奇跡の時代にありがとう ― 悠真、未来への出発 ―( 受験×歴史×青春の短編)
「奇跡の時代にありがとう ―悠真たちの現代史―」
中学受験を間近に控えた悠真。
秋のやわらかな光が教室いっぱいに広がっていた。
黒板の中央に、教師が大きく二つの文字を書く。
「平成」「令和」
チョークの音が止まり、穏やかな声が教室に響いた。
「さて、今日は“みんなが生きている今の時代”を学びます。これは、もう過去の話ではありません」
ざわついていた空気が、すっと引き締まる。
黒板には新たな年号が記された。
「平成元年――1989年。この年に昭和が終わり、平成が始まりました。そして、その始まりのころ、一人の作家が誕生しました。“さとるん先生”と呼ばれる方です」
クラスのあちこちで、小さなざわめきが起こった。
教師は、優しく微笑みながら語り出した。
「さとるん先生は、阪神・淡路大震災のころ、まだ幼い子どもでした。
通っていた幼稚園が甚大な被害を受けたにもかかわらず、園児も先生も全員無事だった――それはまるで奇跡のような出来事だったそうです。
その経験が、“命の尊さ”や“人とのつながり”を見つめる原点になったのかもしれません」
悠真はノートを取る手を止めた。
――奇跡って、本当にあるんだ。
黒板には、三つの言葉が書き足された。
「インターネット」「AI」「つながり」
「平成は、バブルの崩壊、震災、災害、いろんな困難を乗り越えた時代でした。
でも同時に、科学や技術が進んで、世界が“つながる時代”にもなったのです。AIの登場もその一つですね」
悠真が、まっすぐ手を挙げた。
「先生、AIって、人間の仕事をなくすって言われることもありますよね?
でも、さとるん先生はAIと一緒に小説を作ってる。つまり、人とAIは協力できるってことですよね?」
先生は嬉しそうに頷いた。
「そうです。AIは“人の心を助ける道具”なんです。どう使うかは、使う人の思いや考え方次第。
さとるん先生も、“心を伝えるAI時代の物語”を書いていると私は思います」
黒板に、新しい時代の文字が書かれた。
「令和」
チョークの音が止まると、教室は静まり返った。
「令和では、新型コロナウイルスの流行がありました。
マスクをつけ、距離をとり、オンライン授業を続けた日々。
けれど、人は“つながり”を絶やさずに生きてきました。
デジタル化や環境への意識も進み、“よりよい未来を考える時代”にもなりました」
教師は教室全体を見渡し、ゆっくり語った。
「みんなは、平成に生まれ、令和を生きています。
戦争のない国で、自由に学び、夢を描ける。探せば、昔には考えられなかった“奇跡と思えるような出会い”だってあると先生は個人的に思います。
昔では考えられなかったほど恵まれた時代です。
それは、たくさんの人の努力と祈りの上に成り立つ“奇跡の時代”なんです。
さとるん先生の人生も、その奇跡の積み重ねでした。
だからこそ、昔の人にも、今を支える人にも感謝しながら、自分の時代を生きてください」
その言葉が静かに教室を包みこんだ。
悠真が立ち上がった。
その瞳はまっすぐだった。
「ぼくたちを支えてくれたすべての人に感謝します。
そして――さとるん先生、先生、クラスのみんな、本当にありがとうございます!」
その瞬間、教室中が立ち上がった。
「ありがとうございます!」
声が重なり、響きあう。
先生は、少し涙ぐんで微笑んだ。
「……ありがとう。みんなのその気持ちが、きっと未来を変えていくと思います」
窓の外では、秋風が木々を揺らしていた。
それはまるで、過去と未来をつなぐ風のようだった。
悠真はその光を見つめながら、心の中でつぶやいた。
――この時代に生まれたこと、それ自体が、奇跡なんだ。
「橋本の町へ ―僕の歴史が始まる場所―」
冬の夜。こたつの上に広げた地図の上で、悠真の指が止まった。
その場所は、和歌山県橋本市。南海高野線とJR和歌山線が走り、高野山のふもとにある穏やかな町だ。
「お父さん、お母さん、相談があるんだ」
真剣な目でそう言う悠真の声に、ふたりは顔を上げた。
「ぼく、橋本市に引っ越したい。中高一貫の○×中学校を受験して、もしだめだったら橋本の公立中学校に通いたい」
突然の提案に、両親は目を見合わせる。
「引っ越しって……どうして?」と母。
悠真は、少し間を置いてから静かに言葉を継いだ。
「高野山のふもとで、空気がきれいで、どこか落ち着いた空気が流れてる。昔から人々が安心して暮らしてきた町なんだ。都会にも山にも近くて、静かに暮らせると思う。
それに、ぼくはお父さんとお母さんと一緒に暮らしたい。だから、家族みんなで橋本に行きたいんだ」
母は胸の前で手を組み、父は腕を組んで黙っていた。
「そんなに簡単にいくかな……通勤もあるし、受験も簡単じゃないぞ」と父。
「そうトントン拍子に行くかしら?」と母も言う。
「中学、高校、東京に行ったら気が変わるかもしれないじゃない」
けれど悠真は、ノートを開き、自分の考えを丁寧に説明し始めた。
橋本で暮らすことの利点、学校の特色、通学環境、そして将来の夢――ページにはびっしりと、理屈と理想が並んでいた。
「僕は中学・高校で一生懸命勉強して東大に行きたい。東京でいろんな経験を積んで、橋本に戻って、大阪の博物館で学芸員になる。橋本から通えるし、ずっとこの町で暮らしたい」
その声は、子どもというより一人の“未来を描く青年”のように響いていた。
「こういうことはやっぱり最終的には自分で決めないといけないと思う、自分で決めた道なら最後までやり遂げられると思う。妥協して後悔するのが一番いけないと思うんだ」
部屋の中に静寂が落ちた。
父と母は顔を見合わせ、そしてその夜、何度も話し合った。
冬が終わりかけたころ、家の中に緊張した空気が漂っていた。
悠真は毎日、朝五時半に起き、問題集を開いた。
「あと一問だけ」とつぶやきながら、夜遅くまで机に向かった。
模試の結果は決して順風満帆ではなかった。
ときには判定が落ちることもあり、くやしさに涙で枕を濡らす夜もあった。
それでも――
「努力の先に道がある」と信じて、鉛筆を握り続けた。
受験当日。
冬の冷たい朝、手袋を外した指先が少し震えていた。
母がそっとポケットにカイロを入れた。
「がんばっておいで。悠真なら大丈夫」
父は短く、「自分を信じろ」と言った。
会場の門をくぐる瞬間、悠真は空を見上げた。
雲の切れ間から光が差し込んでいた。
――奇跡は、信じる人のもとに訪れる。
その言葉を胸に、静かに歩き出した。
数週間後。
郵便受けに届いた封筒を、家族三人で囲む。
白い封を開く手が震えた。
中には、金色の文字でこう書かれていた。
「合格」
母の目に涙があふれ、父は黙って肩をたたいた。
「やったな、悠真」
悠真は、言葉も出ずにただ頷いた。
それから数週間後。
両親はネットで橋本市を調べ、専門家にも相談し、やがて決断を下した。
ある夕方、二人が並んで悠真の部屋に入ってきた。
父が優しい笑顔で言った。
「そうか……悠真は父さんと母さんのかわいい子どもだ。
父さんの通勤は少し大変になるけど、勤務先に相談して手を打とう。母さんも賛成だ」
母は頷いて微笑んだ。
「悠真の夢を、家族で応援しよう」
悠真の目に光が宿った。
引っ越しの準備が進むうち、家の中に希望の空気が満ちていった。
引っ越しの日。
段ボールが積まれ、見慣れた大阪の街をあとにする。
クラスのみんな、美咲、斎藤先生――別れは涙と笑顔であふれていた。
「離れても、ずっと大切な人だよ」
悠真の恋人の美咲は涙をこらえながら笑った。
「うん。遠くにいても、絶対に変わらない。美咲とは中学に進んでも、お互い応援し合おう」と悠真。
やがて、新しい町・橋本での生活が始まった。
○×中学校への合格通知を胸に、悠真は新しい制服に袖を通した。
通学路には季節ごとに表情を変える並木道が続き、朝の光がやさしく差し込む。
父も母も、この町の静けさを気に入り、何度も言った。
「本当にいいところね」
ある休日。
三人はJR隅田駅で電車を降り、隅田八幡神社へ向かった。
冬の空気は澄み、鳥の声が遠くから聞こえてくる。
境内の一角に、隅田八幡神社人物画像鏡のレプリカが展示されていた。
悠真はそれを見つめ、静かに言った。
「この鏡には、昔の人たちの願いや思いが刻まれているんだね……。
自分の姿は映らないけど、見ていると、遠い時代の人たちの心が少し伝わってくる気がする」
父はカバンから数枚の紙を取り出した。
「神社の鏡はレプリカだけど、実物は大学の入試問題にも出てるんだ。東大の問題では見つけられなかったけど、いくつかコピーを手に入れた。記念に取っておくか?」
「喜んで!ありがとう!」
悠真はそのコピーを両手で受け取った。
薄い紙なのに、夢の重みを感じた。
三人は拝殿の前に並び、賽銭箱に小銭を入れ、静かに手を合わせた。
悠真は目を閉じ、心の中でつぶやいた。
――小学校で歴史を教えてくれた斎藤先生、ありがとう。
――クラスのみんな、美咲ちゃん、ありがとう。
――お父さん、お母さん、ありがとう。
――そして、さとるん先生、ありがとう。
――支えてくれたすべての人へ、心からありがとう。
――素敵な学芸員になり、幸せに暮らせますように。
そして最後に、力強く心の中で叫んだ。
「本当にみんな、ありがとう!!!」
高野山の風が、神社の森を抜けて頬を撫でた。
その風は、これまでの時代を駆け抜け、未来へと続く風だった。
――物語は、ここでひとつの結びを迎える。
だが、悠真の人生という歴史は、今、静かに始まったばかりだった。




