第十一話 消え行く安息
涼しい風が袖を通り抜けていく。
三日間続いた祭りも最終日となり、屋台通りを歩く人の数もまばらになってきた。
この日は集会所などで、宴会を楽しむ人のほうが多いようだ。
人ごみを避けるため、抱月は今日を選んで音羽を連れてきた。
特に、陰陽寮をはさんで北に伸びるこの大通りは、南大通りに比べて人が少ない。
抱月は気にしていないが、都から北門を出てしばらく行くと墓場があるので、普段から好んで近寄る者はいない。
「抱月、あれはキツネのお面でしょ。こっちのはウサギのお面」
屋台の店頭に並べられたお面を指差して、音羽が言う。
「それで私が持ってるのは、ネコのお面」
夜の通りに灯る屋台の明かり。少女が光に包まれて笑う。
気を取られ、しばらく見とれていた。まるで自分の心境を映しているかのような、ぼんやりした光。そしてまた思う。このまま同じように、日々が平穏に過ぎていけばいいと。
「抱月、ねえ聞いてるの?」
「ごめん、ぼんやりしてた。次は何を見ようか」
音羽が口をつぐむ。何かを訴えたくて、しかし彼女はまだその気持ちを言葉に置き換えることができないのだろう。
眉根が少し寄って、視線が下がる。やがて、小さな声が聞こえた。
「どうして……抱月は、たまに寂しそうなの?」
返す言葉が見つからなかった。
抱月は何かを言おうと息を吸うが、そのままため息に変わる。いつの間に音羽は相手の感情を、顔色を、伺うことができるようになったのだろう。
「なんでもないんだ。気にしなくていいよ」
だが音羽は抱月を見上げ、疑わしそうにじっと見つめてくる。そこでためしに笑って見せると、彼女も安心したように笑った。
「何だ、抱月もついに逢引きなんかするようになったのかい」
突然、すぐ耳元で声がした。ぞっとして肩をすくめる。
すると相手はそのまま吹き出して笑ったので、抱月の横顔に唾が飛んでくる。
「お前、剣術は凄いけど普段は鈍いよな! 本当、こんなに近寄っても気づかないなんて面白すぎ」
八重歯を思い切りむき出して、大笑いする少年。袖で顔を拭きながら、抱月はその小憎らしい顔を睨み付ける。
「汚いだろ馬鹿! お前こそ、もっと普通に話しかけて来いよな」
「悪いがこういう性分でね。人を驚かすの、大好きなんよ。ま、元気そうで何より」
次にそのつり目が音羽の方を見たかと思えば、一瞬の隙も与えず傍に寄って顔を覗き込む。
「ふーん、可愛いねぇ……あ、俺は梓紗っていうんだ。君が噂の音羽ちゃんかい」
彼の人相の悪さに気圧され、音羽は少し戸惑ったようだ。
おまけに、梓紗が着ている浴衣を見るのはこれが初めてだろう。確かにあれは簡単に着られて便利なのだが、陰陽祭という公的な祭りでは普通誰も着ない。
なんだか違和感のある身なりをしている、怪しいやつと思ったに違いない。
だが音羽は意外にもすぐに返事をした。てっきり嫌がるかと思ったのだが、梓紗の少し棘のある雰囲気に逆に興味を持ったらしい。
「私は抱月とお祭りを見に来たの。お兄さんは一人で見に来たの?」
「そうなんよ。俺、寂しい独り者だからさ。そうだ、俺も一緒にいていいかい」
「いいよ、ひとりは寂しいよね。じゃあ一緒に飴買ってもらおう。ね、抱月いいでしょ」
「買ってくれるよな」
二人の期待に満ちた目が抱月を捕らえた。
もっとも、少年の方は明らかに何かたくらんでいるような顔だが。
「梓紗……頼むから、音羽に変なことを教えないでくれ」
「俺、別に何もしとらんけど。なあ音羽ちゃん。さて、どの飴にしようか」
「私ね、あっちに売ってたやつがいい」
「だってさ。ほら行くぞ」
梓紗は音羽と抱月の手を繋がせると、後ろに回って背中を押してきた。
「お前なぁ、せっかく祭りに来てるんだから、そんなシケた面やめとけって。さっきから俺はどうにも気に入らんね。こんな可愛い子連れて歩ってんだから、ぼさっとしてると酔っ払いに連れてかれちまうぞ」
まもなく飴屋の前に来ると、音羽は夢中になって選び始めた。
その様子を確認し、さりげなく周囲をうかがうと、梓紗は無表情で抱月に言った。
「大陸のやつらが来てるの知ってるだろ。お前さっきからその連中に着けられてるって知ってた?」
思わず息を飲んだ。あまりにも突然の言葉に、動揺しかける。
だがここで焦ってはいけないと判断し、辺りを見渡したい気持ちをぐっとこらえる。変に視線を泳がせてはいけない。抱月はそのまま音羽を見続けた。
「気づかないのも無理ないさ。相手は隠密隊だ。奴ら今じゃ、まさに陰陽師の“陰”を司ると言っても良いからな。気づかれないようにコソコソ隠れるのが大好きらしいよ」
「まさか、音羽を」
少年は何も返事をしなかった。無言の肯定──彼は音羽の隣へ行き、一緒に飴を選び始める。ごく普通の、十七歳の顔になる。
抱月は飴屋を離れるまでに、自分たちを見張る者の気配を探った。
前後左右に、一人ずついるようだ。距離もさほど遠くはない。知らぬ間に囲まれていたなどとは、夢にも思わなかった。
一方の梓紗は、相変わらずのんきな顔で音羽と並んで歩き、話をしている。
すっかり馴染んだようで、音羽はしきりに笑顔を見せた。
つられて抱月もつい気が緩みそうになるが、依然として全く消える様子を見せない四つの気配に対して神経を尖らせ続けた。
どれほど時間が過ぎただろうか。
屋台の明かりが一つずつ消え始めた頃、梓紗は抱月の方を振り向き、一瞬目配せをした。
そして北門の方向へ足早に歩き出す。
陰陽寮には大陸からの使者がいる。敵の懐に飛び込むわけにはいかないと判断したのだろう。
そのうちに屋台がふっと途切れ、辺りが途端に暗くなる。
紫の夜の色に染まった北門が、だんだんと大きくなる。
この辺りは都を拡大するための工事が行われているので、日が沈むと全く人気が無い。
新しく建設されている骨組みだけの家と、その近くに大量の木材が無造作に積み重ねられている。
もうすぐあの北門も、もっと遠く、墓を越えたずっと向こうに立て直される。城壁も壊され、墓も都の中へ取り込まれるだろう。
そうなったら、夜な夜な幽霊が都の中を歩き回るかもしれない──
「どこ行くの? もうおしまい?」
光が遠ざかるにつれて、音羽の表情が強張っていく。
「うん、これで終わりだよ。そうだ音羽ちゃん、一つ頼みがあるんだけどさ」
軽やかなその口調は、いかにも友達同士の会話のようだ。
「これから何があっても、抱月から離れちゃ駄目だよ。約束な」
誰が最初にそうしたのか、いつの間にか三人の足は止まっていた。
間もなく小さな明かりが四つ、四方から囲むようにしてこちらへ近づいてくる。まるで行き場をなくして徘徊する霊魂のように。
梓紗は今にも泣き出しそうな音羽を、文字通り抱月に押し付けてきた。そしてすぐに背中を合わせると、
「隙を見て逃げる。それでいいよな。抱月は音羽ちゃんを守ることだけに集中しなよ」
姿がぼんやりと浮かんできた敵を見据えたまま、抱月は刀を抜いた。
だいぶ更新がおくれてしまいすみませんでした。