第十話 内通者
悲しみと癒しの念がこめられた、微弱ながらも確かな力を感じた。
本当に自然的な、たとえて言うならば空気が風によって揺れる程度のもの。何気なく過ごしていれば、この力に絶対気がつかなかっただろう。
これが自分たちの使う妖しの力ではないと察知した蒼雪は、慌てて陰陽寮を飛び出した。
そしてたどり着いた西門には、抱月と音羽の姿があった。
今でも信じがたい光景。あの少女の涙が目に焼きついて離れない。
「まさかあの娘が」
自分自身、この上ないほど動揺しているのがわかる。こんな感覚、久しく味わったことがない。かすかに震える指先。それはまるで、落ち着き方を忘れてしまったかのように。
「これで、旧生種の未来が……」
* * *
年に一度の陰陽祭が始まった。
つい先ほどから、陽気な太鼓や笛の音が聞こえ始めた。
きっと華々しい飾りが、京栄の都中を彩っていることだろう。人々の喧騒がそれに重なり合い、まるでいつもの何十倍も人がいるみたいだ。
「大陸の方々がやってまいりましたよ」
片手に黒いものを持って、千香が部屋に入ってきた。
「たった今ご挨拶を済ませたところです。ほら、こんなに可愛らしいものをいただきましたよ」
彼女が持っているのは、色鮮やかな刺繍が施された黒い犬の人形だった。
大陸に古くから伝わる工芸品のおもちゃだ。
「それ、見たことあります! いいなあ、ほしいなぁ……音羽もほしいよな?」
いきなり布団から体を起こした桜夜は、そばにいた音羽の両肩をつかんで顔を覗き込んだ。音羽は驚きながらも、千香の手に乗っている人形をちらりと見ると、急に目を大きくして口をぽかんと開けた。
「おお、音羽も気に入ったみたいだぞ。というわけで抱月、買ってきてくれ」
「言うと思ったよ」
期待の目が抱月に向けられる。
「なんだよ。せっかく音羽が興味を持ったんだから、買ってきてやれって」
あの人形は十二支をかたどったものだ。
架空上の生き物もいるが、実際にモデルとなった動物たちは、天変地異が起きた際にほぼすべて死滅してしまったらしい。
だから今となっては、あのような人形や絵巻物だけが、当時の彼らの姿を知る唯一の情報でもある。大陸でしか作られていないので、日本では人気が高い品物だ。
「高いんだよなぁ……」
「じゃあ蒼雪にたのんでみたら。私もあの人と一緒にいたから貰えたようなものだし」
「千香様、そんなに簡単に言わないでくださいよ」
「あらどうして。あなた達は兄弟なんですもの、そんなこと簡単でしょ」
この間刀を交えて以来、蒼雪とはほとんど口をきいていない。
一週間ほどを振り返ってみても、どうやら自宅には帰ってきているようだが、一度も顔を合わせなかった。
陰陽寮内の廊下で何度かすれ違ったりもしたが、お互い顔をあわせようとはしなかった。盗み見た兄は、いつ見ても何一つ変わらない。
その整った顔で、無表情のままで、ただ抱月の横を通り過ぎるだけ。
抱月を無視するためにわざとやっているのだろうか。それとも、何か別のことを考えているのだろうか。
「抱月、どうしたの」
音羽が心配そうな顔をしてこちらを見ていた。気づけば、桜夜と千香も同じように自分を見ている。
「いや、なんでもない。じゃあ行ってくるよ。種類は何でもいいだろ」
「私、一緒に行ってあげる。抱月、一人が嫌なんでしょ」
あまりに唐突な言葉だった。一瞬、誰がその言葉を発したのかわからなかった。
目が合うと、音羽がにっこりと笑った。
桜夜の隣から立ち上がって、あっという間に抱月の隣に並んだ。本当に何の違和感もなかった。まるでそれが当たり前のように。
「亜矢ちゃんにも、一つあげても良い?」
頷いてやると、音羽はまた嬉しそうに笑った。
たったそれだけのことだが、自信が湧いてくる。
きっと自分たちは、同じように生きていけるのだと。
あれから、都の者ならば誰でも見ることができる本などはすべて調べた。
しかし獣人に関する書物は、ありきたりなものしか見つからなかった。
あとは現在この都で政治の中心を司っている陰陽頭のもとにしか、そういった資料は保管されていないだろう。
どの文献も口をそろえて、「獣人は陰陽師に災厄をもたらす生き物である」と抱月に言う。それはきわめて簡潔で、しかし獣人と自分たちの世界を遠ざけるには十分な言葉だった。
自分で答えを探すしかなさそうだ。
それに気づいたときは、途方に暮れるしかなかった。
何もなければ良かったのかもしれないとさえ思った。
ただ当たり前に自分たちは獣人を狩り、毎日を暮らしていけばそれで良かったのかも知れない。そうして少しずつ歳をとって、やがて死んでいく。それが普通の生き方なのだ。
今までがそうであったように、これからもただ、そうしていけば良いだけのこと。
でも、自分は出会ってしまった。
同じように笑い、泣き、話し、生きようとする存在に。
音羽の存在が、自分を動かそうとしている。獣人とは何なのか、共存する術はないのかと。
当たり前のように、二人がこうして並んで歩いている。それが今はまだ定義のない不安定なものだとしても……。
* * *
「確かに、あの少女で間違いありません」
そう言ってやると、向かいに座る朱色の衣を着た男が笑った。すべてを嘲るような顔をしていた。
この男の命令を聞くのは、死ぬほど嫌で不快だった。
「こちらの準備が整うまで、あと少し時間がかかる。それまでお前はあの娘を監視しておけ。だがそう遠くないうちに、あの娘は引き渡してもらうことになるだろう」
「承知しました。お任せください」
すると一瞬、弟の顔が浮かんだ。
もちろん、反対するだろう。自分に刃を向けてくるかもしれない。
そうだ、自分に刃を向けさせればいいのだ。怨まれるのは自分だけでいい。彼らは何も知らなくていいのだ。ただ当たり前の日常を過ごしているだけで、簡単に世界は動いてくれるのだから。
“成り行き”なんと都合の良い言葉だろう。
すべてその言葉のせいにしてしまえばいいのだ。怨むなら、自分を怨んでくれてかまわない。それで自分の大切な者達が守れるのなら。
抱月がこちらへやってくる気配を感じた。あの少女も一緒だ。
せめて、今だけは──
「では私はこれで。また何かありましたらお呼びください」
出て行こうとして障子に手をかける。すると背後であの男がまた笑ったのがわかった。
「蒼雪、大陸語が上手くなったな」
「……いいえ、褒められるようなことではありません。当たり前のことです」
聞こえないくらい小さな声で言うと、蒼雪は逃げるようにして部屋を出た。
久しぶりの更新です。いつも読んでくださる方々には、大変お待たせしてすみませんでした。
またよろしくお願いします☆