第十二話 任務
闇の隙間から、白い狐の面が現れた。四人とも、忍者のような出で立ちである。瞬きをする間に見失ってしまいそうな黒い衣。
「お面つけて登場とは良いご趣味で」
梓紗は懐から短剣を取り出した。鞘から抜くと、刃は呼応するかのように彼の妖の力を吸い取り始める。
「待て……やっぱり駄目だ。お前はこういう場所で力を使うんじゃない」
腕を捕まれたと頭が認識する前に、抱月は音羽を自分の方に押し戻してきた。
一瞬驚いて彼を見る。だが目が合った瞬間、それ以上何も会話は要らなかった。
刀を抜く抱月を背に、梓紗は音羽を抱きかかえて走り出す。
「抱月!」
小さくなっていくその姿を見て不安が広がったのか、音羽は一度その名を叫ぶ。
だがいくら向こうへ戻ろうとしたところで、もうどうにもならないと気づいたようだ。
歯がゆさからか、小さく唇をかんで眉根を寄せた。
「そうそう、ここは我慢だよ。俺だって、久しぶりにいい感じの敵と戦えるチャンスを、こうしてみすみす逃してんだからさ」
しかし、これほど大事にしている少女を簡単に自分に託してくるなんて。これはまた随分と信用されてしまったものだ。
「でもなぁ、抱月怒るだろうなあ……だけど、仕方ないよな。俺、生徒なんだから」
「一人で何喋ってるの?」
「え、あ、いや、何でもないよ」
「抱月、大丈夫だよね。すぐに戻ってくるよね」
真っ直ぐな言葉と眼差しに、思わず心臓が高鳴る。
どうしてこの期待に満ちた言葉に、否定の返事を投げつけることが出来るだろうか。
梓紗はただ、黙って頷いた。
正直なところ全然わからない。大陸の人間がどの程度の実力を持っているのかなど。
今まで自分達は、この限られた世界の中で生活してきたのだ。
都の中で訓練を受け、都のために獣人を狩ってきた。
自分の父親も、母親も、この京栄で生まれ育った。そして自分も、何の疑いもなくこの世界を信じて生きてきた。
それが突然、同じ妖の一族であるはずの人間に刃を向けられた。
先ほど敵の気配を軽く読んではみたが、自分にはまだそれを完全に把握することが出来なかった。もし自分があの四人と一度に戦えるのかと問うてみれば、その答えは──
「くやしいけど、抱月にはまだ敵わないな。まったく、世界は広いなぁ。でもまずは与えられた任務を忠実にこなそうかね」
たどり着いたのは、小さな家の前だった。
窓から光が漏れている。どうやら在宅のようだ。
梓紗はため息にも似た深呼吸をして、そっと音羽を下ろした。
「大丈夫。先生は確かに俺に言ったもんな」
自分自身に言い聞かせ、少女の手をしっかりと握ると、意を決して戸を開けた。
「先生、俺です。って、どーせわかってるか」
その男は部屋の奥の机の前で、一人本を読んでいた。
「梓紗、早く戸を閉めなさい。相変わらず行儀が悪いね」
はいはい、と適当に受け流し、梓紗はまず音羽を中へ上がらせようと背を押した。しかし。
「あ、梓紗……あの人」
蚊の鳴くような声を出し、少女はその場から動こうとしなかった。
彼女の視線の先にいる男は、たった今気がつきましたとでも言わんばかりに、何気なくこちらを向く。
そして能面のように薄く静かに笑った。
青みがかった黒い瞳が、おびえきった少女を見つめ、
「へえ、俺を覚えていてくれたようだね音羽ちゃん」
数週間前の夜、梓紗はこの都で何が起こったのかを知っていた。
その時この獣人の娘をかばった桜夜がどうなったのかも、もちろん本人の口から聴いた。
すべて承知の上で、ここへ来たのだ。
「蒼雪先生。これで任務完了でしょ」
「ああ、ご苦労だったね。中へ入りなさい。それから、亜矢。出ておいで」
蒼雪は本を閉じ、自分のすぐ左隣の障子に向かって声をかけた。
間もなくそっと障子が開くと、黒髪の少女が恐る恐る首を出した。
そして音羽の姿を見た瞬間、安心したように表情を緩ませる。
「よかった! 無事だったんだね」
突然のことで驚いたのだろう。音羽は目を丸くした。
「二人とも、いつまでそこに立ってるつもりだい?」
蒼雪の口調には棘がないように聞こえる。未だ戸惑いを隠せないようだが、再び背を押すと少女はおとなしく前へ進んだ。
亜矢はすぐに音羽の元へ駆け寄り、肩を抱いてやる。それから首をめぐらせ、自分と目を合わせてきた。
実のところ、どうして彼が音羽をここへ連れて来いと命を下したのかわからない。音羽を殺そうとしていたはずなのに。
ただ、もし大陸の者達がこの娘を襲ってきた時は、かならず自分の所へ連れてくるようにと言われたのだ。陰陽博士として命令されたからには、断ることなどできない。
しかし、自分は出来れば抱月に味方してやりたいと思っていた。
その心境を伝えると、彼は
「決してあの娘を殺したりはしないから」とだけ言った。
「蒼雪先生、どうするつもりですか」
「あのさ、俺がそんなに信じられない? 大丈夫だからお前達は向こうの部屋に行きなさい。まずはこの娘と二人きりで話がしたいんだ」
蒼雪は音羽に、自分の前に座るようにと目で促す。
緊張の面持ちで彼の前に座る音羽を横目に、梓紗は亜矢と共に奥の部屋へと下がった。