3.さらにゲロの話をします
これでもかと言うほどゲロという単語を連発したおかげで、ようやくストレス値が低下してきたように感じます。
ちなみに今回のケース以前に、同じくらいストレス値が高かったときはどのように乗り越えたかというと、ここに登録して小説の投稿を開始することで乗り越えました。
小説のことを考えているときだけは、仕事のことを忘れられるのが救いでした。
①自分の頭の中であふれそうになっている世界を、文字という形に変換して外に放出する。
②放出することで、頭の中の容量に少し余裕が生まれる。
③その余裕のおかげでストレス源にブチ切れずに済む。
④ストレス源が消えるまで忍耐が持続する。
この工程にとても救われました。
つまりここで投稿している私の作品すべてが、そもそも私のゲロということになります。
けれども、自分の作品のことをゲロと呼ぶのはさすがに忍びないので、ここからはゲロではなくセロと呼んでみることにします。
私はバイオリンよりもセロ(敢えてチェロではなくセロと発音してみる)の方が好きですが、実はそんなにセロ奏者に詳しくありません。
知ってるのはヨーヨー・マさんくらいです。
最近だとジャズ・セリストも増えてきているとかいないとか。
個人的には弦を指で弾くやつ(ピチカートで合ってます?)が好きです。もしおすすめのセロ奏者がいたら教えていただけると嬉しかったりします。
さて、今回はそんな私とセロの思い出の話をします。
時々ここのエッセイで見かけるのが、作品とは自慰行為であるという主張。
もちろんその説にも賛同はするのですが、私はやっぱりその人が創作した作品というのはその人のセロだと思うのです。
何も口にしていない人は、どんなにセロしようとしてもせいぜい出せるのは胃液くらいでしょう。
自分の中から何らかの形状を有したセロをするためには、何かを摂取するしかないはずなんです。
私はよく他人の吐いたセロを分析します。
摂取してからセロするまでの日数が浅いセロは、いつなにをどんな感じで食ってセロしたのか、なんとなく予想がつくことも多いです。
でもまあ、そんな簡単に分析できるようなセロには興味ありません。
なに食ったらこんなセロが吐けるんだろう。
そういうセロを見かけると俄然興味が湧きます。
セロの細かい断片を徹底的に分析し、セロを吐いたセロ主(宿主的なニュアンスで読むのがおすすめ)が、どのような生態系の中で生息し、どのような食事環境なのかに思いを巡らせます。まさにロマンです。
10年くらい前、とても衝撃を受けたセロと出会いました。
私の持っている世界観を破壊し、より大きな世界へと再構築するほどのすさまじいセロでした。
セロ主がセロしたセロを全部一通り確認しました。セロの巻末に記載された参考文献、セロ主が観たという映画、セロ主が好んだ作家……。
セロ主が食したと思われる<食品>を片っ端から食してみました。
そして試しに自分もセロってみました。
物語をセロするなんて中学以来でした。
そういうの、もうすっかり足を洗ってしまってたので。
でもまたセロしてみたい。
今の自分にどんなセロが出せるのか知りたい。
そう思わせてくれるようなセロだったんです。
その人みたいなセロを自分もセロしたい。
その一心でめちゃくちゃセロリました。
うん、もう野菜のセロリしか浮かばないですね。
ちなみに我が家はけっこうセロリの消費率が高い家です。煮込み料理にはだいたいみじん切りしたセロリを入れます。カレーにもポトフにも。
セロリは香りが良くなるので好きです。
セロリはともかくセロの話に戻します。
セロだけに戻しますって、ウケますね。
結局私がセロしてみたセロは、その人のセロの足元にも及ばないような粗末なセロでした。
そもそも熟成というか発酵というか消化具合がもともとのセロ主とは異なるので、自分の思い描いた理想のセロにはなりません。
当たり前といえば当たり前なんですけどね。
その人のセロに憧れて、ずっとどこかでその人の背中を追っていたように思います。
少しだけ思考が近くなったのか、偶然手に取った本を読んでいると、その人の軌跡を発見することがあります。
もしかしたらあの人もこの本を読んだのかな。
そんなことを空想し、自己満足ですが嬉しい気持ちになることがあります。
こうやって少しずつ私が自分の中に取り込んでいるものが、いつかセロになってあふれ出したとき――。
憧れのあの人のようなセロに近づけていたらいいなと、そんなふうに思います。
うん、やっぱりセロという表現だと全然字面が汚くないですね。
ゲロ臭ではなくセロリのような清涼感のある香りがします。
物足りなかった人は再度セロをゲロに置き換えてお読みいただいても構わないですよ。
では、もう少しだけセロについて語っていこうと思います。