公爵子息から平民へ 3
平民街の東側にある真実の愛の相手だったイリーネのアパートから、西側中央に位置する商業ギルドまで歩くのは流石に堪えた。馬車移動が当たり前で、貴族子息の嗜みとしての狩りもほぼ馬に騎乗しているし、強いて言うなら剣術稽古の一環として騎士見習いの訓練に参加した以来の疲労を感じていた。
ギルドの扉を開ける前にハンカチで汗を拭い、ひと呼吸してから扉に手をかけようとして、先に大きな背負子の行商人が駆けこんでいった。
商業ギルドは、大きな商会から小売店、屋台、露店、行商と商いの全てを牛耳る組織であり、外見では凡その強さも判断しにくい場合がある冒険者や、腕利きの技術がわかりにくい鍛冶などの職人に比べ、商人は身なりで差が出るため商業ギルドの職員も訪れる者を一瞥で判断する。つまり、ギルドに益を齎す者か害になる者か……。
リーンはぐるりとホールを見渡し、ゆったりとした足取りで「受付」カウンターへと進んだ。ある人物との面会が希望だが、今日はいつもと違って約束をしていない。断られることはないと思うが、相手が不在の場合もある。その場合は「受付」の職員に少々無理を言って融通を利かせてもらいたいのだが、優秀な職員に当たるかどうか……これも運だろう。
二つある窓口の一つには、先ほどの行商人が身を乗り出して自分の窮状を訴えているが、受付の職員は辟易とした顔で横を向いている。リーンはもう一つの窓口に座る女性職員ににこやかに話しかけた。
「よろしいですか?」
「はい。まずはギルドカードのご提示をお願いします」
上着の胸ポケットから銀色のカードを取り出し、窓口の彼女に見えるように翳した。そのカードを確認した女性職員の眼が変わる。
「カードをこちらに。はい確認いたしました。リーンハルト様、ご用件は?」
「約束はしていないんだが……ギルドマスターと面会はできるかな?」
「……確認してまいります。少々お待ちください」
女性職員は立ち上がるとスタスタと奥へと姿を消した。リーンも何度か入室したギルドマスターの執務室へと向かったのだろう。リーンは自分のギルドカードに視線を移し、ニヤリと笑う。
家族や友人、元婚約者にも、もちろん元真実の愛の相手にも秘密にしていたが、リーンハルトは公爵子息という身分以外にも別の顔を持っていた。それが商業ギルドの高ランクギルド員、シルバーランクの商人……ではなく、魔道具職人だ。魔法を行使できる人は限られていて、貴族は生活魔法程度、平民は魔力を保持することが稀である。そのため魔道具職人自体が希少であり、その中で王都や王都以外でも流通する魔道具を作りだせる職人は金の卵を産む鶏同然。職人ギルドと商業ギルドが取り合いするほどの人物だ。
そして、そんな金の卵を産む鶏のリーンは、無事にギルドマスターとの面会が許されたのだった。
ギルド職員の案内でギルドマスターの執務室へと入り、革張りのソファーに身を沈め、高級茶葉で淹れた紅茶を楽しむ。まるで、公爵家を追い出されたのが悪い冗談だったみたいだ。
「……まさかそんなことになっているとは……」
対面に座ったギルドマスターは両手で顔を覆い、リーンの身に起きた災難に打ちひしがれている、本人よりも。
「まあまあ。婚約がダメになって家を追い出されただけさ。婚約破棄の面倒な手続きや慰謝料などの支払いは父上がなさるだろうし。僕としては問題ないよ」
「大アリですよっ。公爵の身分がなくなり平民となってしまったのですよ!」
ダンッとテーブルを強く拳で叩いたが、痛くはないのだろうか? と明後日の方向に思考を飛ばし、出されたお茶菓子に手を伸ばす。そういえば……昼食を取り損なっていた。
「はあああぁぁっ。なぜ、そのように泰然とされているのか」
「そうは言ってもね。魔道具職人としての身分もあるし……。そうそう、ヨハンにお願いしたいのは、僕の商業ギルドでの登録名を変更してほしいのと、父上から貰った手切金を僕の口座に入金してくれないか?」
テーブルの上に先ほどギルド職員に見せた銀色のギルドカードと、父上からと老執事から手渡された小切手を出す。
「……登録名はどうしますか?」
「リーンハルト・ユンカースは仰々しいからね。ただのリーンと。それと……僕ってお金は持っているのかい?」
リーンの惚けた質問にギルドマスターは大きくため息を吐き、ソファーから立ち上がった。トレントの木で仕上げたと噂されるツヤツヤとした執務机の上の魔道具を使いリーンの登録名を変更し、小切手にはなにやら印を押したり番号を書き写したりしたあと、小さな水晶にリーンのギルドカードを翳す。
「お父上からの小切手でも、平民なら贅沢しなければ一生食べていけるお金がありますよ」
「ほうっ。あれだね、父上も平民の暮らしなどわからないから、精々一年分の予算を渡したつもりなのでは?」
小切手は紛れもない手切れ金であって、父上からの愛情ではないと言い切るリーンに、ギルドマスターは苦笑してみせた。
「まあ、リーン様はすでに創った魔道具でそれなりの資産をお持ちです。どうします? 男爵位ぐらいなら買えますよ?」
「ははは。いいよ、いいよ。せっかく貴族生活から逃げられたのだから」
リーンは、優雅に足を組みギルドマスターへにっこりと笑ってみせた。




