
抱月は何か声をかけようとしたが、結局言葉が見つからなかった。
敵に狙われたということで、怯えているのだろうか。
自分が殺されそうになったことを悟り、恐怖を感じているのかもしれない。
けれどそうではないような、「何か」が彼女の中にある気がした。
彼女の瞳はただ窓の外を見つめるだけで、抱月には何も教えてくれなかった。
「あたしさ、今日はここに泊まっていくから。抱月、いいよな」
「ああ、調度蒼雪もいないし」
音羽の体が強張ったのは、確かにその名前を抱月が口にした瞬間のことだった。
「あ……」
「馬鹿、お前なぁ!!」
桜夜が物凄い形相で睨んでくる。
音羽を殺そうとしていた人物の名前だ。しっかり覚えているだろうし、迂闊に出さないようにしようと決めていたのに。
「いいの。蒼雪さんは、抱月のお兄さんだよね。だから、いいの。大丈夫だよ、心配しないで」
「でも、音羽」
「よし、それじゃ、もう寝ようか! 音羽ちゃんも疲れたよね?」
これ以上気まずくなるのを阻止するかのように、桜夜は陽気に笑う。
音羽が頷いたのを確認すると、部屋の奥の押入れから布団を取り出し始めた。
そうしてあっという間に敷き終わると、抱月は廊下に追い出された。
「梓紗にあたしがいるって言うなよ」
一言断言し、ぴしゃりと戸を閉めた。
「そうか……仲悪いんだったな」
抱月は一人、戸に向かって返事をする。
首筋を掻きながら、そのまましばらく廊下に立っていた。
なぜ上手くいかないのだろう。音羽のあんな顔は見たくなかったのに。
ため息をつきながら、抱月は外へ出た。深い紺色の夜空が広がる。
音羽の名前を決めた夜も、こうして一人空を見ていたことを思い出す。
「ただいまぁ。無事だったかい」
間もなく梓紗が姿を見せた。
煙管をふかしながら、のんびりと抱月のところへやって来る。
「怪我とかは無さそうだね。さすが」
「大分苦戦はしたよ。……梓紗、お前隠密隊のこと何か」
「いや。俺はわからんね。屋台で何か買おうと思ってふらふらしてたら、殺気がしたんよ。そんで何事かと思って見たら、抱月達が狙われてるのに気がついたから」
ふわりと煙が舞い、梓紗が空を仰ぎながら言う。
「でもま、今日はもう何も起こらないと思う」
「明日、陰陽寮へ行ってくる。兄にも事情を話してみるつもりだ」
「うーんと、俺はさ、出来れば、抱月の味方でいるつもりだから。何かあれば言ってくれ」
視線こそ合わせようとはしてこないが、その口調ははっきりしている。
「抱月は俺の友達だからさ。兄ちゃんみたいなもんだしな」
そして梓紗は笑った。夜の闇が彼の表情を鮮明にはさせなかったが、白い煙に巻かれているその姿はなんだか頼りなく見えた。
「じゃあ帰るよ。何かわかったら報告するから」
「なあ、梓紗。俺は何か間違ったことをしているんだろうか」
すると彼はきょとんとして、しかしすぐにまた笑いながら、
「いいんじゃない。俺は今、自分が思ったとおりのことをしている。自分の信じたことをしている。だからさ、抱月も自分が思ったとおりにやればいいんじゃないの?」
軽く手を振って、梓紗は夜の中へ消えていく。
彼の姿が見えなくなって、抱月はまた空を見た。
複雑な心境でいるせいか、いつもよりも空が遠く、暗く見える。
また明日になれば、新しい問題が次から次へと起こるかもしれない。
もしかしたら、自分は間違ったことをしているから問題が起こるのだろうか。
一つの存在を、音羽という存在を、守ろうとしている。
だが、今日自分の手で殺めた者達は、音羽と同じ種族だった。
だけどそれは、音羽を守るためだった。
ひたすら堂々巡りを繰り返す頭の中。
深い霧の中を手探りしているようで、答えが見つからなくて苦しくなる。
でも今は前に進むしかない。
二つの種族を共存に導きたいを思う気持ちを、自分の思ったこの道を進んでいくしかない。
その結果、例え陰陽寮という大きな存在を敵に回すことになろうとも、きっと後悔はしないだろう。