第九話 涙
都では、一週間後に迫った“陰陽祭”の準備が始まっていた。
この祭りでは、陰陽寮の庭で楽器の演奏会があったり、役者が舞を舞ったりする。
そして陰陽師たちは、自分の式神を使って列を組ませる。それが都の城壁に沿って、祭りの間ぐるぐると行進して回るのだ。
古代種の先祖達は、“回る”ということで守りの神が降りてくると考えた。
つまりそこには、新生種が都へ侵入してこないように、という願いが込められている。
「千香様の式神は、いつ見ても可愛らしいですね。もちろん、今年もこの子たちを祭りに出すんですよね」
「ええ、そのつもり」
黄色い小鳥を肩から腕に乗せる。
その黒くて丸い瞳や、せわしなく首を動かす様子に亜矢は自然と微笑んでしまう。
「まるで本当に生きてるみたい。素晴らしいです」
庭先にある木の枝からは、同じような小鳥たちの清らかな鳴き声が聞こえてくる。
傍らを見ると、桃色の小鳥が千香の細い指先にそっと舞い降りたところだった。
黄緑色の十二単がよく似合う人だ、と亜矢は思った。
木々の色。遥か昔は緑が地面を覆っていたという。まさに自然の色とはこの事だ。
「ありがとう亜矢。でもあんまり褒めすぎじゃないかしら」
控えめに微笑んで、それから指先の小鳥を撫でる。すると小鳥は一瞬形を失い、すぐに一枚の紙に変化した。
「私も早くこんな技術を身につけたいです」
「亜矢ならきっとできるわ」
それから自分も千香と少し感覚を空けて縁側に座り、庭で式神と戯れる少女に目をやった。
「良かった。音羽ちゃん大丈夫そうね」
今の声が聞こえたかのか、少女がこちらを向いた。そして頭や肩に沢山の小鳥を乗せたまま、歩み寄ってきた。
「これは、とり、っていうの?」
「そう、鳥だよ。気に入った?」
音羽は嬉しそうにうなずいた。
彼女は新しく覚えた単語を、本当に大切そうに発音する。
亜矢がほんの少し言葉を教えただけなのに、あっという間に意味を理解して使うことができた。最初から言葉を知っていたのではないかと思うほどだ。まるで、無くしていた物を取り戻したかのように。
「この子達と遊びたくなったら、いつでもここに来ていいのよ」
千香が笑いかけた。
「うん、いつでも……」
音羽も笑顔を半分作りかけたが、そのまま表情を曇らせてしまった。途端に式神達が紙切れに戻り、ひらひらと散った。
「どうしたの」
胸に手を当てたかと思うと、苦しそうにして膝をつく。
「音羽ちゃん、大丈夫? どうしたの」
亜矢が横にかがんで音羽の背中をさすってみる。しかし彼女はうめき声を上げるだけだった。一体何事かと、亜矢と千香が顔を見合わせたその時。
「血の……におい」
「え」
「血のにおいが、する」
それまでただ苦しそうにしていた音羽が急に立ち上がり、宙を見つめたまま何か小さくつぶやく。そして間もなく陰陽寮の出口へ向かって走り出した。
「千香様、私は、ど、どうしたら」
「追いなさい。行けばわかるわ。大丈夫、私はちゃんとここで待っています」
千香はすでに何事か悟っているようで、亜矢に向かってしっかりと頷いてくれた。
その一言で不思議と足が軽くなった。
門を出て正面の大通りに音羽がいないのを確認すると、今度は左右に首をめぐらす。
左の道に小さくなっていく少女の姿を見た。だが、あっという間に祭りの準備で賑わう人々の中に消えてしまった。
「急がなくちゃ……もしかして西門へ向かったのかも」
とりあえず代役は配置されたようだが、桜夜が不在の西門はいつもより警備が薄いと言えるだろう。もし今都に危険が及べば──さまざまな不安を抱えながら、亜矢は走り出した。
* * *
目の前がだんだんと揺れ始め、足が動かなくなっていく。
西門にたどり着いた瞬間、抱月はついに倒れこんだ。
前方から、驚いた門番達の声が聞こえてきた。駆け寄ってくる足音。名前を呼ばれているのがわかった。
「どうなさいました。しっかりしてください!」
「今陰陽寮に運びます! もう少しの辛抱です」
しかしもう喋る気力が残っていない。このまま気を失うだろう。そう思った瞬間。
「抱月!」
かすかに聞こえた、少女の声。
「抱月、どうしたの。抱月」
それはだんだんはっきりとしていく。
閉じかけていた目を無理矢理開けると、駆け寄ってくる少女の姿が見えた。
門番達の制止を振り切って、間に割り込んでくる。そしてうつ伏せになっている自分を起こし、顔を覗き込んだ。
「ねえ抱月、血が出てるよ。沢山、血が」
ぽたりと何かがこぼれ落ちた。
「音羽……泣いて、いるのか」
少女の目から、一滴また一滴と涙の雫が落ちていく。
確か前に一度音羽が泣いた時は、おおよそ人間とはかけ離れた泣き方をした。あれはまるで獣のようだった。
しかし、今自分を見ながら涙を流すその姿は。
「痛い。苦しい。怖い」
単語を一つずつ並べて、音羽は胸を押さえた。
「死ぬの? 抱月、死ぬの?」
「死んだりしないよ」
音羽の涙は抱月の顔や喉に落ち、着物に染みをつくった。
間もなく、体中に温かさを感じた。引き裂かれるような痛みが、少しずつ薄れていくような感覚に陥る。
いよいよ気を失う寸前なのだろうか。瞼が重いような気もする。
「これは一体!?」
すると突然、門番達の驚く声がした。不思議に思って目を開けると、光のようなものが見える。自分の体が光っているのだと認識するまでに、そう時間はかからなかった。
傷口の痛みが和らいでいくのがはっきりとわかった。
ためしに、自分の力で起き上がってみる。今までのだるさが、嘘のように吹き飛んでいる。そこらじゅうに出来ていた傷を見てみるが、どれもがうっすらと跡を残すのみ。血が出ている個所は一つも無かった。どうやら錯覚ではないらしい。
「音羽、お前」
いまだに涙を流している少女を見た。
光の正体、それはおそらく。
「もう大丈夫だ。ありがとう音羽」
「よかった。大丈夫なんだね」
音羽が一度袖で目を拭くと、涙が止まった。
それとほぼ同時に、抱月の体を包んでいた光もゆっくりと消えていく。
「音羽ちゃん!」
亜矢の声がした。息を切らしながら走ってきたようだ。そういえば、音羽の面倒をみるよう頼んでおいた事を思い出す。
どうやら音羽のことを追いかけてきたらしく、自分の姿を見ると酷く驚いた顔をした。
「抱月様、どうなさいました!?」
辺りのおびただしい血痕と抱月を交互に見る。
「抱月様、お体は……」
「ああ、なんともないよ」
立ち上がって音羽に手を差し出す。彼女は嬉しそうに笑って、腕を絡ませてきた。
「さあ陰陽寮へ戻ろう」
それから亜矢にも付いてくるように目で促すと、呆然としている門番達を横目に歩き出した。