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鋼の王 ~アンドリュー・カーネギーの贖罪~  作者: しばたろう


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01 18歳 ペンシルベニア鉄道秘書兼電信技手

1853年 ペンシルベニア州 ピッツバーグ


 夜明け前のピッツバーグは、火を噴く高炉の残光と、絶え間なく吐き出される煤煙に包まれていた。

 「屋根のある地獄」と称されるこの街で、鉄の道――ペンシルベニア鉄道の管理棟だけは、不気味なほど静まり返っている。


 弱冠18歳のアンドリュー・カーネギーは、誰よりも早くその扉を開けた。

 分局長室に足を踏み入れ、まだ冷え切った空気を吸い込んだその時だ。


 ――カチ、カチカチッ、カチッ……。


 沈黙を破り、電信機ティッカーが狂ったように震え出した。

 本来なら、印字される紙テープを読み取らねばならない。だが、アンドリューは動かない。椅子に座ることさえせず、ただその「音」に耳を澄ませた。


 彼には聞こえていた。

 ドットの羅列ではなく、明確な「言葉」として。

 独学で身に付けた特殊技能――音読法が、東部で発生した大事故の惨状を、脳内に直接描き出していく。


「……急行列車が脱線。後続は三本、いずれも立ち往生か」


 アンドリューの背中に冷たい汗が伝う。

 事態は最悪だ。単線の線路は、たった一つの計算違いで正面衝突を引き起こす「鉄の槍」へと変わる。数キロに及ぶ貨物と旅客が動けず、物流は死に体。放置すれば会社は天文学的な損失を出し、何より、後続列車が突っ込めば凄惨な地獄絵図が広がるだろう。


 一刻も早い指示が必要だった。

 ──どの駅で、どの列車を待機させ、どの列車を優先して通すか

 単線の線路において、その判断一つが正面衝突を回避する唯一の鍵となる。

 だが、その運行命令オーダーを出せる権限を持つ唯一の男、分局長トーマス・スコットはまだ出勤していない。


「待つべきか……。いや、待てば手遅れになる」


 アンドリューは、あるじのいない豪華な執務机を見つめた。

 ルールは絶対だ。権限のない若造が所長のふりをして指示を出すなど、クビどころか犯罪者として監獄に送られても文句は言えない。


 しかし、アンドリューの胸の奥で、別の何かが拍動していた。

 現場で泥と油にまみれ、絶望的な朝を迎えている作業員たちを救いたいという想い。

 そして、それ以上に抗いがたい、熱い衝動。


(俺なら、やれる)


 複雑に絡み合った全組織の糸を、この指先一つで解きほぐしてみせる。

 自分のなかに眠る巨大な知性が、全神経が、この「支配権」を求めて咆哮していた。


 アンドリューは、意を決して分局長の椅子に深く腰を下ろした。


「……俺が、スコットさんになる」


 細い指が、電信機のキーを叩く。

 迷いはなかった。


『全駅へ告ぐ。〇〇列車は〇〇駅で待機。後続の旅客機を最優先で通過させろ。――T.A.S.』


 末尾に刻んだのは、スコットの署名。

 それは、人生を賭けた偽装であり、歴史を動かす最初の一打だった。


 それからの数時間は、まさに「一人だけの戦争」だった。

 アンドリューは各列車の位置を完璧に把握し、チェスの駒を動かすように、合理的で冷徹な、それでいて一点の曇りもない完璧な指示を飛ばし続けた。


 やがて。

 電信機から、最後の一本の列車が動き出したという報告が届く。

 混乱は収束した。死者は出ず、鉄の動脈は再び脈打ち始めたのだ。


 その瞬間、部屋のドアが勢いよく開いた。


「事態はどうなっている!」


 駆け込んできたのは、肩で息をするスコット分局長だった。

 アンドリューは無言で立ち上がり、震える手で一枚の書類を差し出した。


「あなたが不在でしたので、お名前を借りました。すべて解決しています。……これが、その全記録です」


 スコットは書類をひったくるように受け取ると、厳しい顔で読み耽った。

 

 ──調子に乗りすぎた。


 部屋に沈黙が落ちる。アンドリューは生きた心地がしなかった。


 だが。


「……そうか」


 返ってきた声は、意外なほど静かだった。

 

 怒りもない。

 称賛もない。

 

 スコットは書類を机へ置くと、それ以上は何も言わなかった。


 アンドリューは恐怖のあまり、二度とこんな真似はしないと心に誓い、煤けたピッツバーグの街をフラフラと帰路についた。


 だが数日後、彼は同僚から信じられない話を耳にする。


 鉄道会社の重役会議で、スコットが意気揚々と語っていたというのだ。

 

「驚いたよ。あのスコットランドの小僧が、俺の不在中にたった一人で鉄道を動かしやがったんだ。――地獄のように賢い、とんでもない奴だ」


 後に「鉄鋼王」と呼ばれる男。

 アンドリュー・カーネギーの物語は、この不遜な独断から始まったのである。

 

 

 その日、アンドリューはスコットに呼び出された。

 先日の件がある。

 いくら「自慢して回っている」と噂に聞いていても、本人を前にすると身体が強張った。


 だが、スコットの口から飛び出したのは、叱責ではなかった。


「アンディ。五百ドルほど、用意できるか?」


「……五百ドル、ですか?」


 あまりに突拍子もない金額に、アンドリューは思わず聞き返す。


「アダムス・エクスプレス社の株が売りに出される。これはただの商売じゃない。君の将来を変える鍵になるはずだ」


 スコットの目は真剣だった。有能な部下を「資本家」の側へ引き上げようという、彼なりの期待の表れだった。

 

 アンドリューは直感した。

 これは、人生を変える話だ。


 だが、一つ問題がある。

 

(そんな金、あるわけがない)


 一八歳の彼にとって、五百ドルは天文学的な数字だった。


 返事を待ってもらい、アンドリューは帰路に就いた。

 重い足取りで歩く道すがら、彼の脳裏にはこれまでの職歴が巡っていた。


 アンドリューが初めて職に就いたのは一三歳の時だ。

 綿織物工場で、紡績機の糸巻ボビンを交換する「ボビン・ボーイ」。一家がアメリカに到着して最初に得た仕事であり、朝六時から夜まで働いて、月給はわずか四ドル八〇セントだった。


 その後の歩みも、決して楽なものではなかった。

 蒸気機関の火焚き・油差しとして地下室で働き、月給八ドル。

 必死に街を駆け回った電信配達員時代は、月給一〇ドル。

 独学で技術を盗み、ようやく掴んだ電信技手で、月給一六ドル。

 そして今、ペンシルベニア鉄道の秘書兼電信技手として得ている月給が、三五ドルだ。


 五百ドル。

 今の給料を何年積み上げれば届くのか、想像もつかない。


「こういう時は、まず母さんに相談だな……」


 アンドリューにとって、母マーガレットは絶対的な存在であった。

 スコットランドで父が失業し、一家が没落した際、家族をアメリカへ渡らせる決断をしたのは彼女であった。渡米後も内職で家計を支え、常に「上を向いて生きる」ことをアンドリューに説き続けてきた。


 その夜、アンドリューは勇気を振り絞って母に相談した。

 靴を縫う内職の手を止め、母は静かに息子の話を聞いた。


「あんたがそれほど信じている人の言葉なら、賭けてみようじゃないか」


「しかし、どうやって、そんな金を用意するんだ?」


 横で見ていた父ウィリアムが、不安げに疑問を呈した。時代の波に飲まれ、職を失った父の目には、その金額はあまりに巨大なリスクに映ったのだろう。


「家を担保に借りる」


 母は言い切った。

 この家は、家族全員が泥にまみれて働き、ようやく手に入れたものだ。まだ借金も大きく残っている。失敗すれば、文字通り路頭に迷う。

 それでも、母は有無を言わせない決断を下した。まさに、この親にしてこの子ありであった。


 彼女は翌日、親戚中を回り、ついには家を抵当に入れて五百ドルを工面してきた。

 アンドリューの肩には、家族全員の運命という、先日の鉄道事故の処理よりも重い責任がのしかかった。


 数週間後。

 オフィスのデスクに、一通の白い封筒が届いた。

 震える手で封を切ると、中から一枚の紙切れが滑り落ちた。


 それは、一〇ドルの小切手だった。

 自分が汗を流して働いた対価ではない。投資した「資本」が、自律的に生み出した富。その紙切れの冷たい手触りは、アンドリューの心に、労働者としての誇りとは全く別の、鋭い野心の火を灯した。


 これは、アンドリュー・カーネギーが資本家として踏み出した、小さくも偉大な一歩であった。

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