水平線の涙
僕は、走る走る。迸る汗もそのままに。生まれて初めて芽生えた愛を手放さないために。
息が切れ、呼吸が浅くなる。
止まったらだめだ。動かし続けろ。
波が岩に打ち付ける音が聞こえる。
彼女は、海の防波堤に座っていた。
梓に僕は、後ろから近づく。
無言で後ろから横に行き、一緒に座る。
しばらく群青の海を眺める。
無言の膠着よりも大らかなる静けさの時間が流れた。
心地よささえ感じるこの時間を破ったのは、僕だった。
「話どこまで聞こえてた?」
「物部っていう人が、私のお父さんを知っているか聞いてたところから」
「大分最初の方だね...」
「うん...」
「・・・・・」
「・・・・・」
今度は、梓が沈黙を破った。
「真人君を騙すつもりはなかったんだ。それは、信じて」
僕の方を見る彼女の目には宝石のような煌めきがあった。
「信じるよ。それに親子とか関係ないよ。君は君だ」
温かな日光が、僕の顔をほぐしてくれる。
梓に近づき、肩を抱き寄せ、彼女の温かさを体感する。
梓が、僕の胸に顔を沈める。僕の服が、涙で濡れ、彼女が嗚咽を漏らす。
「大丈夫だよ」
この言葉が自然と口から出た。彼女の頭をそっと撫でる。
「ありがとう」
彼女は、顔を僕の胸に埋めたままそう言った。
彼女は、僕の胸から離れた。
「でも、あの人が言ってたことは、間違っていない」
梓は、俯いたまま、そう言った。
「私の父親が、悪路王で平安の時代で悪名高き怪物というのは本当。でも、私は悪いことをしたくないし、そんなことをする度胸すら私にはない」
彼女は、まだ顔を上げない。
僕は、あんまり昔のことは知らないし、彼女の父親によってもたらされた災難は、想像することしかできない。でも、僕は、梓を何よりも愛おしく思っている。
だからこそ、断言できる。彼女は危険なんかじゃない、純粋で優しい女の子だ。
心は月光に揺れる細波のように、夜漂の海を二人歩いた。この時が、悠久に続いて欲しいと叶わぬ願いを思いながら。
行く気分ではない。でも、行かなければいけないと理性に諭され、大学のキャンパスに行く。
教室に行くまでの足取りが、驚くほど重い。
教室の後ろの方に座る。
講義の直前に、物部君が横に座った。
「大学終わったらついてきて欲しいところがあるんだ」
彼は、僕にそう囁いた。