テオのひとりごと
「ああ~っ」
クルト兄ちゃんが嘆く小さな呟きが、オレの耳に飛び込んできた。クルト兄ちゃんのほうへ視線を向ければ、しょぼんとしたリーン様の姿が見える。……高そうなズボンの膝が土で真っ黒だ。もしかして、転んだのかな?
リーン様は変な人だ。いや、オレとニナの恩人だけど……リーン様は本当は偉い貴族様で、平民と接することもない、ましてやスラム育ちのガキなんて相手にしない人だ。なんで、そんな人が平民街の外れの家で慣れない畑仕事を楽しそうにして、すっ転んでいるのかはわからないけど。
オレは親が死んで孤児になった。孤児院には入れない事情があるから、流れ流れてニナと一緒にスラム街に行きついた。そこはガキだけで生きるには厳しい場所だった。何もない汚いところに座っていても、通りすがりのおじさんに殴られて金を強請られる。逃げて逃げて、腹が減っても食べるものはなくて、喉が渇いても、水は汚い水しかなくて、ニナが泣いて……、オレは食いものを盗もうと決めた。金持ちの爺さんの懐から金を盗んでもいいと思い詰めていた。
「お前ら、新入りか?」
ギラギラと剣呑な色を浮かべた瞳を、知らない少年が覗き込む。散々、暴力と恫喝に晒されてきたオレはニナを背中に庇い、見知らぬ少年を睨みつけた。
「……お前ら、行くところなかったらこいよ」
ニカッと笑った顔に毒気を抜かれて、ニナもわんわんと泣き出すし、腹はグーグーと鳴るし、オレたちはその少年、クルト兄ちゃんが住むあばら家へと連れていかれた。
たぶん、その日のクルト兄ちゃんの夕飯だったろう、小さな黒パンをニナと分けて、クズ野菜の入った味の薄いスープを飲んで、ボロボロと涙を零しつつ眠った。スラム街にきて初めて眠れることができた日だった。
次の日から、クルト兄ちゃんにスラム街での生き方や稼ぎ方を教えてもらう。ニナを一人にするのは不安だったけど、クルト兄ちゃんが信用しているお姉さんやおばさんに子守りを頼むことにした。彼女たちは夜から仕事なので、昼はヒマなのだと笑ってくれた。
「いいか、テオ。どんなに苦しくても腹が減っても、悪いことはしちゃならねぇ」
「でも……腹が減ったら辛いし……ニナを守らなきゃ」
そう、オレは死んでもいいけど、ニナは守らなきゃ。ニナは絶対に守らなきゃいけない。これは死んだ母さんとの約束だから。
「ダメだ。一回、悪いことをすると戻れなくなる。絶対に悪いことには手を出すな。盗むな、騙すな、殴るな。危なくなったら逃げるんだ」
逃げる場所なんてもうないよ。親は死んじゃったし、親と仲が良かったおじさんたちも散り散りに逃げていった。旦那様も奥様も……みんないなくなってしまった。オレにはニナだけが残されたんだ。
「そんな悲しい顔をするな。いいか、助けてくれる人がどこかにいるから。きっと」
「クルト兄ちゃんじゃないの?」
「俺はまだガキだ。弱いし、自分のことで精一杯だ。でも、テオとニナが助けてほしいときに、手を伸ばせる大人になるからな!」
クルト兄ちゃんはニカッと最初会ったときのように笑うと、やや乱暴にオレの頭を撫でる。
オレも頑張った。クルト兄ちゃんが真っ当な仕事を見つけてスラム街を出て行っても、オレは教えてもらったことを守りながらニナと二人で懸命に生きていた。でも……ニナが病気になって、何日も熱が下がらなくて、薬を買いたくても金がなくて、その日も手伝っている屋台や店の仕事を終えたあと薬屋に顔を出して、「金がないなら出て行け」と追い出された。悲しくて、ニナを失うのが怖くて泣きながら帰り道をトボトボと歩いているとき、なんか場にそぐわないキラキラが目に入ってきた。
平民街の東地区でお貴族様と出会い、ニナの薬とご飯と果物を買ってもらった……。東地区は平民でもどちらかというと冒険者や気の荒い職人が多く、貴族だったら西の商業地区にいると思うのに……。お貴族様、リーン様はオレの涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔をキレイなハンカチで拭って、ただお金を恵んでくださるだけじゃなく、薬や屋台で必要なものを買って渡してくれた。
ニナは買ってもらった薬と食事で元気になり、果物の甘さにかわいい笑顔を見せてくれた。
そして、ひょんなことで再会したリーン様に纏わりついて、なぜだかわからないうちに使用人として雇ってもらって、高級ホテルの部屋で風呂に入れられている。
「……気持ちいい……」
風呂なんて、親が生きているときに何回か入ったことがあるだけだ。しかも、ここの風呂はすごい! お湯はキレイだし、ジャバジャバ使ってもいいし、ふわふわの泡にいい匂いのする石鹸。体を抜くタオルも真っ白でふわふわだった。
「あっ!」
しまった! まさかスラム街にまで堕ちた生活で、風呂に入ることがあるなんて思ってなかったから失念していた! ニナは大丈夫だろうか?
「ニナ!」
「ふぃ~っ」
ホテルのメイドさんにタオルで全身包まれているニナは、満足そうに吐息をもらしていた。オレと同じ茶色の巻き毛もふわふわしている。よ、よかった~っ。
「ニナ、気持ちよかったか?」
「あ~い」
ふふふ、あったかくて気持ちよくて、半分夢の世界だな?
「リーンさま、そこちがう」
「ああ、ごめんよ。ここはもうニナが水をあげたんだね?」
「あ~い」
リーン様が買った家でオレとニナも一緒に住むことになった。そこに荷運び屋をクビになったクルト兄ちゃんも加わって、毎日賑やかに過ごせている。
リーン様はなんでもやりたがったけど、だいたい失敗してニナに怒られている。
「テオ、朝飯の支度をするぞ」
「うん」
料理もできないリーン様のために、今日もおいしいご飯を作ろう!




