祭り
僕と彼女は違う世界に住んでいた。
あれは小学二年生の夏だった。見知らぬ道を僕は母親の名前を呼びながら歩いていた。道の脇に咲いていた赤い百合も、いつの間にか光を帯びた見知らぬ花に変わっていた。空は青くも黒くもなく、ただ薄い銀の膜をかぶったように、どこまでも静かだった。
足元には滑らかな石の道。けれど、敷き詰められた石はすべて微かに脈を打っていて、誰かの記憶の断面みたいに冷たかった。
耳元で、風のような声がした。
「こっちだよ」
振り向いた先に、少女がいた。それが彼女だった。
高校生くらいの年。けれど、その目は大人びていて、どこか年齢と釣り合っていない光をたたえていた。知っているようで、知らない何かをずっと見つめてきた、そんな人のような目。
彼女の後ろには、無数の灯が浮かんでいた。重力を忘れた光の粒たちが、彼女の歩みに合わせてゆっくり揺れている。灯のひとつひとつが、まるで誰かの名前を内側に抱えているみたいだった。
「お祭り、見に来たの?」
「……知らないうちに来ちゃった。道に迷って……」
「ふうん。きっと君は、選ばれたんだね」
「なにに?」
「観客に」
観客。そう言ったときの彼女の微笑みが、どこか説明を省いた大人のそれに似ていた。
「こっちに来て。まだ、ほんの始まりだから」
少女が手を差し出す。ためらって、それでも取ったその指先は、ほんのすこし熱すぎる気がした。まるで触れてはならないものに、ふれてしまったような。
空のほうから、無音の笛が鳴った。色だけの焔が、時間の外を飛ぶ鳥のように頭上をかすめていった。
「ねえ、君は、何歳?」
「……九歳だけど」
「そっか。そうだよね」
そう呟いた少女の横顔を見て、僕はふと、彼女の耳にうすく透けた金属の皺を見た。けれど次の瞬間には、灯の粒がそれを包んで、隠してしまった。
祭りが、はじまろうとしていた。
*
それから祭りの時期になると、僕はあちらの世界に住む彼女に会うために境界を渡った。
十のとき、彼女は僕の視線に合わせるためにしゃがみ込んでくれた。
十五のとき、僕はようやく彼女と同じ高さからこの世界を見ることができた。
二十を過ぎれば、彼女は首を傾げて僕を見上げた。
三十を越えたころには、彼女は僕を「おにいさん」と呼んで、少しだけいたずらっぽく笑った。
僕の姿は時間と共に移り変わって行ったが、彼女はあの時のままの姿だった。彼女の髪は変わらず真っすぐで、声は透きとおったままだった。身長は伸びず、少女らしさを失うことなくそこにいた。
少女だけではない、あちらの世界にいる人々皆がそうだった。誰もが老いず、変わらず、まるで時間という言葉を知らないように。
僕だけが、時間を抱えていた。
目の端に皺が増え、手の節が太くなり、脚が祭りの坂道を重たく感じはじめた。
「君と私たちでは住む世界が違っている」
青年時代。彼女に恋焦がれていた僕に、彼女と同じ世界に住む老人が僕にそう告げた。それは忠告だったのだろう。それは親切心だったのだろう。
結局彼女に自分の思いを告げることはなかった。違う世界に住む人間からの求愛は彼女を困らせるだけだと思ったから。
やがて五十を迎える頃、僕の足取りはひどく鈍くなった。手すりのない橋が恐ろしく、灯の光がまぶしすぎて目を細めるようになった。
けれど、それでも僕は来た。
少女は、相変わらずだった。変わらない髪、変わらない声、変わらない夜。
そしてある年、彼女は僕の手を取りながらこう言った。
「君の声、ひさしぶりに聴いた気がする」
その瞬間、僕ははじめて、自分の声がかすれていることに気がついた。若い頃の声は、もう、どこにもなかった。
次の年、僕は来られなかった。
歩けなかったのだ。祭りの場所までたどり着く道は、あまりに遠く、そして現実すぎた。
国が経営する病院に入院し、狭く、酷い臭いをした病室に閉じ込められた。ここではお金がないという罪により、十分な治療と食事を与えられないまま、ただ死ぬまでの日数を数え続けるだけの日々を送ることになる。
僕は乾いた咳とくぐもったうめき声を聴きながら、少年時代からの思い出に浸り続けた。
空はうっすらと金色に染まり、灯が咲くように浮かぶ。ああ、この光だ。この匂いだ。この音だ。
あの村の祭り。
貧しかった子ども時代、僕には土しか遊び道具がなかった。けれど、この村に来ると、土が光り、風が歌い、水が空を飛んだ。すべてが、ただの夢のようで、それでいて、どこよりも現実だった。
彼女はいつも同じ場所に立っていた。
僕が最初に出会ったときと同じ顔、同じ服、同じ笑み。だけど僕はもう、彼女の名前を呼ぶ声も震えてしまう。息が切れ、胸が重く、脚はもう、次の一歩を拒んでいる。
少女が微笑み、近づいて、手を伸ばしてくれる。その手は、やっぱり温かい。昔と同じ、変わらない熱。僕の手はしわくちゃで、骨ばって、重くて、きっとあまりにも醜いだろう。
けれど彼女は何も言わず、それを優しく包んでくれた。
灯が、遠のく。音が、沈む。ああ、また……来年も……。
まぶたの裏に、灯が降る。花が咲く。音が溶ける。
僕はゆっくりと目を閉じる。そしてそのまま、僕は光のなかに、沈んでいくのだった。
「……来なかったね、今年も」
そう言うと、隣にいた彼、村の同年代の少年が、空を仰いで片方の肩をすくめた。
「そりゃそうだろ。去年、もう死んだって聞いたし。終末は病院だったってさ。狭くて、湿っぽくて、機械の音だけが鳴ってる、今ではもう日本には数えるくらいしか存在しない古臭い施設」
私は静かにうなずいた。
「灯の配置、ちょっと違って見えるの。……ひとつ足りない気がする」
空には、例年通りの数の灯が浮かんでいる。人工重力の外縁で、熱のない焔がゆるやかに回っている。でも、どうしても足りない気がする。あの人の灯だけ、ぽっかりと、抜けてしまったような。
君、あいつとよく話してたよな。彼が言う。どんな話をしてたんだ。単純な興味からくる無邪気な質問に少女が答える。
「夢の話とか。前にいた村のこと。川の音がきれいだったとか……。くだらないこと」
「ふーん。変わってんな。てか、あいつ八十代くらいだったでしょ? 俺たちより相当年下なのに、老けすぎだったよな」
私は少し黙ってから、灯を見たまま口を開いた。
「だって……あの人はNM-Reverseを使ってなかったんだもの」
「……そっか。そりゃそうだよな。あれだけ貧しかったら、老化を止めるための薬も買うことができないもんな」
彼は頷く。NM-Reverse。細胞の劣化を抑えて、遺伝子の傷を巻き戻し、神経回路を再成形してくれる。一度投与すれば、生理年齢はそこで止まり、あとは定期的な補充だけで今の自分を永遠に維持できる。その高価な薬を買い続けることができるのであれば。
「そう。……彼は、貧しかったの」
私の胸の奥で、何かがゆっくりと沈む。
「だから、ああやって老いて、死んでいった。
私たちみたいな裕福な人間とは……住む世界が違ったのよ」
灯がまた、ひとつ流れていく。まるで何かを忘れるように、誰にも気づかれないまま。