別に異世界なんかじゃなくたって人は強くなれるんです
思えば成る――というのが、中波紀里の肉体鍛錬における哲学である。
というのも、精神状態が肉体に与える影響というのは多大だからだ。ストレスによる腹痛、火事場の馬鹿力、パブロフの犬の実験……そういった例が実際にある。
もちろん、継続的なトレーニングは欠かせないものだ。意気込みだけで変われるほど人間は安くない。
それでも、人が人ではない何かに化わる……そこに行き着くことは不可能ではないと信じ込めるかどうかで人の成長は大きく変わる。――少なくとも紀里は、目の前の異世界人を軽くいなせる程度の強さは手にしていた。
「雷!」
木々の集まる真っ暗闇の森の中、帯電している矢が紀里の正面から飛んでくる。彼の視界には、弓を片手に木影から姿を覗かせているエルフの女がいた。
矢――帯電しているのは鏃の部分だけ――が顔に当たる前に紀里はそれを手で掴み止める。
「炎」
呟かれる声と共に、草の根を分け進む音が急速に、紀里の側面から迫り来る。
その接近者に対して、未だ帯電している矢の先端を紀里は振り抜く。ジュッと鏃が融解した。鏃を溶かしたのは赤熱した大剣であり、揺らめく炎の層が均等に纏われている。
縦に振り下ろされる大剣を、地を蹴り横に跳んで紀里は避けた。その際、敵手の顔へと紀里は視線を合わせる。頭から犬耳が生えた男の獣人だった。
「土」
獣人を気絶させようと右手の拳を作る紀里だったが、彼の周囲の地面が背丈ほどに盛り上がり――ついでに、金属特有の黒い光沢を放ちながら――紀里を挟むように迫る。幅一メートルのそれを、大きく跳び下がることで紀里は躱す。金属がぶつかり合う硬質な音を立てて、先程まで紀里がいた所がサンドされた。
一応、周囲に視線を巡らせてみる。だが、術者らしき者の姿は見えない。
(なら、最優先はあの男だな)
再び標的を定めた紀里は、隆起した地面を迂回して、大剣使いの獣人へと迫る。その速さは、先程よりも数段上だ。
速度域が急に変化した紀里に虚を突かれたせいで、獣人の男の反応は明らかに遅れた。下から上に振り上げられる大剣……それを、半身になって紀里は躱す。同時に、躱した動作と連動させて拳を突き出す……と相手の胸をぶち抜きそうだと思った為に手加減した拳で相手を殴った。
「かっ……」
胸への衝撃によって息を吐き出し獣人の男は背中から地面に倒れた。強かに背中を打ち付けたこともあってかその体は痙攣して動かない。
「さてと……次」
エルフの女が隠れていた木へと紀里は駆ける。木の裏へと回り込むが、そこにはエルフの姿はない。
勢いをつけた後ろ回し蹴りを紀里は木に叩きつける。鈍く大きな音が響く。無数の枝葉が擦れ合う音と共に大きく木が揺れた。
「……っ!?」
驚愕の感情……相手は声を出さぬように努めたみたいだが、気配としてのそれを紀里は感じ取った。
紀里は直ぐに跳ぶ。地面から二メートルほど離れた所にある幹を蹴って更に一メートル上がる。そして揺れる木枝の上で、振り落とされぬよう枝を掴んでいるエルフの姿が見えた。ジッと紀里を見つめている彼女は、表情にこそ出ていないが、紀里の予想外の動きにその動きを止めてしまっている。
とはいえ、エルフの女が硬直していたのは一秒にも満たない時間だ。弓につがえていた矢を彼女は直ぐに紀里へと向ける。しかし紀里は、エルフの女が乗っている木の枝を直に蹴りつけた。根元の幅が二〇センチ以上ある、人の身体を支えられる丈夫な枝である。だというのに、人間の一蹴りによって、メキリと音を立てて木枝は折れた。
枝を蹴った反動でいち早く地面に着地した紀里は、エルフの女の落下点へと移動した。そして相手の落下に合わせて躊躇いなく蹴りを入れる。
「あがっ……!」
これで二人目。
吹っ飛びながら地面に落ちたエルフの女が動かないことを確認しつつ周囲への知覚に紀里は意識を傾ける。しかし、誰かが動いたような音は紀里の耳に入ってこない。いや、この場所から走り去る、どんどん小さくなっていく音は聞こえた。つまり、土の魔法の術者は逃げたらしい。
紀里の足であれば追いつけるだろう。しかし、自己防衛のために戦っていた紀里は、わざわざ相手を追う様なつもりはなかった。周囲に倒れている獣人とエルフも同じだ。このままほうっておけば、いずれは目を覚まして勝手に出ていってくれるだろう。
夜は深い。日の光が出てくるまでは大人しくしようと戦場だった場所に紀里は腰を下ろした。
―――
今より五年前、異界からの侵略が開始された。“異界の孔”と呼ばれる時空の歪み――青い渦のような見た目で、一メートルから十メートルと大きさはまちまちであるようだ――が世界各地で発生し、それを通じて異界の住人がやって来たのだ。
魔法と呼ばれる力を用いて異界の人は日本を獲った。他の国がどうなっているのか紀里は知らないが、交渉によって平和的に済ましたなんてことだけは無いだろう。なんせ、日本における彼等とのファーストコンタクトが略奪だったからだ。襲われたその町の住人はほとんどが殺された。僅かな生き残りも慰み物のように扱われたそうだ。事件を受けた政府は自衛隊を動員して厳戒態勢を敷いたがそれも無意味に終わる。異界の渦は各地で現れては消えてを繰り返し、散発的に行われる攻めに後手に回ることになったからだ。組織的な動きは直ぐに出来なくなり間もなくして東京は落とされた。技術者・科学者は保護されたが、それ以外の人間は、死体か奴隷か下層民だ。
とはいえ、異界人の支配を逃れて生きる人間がいないわけではない。異界人の手の届かない森の中で生活を送っている人間もいる。それがどれくらい数になるのか紀里には分からないが、彼が生活できているのもこの繋がりによるものが大きい。
「じいさん、戻ったよ」
山小屋の扉を開けるや否や紀里はそう言った。そして、肩に紐をかけるようにして持っていた麻袋を木板の床の上に置く。麻袋の中には、一つ山を越えた所にあるコミュニティから融通してもらった調味料などが入っている。
「やっと戻りおったか。全く」
藁編みの座布団に胡坐をかいた、60は超えていそうな男が囲炉裏の傍に座っている。彼の名は東谷段蔵といい、異界人の襲撃より前からこの小屋で生活している老人だ。五年前、異界人からの攻勢を避けて山に入った紀里はこの老人と出会った。それ以来、段蔵から山での生活を学びながら紀里は日々を送っている。
紀里も段蔵に倣って、空いている座布団に座り込んだ。
「仕方がない、昨日の帰りにちょっと襲撃にあったんだ。最初は撒こうとしたんだが、結局は戦うことになった……」
「甘い、甘いのう。山の素人を相手にそんな時間、儂ならかけんわ」
「言ってろ。こっちはまだ五年なんだよ」
気兼ねない言葉を老人と交わし、囲炉裏に吊り下げられた鍋から朝食をよそう。
そして、汁物とご飯の入った椀をことりと床に置くと、先程から気になっていることについて紀里は言及する。
「―――なあ爺さんよ。その子、誰?」
老人の胡坐の上には、5つにも満たないような子供が無表情で乗っかっていた。多分、性別は女だ。赤い髪を耳の辺りまで伸ばしており……頭の上からは三角の獣耳が生えている。
「裏手で稽古しとるときに拾ったのよ。近くに親らしき者の姿は見えなんだから、一先ず食わせてやらねばと思ってな」
「それで連れて来たと……まあ、言い分は分かるし正しいと思う。だけど、ここで育てる訳にもいかないだろう。しかも異界人だ。近くのコミュニティでも預かってくれるかも分からないぞ?」
「いや、この幼子はここで育てようと思ってる」
「……出来んのかよ。子育て」
「さあなぁ。しかし、拾った以上はそうするしかあるまいて。
それに……この子には儂の業を継がせようかと考えとる」
「まじか……どんな心変わりをした」
紀里が聞いた話では、段蔵の家は戦国から伝わる由緒ある家系だそうだ。お留流の継承者として将軍家に仕えていたらしいが、戦のない時代になると人の寄らぬ山に分け入り、そこで業の研磨と継承に努めたという。門外不出の業である為、紀里がやって来たときには随分と難色を示されたものである。
まあ、紀里に行く当てがなかったことがありここでの生活は最終的には許された。
「娘が名を継いでくれなかったからの。孫もやらんと言われたよ。だからと言って、一族が此処まで繋いできた業を途絶えさせるのも申し訳がない。だから、この子を養子にするというわけでな。この際じゃ、紀里もこの子に色々と教えてやれ」
「手が空いたらな」
「そんな面倒なことは御免だ」と言外に告げながら紀里は立ち上がった。
―――
そんなこんなで、老人と青年と幼女の三人生活が始まって三か月が経過した。
ある日の朝の時間である。
「今日は薪割りか」
小屋の前の倒木を目にして紀里は呟いた。昨日の内に、紀里が運んで来たものである。倒木には、枝に引っ掛けるようにした縄がくくってあった。これを掴んで引っ張ったのだ。
半分に割られた丸太を二本、倒木の下に敷いて浮かせる。そこから、小屋の側面に立てかけられている鋸を手にして紀里は倒木を輪切りにし始めた。
「ったく、チェーンソーでもあれば楽なんだが」
あったとしてもあんな怖いものを使う気は無かったが……まあ、独り言である。適度にお喋りしながら紀里は作業を続けていく。
半日と経たずに輪切り作業は完了した。枝打ち作業も加味すれば紀里にしてはまあまあな時間である。そしたら今度は、輪切りにした丸太を切り株の上に置いて斧で割っていく。
パッカーン、パッカーンと小気味よい音が山に響き渡る。先と比べて、多少の集中力がいる作業のため黙々とこなしていく。
そんなこんなで薪割り作業が完了したところで、手に持っていた斧を紀里は下ろした。太陽は既に、正午の位置を回っている。
「爺さん。薪、作っといたぞ」
小屋へ戻ると、香草を煮出した香りが充満している。見れば、囲炉裏の上に吊られている鉄鍋から湯気が立っていた。
既に、赤髪の少女と段蔵は鍋を囲って座っている。
少女の方は、食欲を我慢しているのか鍋の中身を凝視していた。暮らし始めた頃は塞ぎがちだった彼女も、この三か月でだいぶん感情を表に出すようになっている。
「おう、ご苦労さん。鍋、出来とるぞ」
「分かった」
段蔵の声に応え紀里は席に座る。目前に置いてあった椀を手に取り鍋から汁をよそおった。
「猪肉の燻製が残っているのでな、それとわらび・ふきのとうを合わせた」
「そうか。しかし、最近は汁物が続き過ぎじゃないか? 今日の夕食で鍋は処理して、明日は燻製肉の炙り焼きにでもしよう。米は俺が炊いとく」
「好きにすればええさ」
食事の後、山小屋から少し離れた所に紀里は来ていた。固くて平坦な地形がある程度ひろがっており鍛錬の場として最適なのだ。
今日の山仕事は午前で終わっている。夕食の支度に駆り出されるまでは自由に時間を使えるだろう。
紀里は、腰を曲げて地面に右手を着けた。
「よっ」
そのまま、足で地を蹴って片手倒立の状態となった。体全体を真っ直ぐに伸ばし、空いている左手は拳にして腰の後ろに当てる。そして、腕の屈伸によって体を上下させ始めた。さしずめ、片手倒立腕立て伏せといった所だろうか。
「いちぃ………にぃ………さぁん――」
身体を下ろすときに息を吸い、上げる時に吐く。息を吐きだすついでに数を数える。
「――よんじゅうはちぃ………よんじゅうきゅう………ごじゅう」
腕立ての回数が五〇となったところで紀里の動きが一時的に止まる。腰に回していた左手を地に着けて、今度は右手を腰に当てた。そしてまた、左腕で同じ動作を続けていく。
「――ごじゅう、と」
左腕の方も終わった所でようやく紀里は足を地に戻した。
ゆっくりとした動作でここまで回数を重ねるというのはかなりの負荷となる。額の汗を手で拭いながら紀里は深く息を吐いた。
「ふうっ…………。
――んで、いつまでそこで見てるんだ?」
後半の言葉は紀里の後ろに向けられたものだ。彼が振り返ると、あの異界人の少女がそこにいる。そこらへんにしゃがみ込み、両腕で膝を抱えながらこちらを見つめていた。
ただ見ているだけ、何か用があるわけではない……そういう意思表示なのか、紀里の言葉にフルフルと少女は首を振る。
とはいえ、時間を持て余しているように見える彼女を放っておくのは如何なものかと紀里は思う。
「やってみるか?」
まだ言葉をおぼえる年齢ではないのか、それとも扱う言語そのものが違うのか……いずれにせよ言葉が通じないため手招きで呼んでみる。その意味を理解したのかタッタとこちらへ少女は駆けてきた。
(五歳児そうとうにしては速い?か)
獣人という生まれのおかげなのか、見た目以上に機敏なその動きに紀里は興味を抱いた。
(とはいえ、急に強度の高いトレーニングをやらせる訳にもいかないが……)
「そんじゃあまあ……腕立て・スクワットからやってみようか」
そして夕飯時となる。
「なあ爺さん。あんた、この子に業を伝えるって言っていたな」
「ああ、そのつもりだとも」
「気づいてたのかよ、あの子の肉体的な才能に」
「………」
一〇秒にも満たない沈黙の後に段蔵は口を開く。
「どうかの。だた、あの子を一目見た時に感じたのよ……全身の毛が逆立つような、臓腑が浮き上がる様な感触を。あの子は業を継ぐに足る存在だと儂は確信した」
「んだよそれ」
「そう不思議な顔をするな。老眼は進んだが、それでもなお見える世界は広がっている」
「……」
斜め向かいでスープを飲む少女を紀里は見た。両手で器を持ちその縁を口に付けている。段蔵が言ったようなおぞ気を感じる事はないが、あの老人が言う以上は本当なのだろう。
(魔法といい体といい、異界人っていうのは皆こんなんなのか……)
魔法に関してはどうでもいいが、それでも嫉妬を覚えずにはいられない。
視線に気が付いたのか、紀里の方へと少女が顔を向ける。紀里の心中を理解していない無垢な顔だ。
「……いや、気の迷いだな」
中波紀里は成長が好きだ。だから鍛錬次第で、人が人でないものに化われると信じている。才の有無を気にする必要はない筈だ。
自身の方へと寄って来た少女の頭に紀里はポンと手を乗せてやった。
そして時は流れていく。
―――
「――ッ。そこっ!」
赤毛の少女は、自身の背後に向けて裏拳を放った。振り向いた先にいたのは紀里だ。
紀里は、少女の裏拳を容易く掌で受けて見せた。片足を踏み込み、もう片方の手で拳を作り少女の腹へと添える。一瞬で拳が加速した。
ジュっと音を立てて、少女の腹の表皮を紀里の拳が削る。裏拳の振り抜きに合わせて身体を捻じる事で少女はギリギリそれを躱した。身体の捻じりを回し蹴りへと少女は繋げる。
紀里は、少女の裏拳を受けた方の腕で顔の側面をガードし、少女の蹴りを弾いた。
蹴りが弾かれたことで崩れそうになる体勢を少女は筋力で制御する。足の指で地面を握って体を固定し、蹴り足を地面に戻すことなく、ガードされてない紀里の腹へと蹴りをいれた。
(やっぱり硬い……っ)
筋肉の鎧で蹴りを阻み紀里は更に前に進む。片手で首を掴み、地面へと叩きつけるようにして少女の身体を落とした。
背中から地面に落とされた少女は肺から一気に空気を吐き出す。横隔膜が痙攣しており呼吸は細切れ、暫くは動けないような状態であった。
少女が息を整えている間に、その横に腰を下ろして紀里は胡坐をかく。
「かなり動けるようになったな、ミミカ」
紀里は、自身がミミカと呼んだ少女の頭を撫でる。
一〇秒ほど撫でられていたミミカは息が整ってきたのか口を開く。
「ちょっと、耳はくすぐったいよ」
「悪い悪い」
微笑を浮かべながらミミカの頭から紀里は手を離した。
「それに、動けるって言ったってお父さんにはまだまだ届かないし」
「そりゃあそうだ、鍛錬に掛けた時間が違うんだから。それに、お前はまだ一七歳……これから体が出来ていく。今のままでも十分すぎるほどだ」
ガバリと勢いよくミミカは上半身を起こす。
「むーっ。現状に満足するなって言ったのはお父さんじゃん」
「だが、焦り過ぎるのも良くないと教えただろう。性急すぎる願いは、身の丈の合わない鍛錬に自分を放り込む。ささやかな成長を楽しむくらいが丁度いい」
そこでようやく、膨らませていた頬をミミカは戻した。
「……それにしても、随分と流暢に喋れるようになったな」
ミミカと生活し始めた時期のことを懐かしく思いながら紀里は言う。あの頃は、一応は言葉を扱える歳でミミカはあった筈だが、異界人とは言語体系が異なっていたために会話が成立しなかった。一年くらいはジェスチャー中心でコミュニケーションを取っていたものだ。
「それ、今更だよ」
「まあ、そうなんだけど……ふとした拍子に思うんだよ、あの小さかった子供がここまで成長したんだなって」
「もう、なにそれ」
そう言いながらミミカは笑った。
その日の深夜、囲炉裏を挟んで段蔵と紀里は茶を呑んでいた。ミミカは既に床についている。
「ミミカがここに来てから一三年……俺が教えれることは既にない。あの子はもう一人で強くなれる。爺さんの方はどうだ?」
「一人前というにはまだ遠い。だが、技は全て教えてある。それを活かすも殺すもあの子しだいよ」
「独り立ちさせてもいい……って意味でいいか」
ズズッと茶を啜ってから顔を上げて、対面にいる紀里を段蔵は見た。その眼光には、やや険しいものがある。
「何が言いたい。回りくどい言い方は好かんぞ」
「今日、アンタにミミカを預けてから麓の近くまで俺は行った。ちょっとした猪狩りのつもりだったんだがそのときに人の痕跡を見つけたんだ、それも複数な。これまでも山に入ってくる奴はちらほらいたが、それは単独あるいは少数で狩りに来たりするような奴らで、此方から手を出すまでもなく勝手に去っていった。でも今回は違う。奴ら、木に印を残しながら来てやがる。多分、近いうちにこの場所も割れるぞ」
そこまで言って段蔵の反応を紀里は見る。しかし、いつも通りの落ち着いた居住まいのままで段蔵はいた。
「……奴らがなんの目的でこの周辺を調べているのかは分からないが、近いうちに決断を迫られることにきっとなる。俺達はどうとでもなるが、ミミカは異界人だ。あるべき場所に戻してやった方が彼女にとってはいいのかもしれないと俺は思っている。
――爺さん、あんたはどうなんだ」
―――
それから数日が経つ。
その日の夕方、いつものように肉体鍛錬を終えた紀里は切り株の上に腰かけていた。ミミカは現在、段蔵の下で修業していることだろう。修業も業の一環であるため、段蔵がミミカに指導する様子を見る事を紀里は禁じられている。よって今は暇であった。加えて、散策に出かけようにもそろそろ日は暮れてしまう。ほとんど無思考の状態で正面を見続けていた紀里は山小屋へ戻ろうかと考え始めた。
その時、ガサガサと枝草を擦るような音が紀里の耳に入り込んでくる。
「……」
スッと立ち上がり音のする方向へと紀里は顔を向けた。
ここから去るという選択肢は無かった。小屋に近い所まで来てしまっているというのもあるが、何よりあちら側も紀里の存在に気付いていたからだ。
そうして草木の陰から現れたのは一人の男の獣人である。白髪で、狼に由来すると思われる獣耳を頭から生やしていた。また民族的な慣習によるものなのか、両頬には髭を思わせるような藍色の線がペイントに二本ひいてある。
「俺に敵対する意思はない」
それが、獣人の男の第一声だった。
「随分と流暢に喋れるんだな」
苛立ちを紀里は感じた。それが淡々とした口調として現れる。
「勉強したからな。少なくとも俺は、お前たちの事を魔法の使えない劣等民だと思っていない」
「お前等の認識なんて知るかよ。こっちはもう十何年も山に籠ってんだ」
「……」
平和的な交渉は難しそうだと感じたのか、数秒の沈黙の後に男は本題を告げる。
「一つだけ聞こう。赤髪の獣人に心当たりはないか。生きていれば今年で一七歳になる少女だ」
「知らない」
予め答えを用意していたかのように紀里は即答する。
その顔を獣人の男は見続けた。そして、
「――嘘だな」
そう告げると同時に男は前に踏み出す。右手は腰の剣柄を握り込んでいる。
男の突進する勢いは、猛走するトラックを思わせるものがあった。しかし、引かずに片足を踏み出し紀里は構えを取る。
(峰打ちで済ませてやる)
男は、紀里が間合いに入った所で、鞘に収まったままの剣を横振りにする。
首に迫る剣筋、それを紀里は片手で掴んで止めた。意識を刈り取る程度の加減された一撃ではあったが、それに反応されたことに男は驚く。しかし、それ以上に驚愕したのは――
(動かない……)
鍛えた獣人である男が力を入れているにも関わらず、紀里の手に抑えられた鞘付きの剣は一寸も進んでいかない。
「シィイッ!」
素早く剣を引いてからすぐさまそれを男は突き出す。鞘から抜けて現れた剣身が紀里の首へと再び迫った。
首を捻り傾けることで紀里は刺突を躱す。
「おいおい……殺す気か、よっ!」
紀里は下から蹴り上げる。体を反らすことでそれを男は避けた。彼は、後ろに跳んで紀里から距離を取る。
「一つ、話をしてやろう」
男がそう口にした。
「なんだよ」
手元に残った空の鞘を紀里は地面に放り投げる。
「一三年も前の話だ」
「興味ないな」
紀里が前へと駆け出す。そして腰だめに拳を作る。先ほどの一合で相手の身体能力は掴めた。多少本気で殴っても死なないだろう。男が間合いに入った所で胸部へ向けて紀里は拳を撃ちだした。
それを男は、真正面から剣で受け止める。
「いや、聞け。
十三年前、この辺りで貴人の輸送車が襲撃を受けた。中には夫人とその娘が乗っていたらしい。王宮における政権争いから距離を置くための移動だったというのに、その途中で無慈悲にも巻き込まれてしまった」
紀里は足払いをかける。
前に出る事でその蹴りを根元で男は受けた。そして、剣で肩を守りながら紀里へと突進する。
両腕でガードしながら後ろに跳ぶことで突進の勢いを紀里は和らげた。
「夫人はその場で殺されたようだが、彼女の娘の方は上手く逃げ出せたそうでな。追跡部隊を撒いて森の中に入り込んだ」
空いた距離を詰めながら男は剣を横に振る。
紀里は、上半身を傾けて剣を避ける動作と並行して右足で蹴りを出す。男が体を反らせたことでその蹴りが躱されたため、傾けた上半身を軸に踵を落とすように変則の後ろ回し蹴りを今度は放つ。
後ろ回しを防ぐために掲げられた男の片腕が弾かれた。そこから畳みかけようと拳を作る紀里であったが男の方が後ろに跳んで下がる。
「そして、夫人とその娘が巻き込まれた政権争いとは次代の王を巡るもの……夫人は王配の一人であり、その娘は王の子だった」
「……」
二人の攻防の動きが止まった。
「分かるだろう。ミミカ殿下はここに居てよい御方ではない」
「その危険が渦巻く王宮に戻してでもか?」
「いや、後継争いは終わった。新たな王は、権力争いから離れていた兄弟達を王宮へと戻そうとしている」
そう言って、剣を持つ手を男は下げた。しかし、紀里の方は構えを解いてはいない。
「よく考えろ、お前の我儘に殿下を付き合わせるべきか」
「……言っておくがな、俺は別にミミカをここに縛り付けたいわけじゃない。ただ、あの子の意思を尊重したいだけだ。
だからな、彼女の選択を聞くまでは、ミミカを連れ戻したいだけのお前らを会わせるわけにはいかんよ」
「それが答えか」
軽く目を伏せた後に男も剣を前に構えた。
「仕方ない。腕の一本くらいは覚悟してもらおう」
男が前に踏み出し、手にした剣を縦に振り下ろす。紀里が横に避けると、躱した先に男の蹴りが飛んできた。
しかしそれをあえて腹に受けて前に出ると、がら空きとなった男の腹部を紀里は殴りつける。
「ぐぅっ!」
男の膝がガクンと落ちる。紀里は更に、男に密着する程に距離を詰めた。そして男の蹴り足を脇に抱え、もう片方の手で男のベルトを掴む。そこから反り投げ……いわゆるスープレックスを紀里は行った。
浮遊感を感じる間もなく、頭から地に落ちていく感覚に男の背筋が強張る。すぐさま剣から手を離し、頭上をガードするように腕をクロスさせた。着地の衝撃から仰向けに転がる。転がった勢いを持って直ぐに体を起こすと後ろへと振り返った。
男が振り向いた先では、同じタイミングで紀里が立ち上がっている。示し合わせるでもなく同時に二人は前に踏み出した。
そこから二人は同時に右の拳を握り腰に溜める。
「おぉっ!」
「がぁっ!」
拳の振り抜きを互いに左腕で防ぐ。石と石をぶつけ合わせたような硬質な音が響き渡った。
鏡合わせのような攻防……しかし、それがもたらす結果は決して引き分けではない。
「な、に……」
ガンと、男の頭を揺さぶる衝撃が走る。先に動き出したのは紀里だった。男の拳を押し返すように踏み込んで頭突きをしたのだ。後ろにゆらりと傾く体、その腹部へと紀里は拳を振り抜いた。
「かっ……!」
男の身体が数メートルほど後ろへ吹っ飛んだ。体をよろめかせながらも何とか着地しその場に男は踏みとどまる。
男との距離を紀里は詰めなかった。元より、相手を打ちのめしたい訳ではない。帰ってくれるか、それともミミカが結論を下すまでは待っていて欲しいだけである。しかし、そんな紀里の思惑には沿ってくれず男は構えを取った。
「強いな……。鍛えられた獣人をも超える膂力がお前にはある。まるで予想もしていなかったことだ。
しかしそれだけに残念でならない、今から使うこの技は戦士の戦いに似つかわしくないからな」
そう言って男は駆け出す。ただし、紀里の方にではない。
(……剣を拾うつもりか!)
男の移動先に視線をやってそう思い至った紀里はそれを止めるべく地面を踏みしめる。だが、柔らかい地面が足元を包むようにして沈み上手く踏ん張れない。
(泥? 水の含みが異様に多い……)
数日は雨も降ってないし、そこまで地盤が緩くなっているはずがない。しかし、泣き言を言ってはいられぬ。紀里は筋力に任せて強引に進む。そしてその度に、泥化した地面に足を取られた。
(見た目は普通の地面と変わらない……だが、地面の表層を残して下層だけが水で柔くなっている)
「泥……それが俺の魔法だ」
紀里が視線を上に戻すと、既に剣を手にした男が立っていた。
「土の状態を変化させるだけの攻撃力のない魔法だ。しかしぬかるんだ地面と言うのは戦士にしてみればこの上なく厄介であり……それを、相手にだけ一方的に押し付ける。つまらない代物だ。使いたくはなかった」
男が前へ駆け出す。
相手は武器を取り戻し、自分は足回りが効かない。立場が逆転したこの状況……その中で紀里は、その場から動かないことを選択した。その代わりに相手の動きをよく見る。
(右寄りの下構え……斬り上げか薙ぎ払いか)
紀里は、相手の次の一手を予測しながら膝を曲げて腰を低く構える。そして、相手に分からないように、片方の足を泥沼の底から引き上げ、もう片方をもっと沈めて……底を踏み固めた。これで紀里は、その場から更に離れにくくなったと同時に、たった一歩、たった一歩だけは何時もと同じように踏み出すことが出来る。
紀里が間合いに入るギリギリで腰だめに剣を男が構えた。それと時を同じくして、紀里が一歩前に踏み出そうとして――
(なんだ……?)
前に出そうとした足が突っかかる。それはおかしいことだった。泥に足を取られているように見せていただけで、実際には沼の表面近くまで上げていた足を留める力などほとんどないはずであった。
前に転びそうになるのを紀里は踏み越えらえるが上体が大きく前傾してしまう。隙だらけの姿……斬ってくれと言っているようなものだ。
「ヤバっ――」
斜めに剣が斬り上げられる。紀里の肉を剣が通り鮮血が弾けた。
二人は、交錯した状態のまま動きを止めている。
「――泥の魔法はブラフか」
始めに紀里がそう言った。静寂が破られる。
「まんまと騙されたぜ。まさか、土を乾燥させて足を固定するとはな」
「……」
紀里の言葉を受けてなお相手の男は沈黙を保っている。いや、予想を超えた事態に言葉が出なかったというべきか。
紀里は腕で剣を受けていた。左腕には、一〇センチほど剣が食い込んでいる。また、右手は剣身を掴んでいる状態だ。
「いくら鍔元とはいえ真剣を体で受けるとは……」
そう男が呟く。つまりはこういうことである。男が剣を振り上げた時点で紀里は、剣柄を抑えて攻撃を止めることは諦めた。その代わりに、剣の根元……最も斬れにくい位置で斬撃を腕で受ける。そして、止まった剣をこれ以上すきに振らせないよう右手で握って抑えたのだ。
(この距離は不味い)
左腕から流れた血が、剣を伝って男の手へとたどり着く。手傷を負ったのは紀里だが、追い詰められているのは男のほうだ。徒手空拳・極近距離の戦いにおいては紀里の方が上であると男は既に理解していた。加えて、ここまで近づかれた状態では、相手の足元だけを泥沼に嵌めることができない。
だというのに、当の本人である紀里は仕掛けてこなかった。それどころか、相手から視線を外して傾斜の上の方を見てしまっている。
まあ、男が動き出そうとすれば剣を通してそれが伝わるだろうから対応は直ぐに出来るだろう。
それよりも問題なのは――
「お父さんっ⁉」
戦場に似合わぬ高い声が響く。紀里の視線を男が追うと、赤い髪をした獣人の少女がこちらを見下ろしている姿が目に入った。
「ミミカ殿下」
特徴が一致している。少女の素性に直ぐに男は行き当たった。
一方で、ミミカの登場に紀里は驚く。まだ、段蔵と共に修練に励んでいる時間の筈であったからだ。
「いや、まさか――」
一歩うしろに跳んで男から離れるとミミカの方へと紀里は駆け出す。あるていど傾斜を駆け上った所で、ミミカの斜め後ろに立っていた人影を紀里は目にした。
「爺、どうしてミミカがここにいる……いや、どうして連れて来た」
段蔵を紀里が睨みつける。彼の意思によってこの状況がなされていると紀里は決めつけ、実際にその通りであった。腕の傷も気にならないほどに非難の色を表情に出す。紀里の元へと駆け寄ったミミカが、流血する左腕の傷口を手で抑えた。ミミカを宥めるように頭へと紀里は手を置くが、視線は段蔵に固定されているままだ。
「そう怒るな。ミミカは既に答えを出している」
段蔵のその言葉で、おおよその事情を紀里は悟った。
「大丈夫だ」
「あっ……」
ミミカの手から腕を離すと、破った服で傷ついた腕をグルグル巻きに紀里はする。心配そうに向けられたミミカの瞳を紀里が見つめ返した。
「こんなのは大した怪我じゃない」
心配そうな様子を見せるミミカを安心させるために紀里は言う。
「それよりも……爺さんから話は聞いているんだな」
「……うん」
こくりとミミカは頷いた。
「ここを出ていくんだな」
その言葉にも首を縦に振る。ただ、躊躇いがちでゆっくりな動きだった。
紀里は、空を見上げて大きく息を吐く。そんな予感はしていた。仮にも、親として十数年ともに過ごしたのだ。ミミカの心の内についてはおおかた察していた。
(ま、変わり映えのない日々をこんな所でずっと過ごしてればな……)
答えは得た。ならば、これ以上の争いは必要ない。先ほどまで戦っていた男の方へと紀里が体を向ける。ここまでの会話で事の成り行きはあちらも理解しているだろう。
「おい、この子の事は頼んだからな」
「分かっている。ミシュロ=グラの名にかけよう」
それだけ言って男は剣を腰に収めた。
「お父さん……」
「ん、どうした?」
柔らかい声で紀里が聞き返す。
「お父さんも一緒に来ないの……?」
戸惑いがちにミミカは言った。不安げなその瞳は年相応のものである。
「ごめんな」
ミミカの頭に紀里は再び手を乗せる。
「ううん、しょうがないって分かってるから。……でも、泣かないことにする。いつかまたここに戻ってきて、その時に外での話をたくさんする」
頭に乗っかった紀里の手に自分の両手をミミカは重ねた。
「だから、行ってきます。お父さん、お爺ちゃん」
―――
獣人の男にミミカが付いていった後、怪我した左腕の治療を段蔵から紀里は受けていた。
「いっ…てぇ」
塗り薬が傷口に染みる。ミミカの前では平然として見せていたが傷は深かった。だがまあ、このくらいの……虚勢を張れる程度で済んでよかったとも思う。旅立ちを前にしたミミカに余計な心配はかけたくなかった。
「付いていかなくて良かったのか」
段蔵がそう問いかけてくる。
「あんたを置いてはいけないだろ」
しかし、紀里のその返答が嘘であると段蔵は知っていた。
「舐めるなよ、小僧。元より一人で暮らして来たのだ、貴様の助けなんぞ無くてもどうにでもなることぐらい分かっているだろうに」
「……」
まあ、事実だろうなと紀里は思った。七〇代後半に差し掛かっているにも関わらず、見た目は五〇歳ていどの老体なのだ。そして、それが見た目だけではないという事も知っている。
「……今のミミカはさ、あの頃の俺と同じくらいの歳なんだよ」
あの頃というのは、紀里が山で段蔵と出会った時のことである。
「あの時の俺は、ちょっと力があるだけのクソガキだ。我が身かわいさで山に逃げて……そのまま安寧とした生活を享受してしまった。だけど、それは決して幸せじゃない。胃を締め付けるような一時の強烈な悔恨ではなかった。でも、“山を下りた所でどうにもならない”と……そう言い訳できる程度の悩みがじっとりと纏わり続けた」
津波や地震と同じだ。家族や知り合いとの合流を目指すよりも、各々が自己生存に向けて動いた方が結果として正しい。だから、一人で真っ先に逃げ出した自分は正しい。でも、それでも、少し寄り道して両親を連れて逃げられるという未来もあったのではないのかと……そう思わない日はない。いや、山で生活を始めた後も幾らでも町に下りる機会はあった。でも、家族が生きている可能性と自分の命を天秤に掛けて諦め続けたのだ。
「でも俺のことはどうでもいい、今はミミカの話だからな。
山を下りるということの意味合いは、俺とミミカでは多分ちがう。だが、決断を先送りにしてはいけないんだ。そして、ミミカは決定を下した。なら、俺が着いていくべき幕ではない」
それに……と紀里は言葉を続ける。
「ミミカはもう、俺達の手が無くても一人で成長できる、生きていける。魔法という異界の技術を教えてやることは俺達には叶わなかったけども……それでも、俺達があの子に教えた業が劣ることはないはずだ。異世界だの王族だのと……自分を取り巻く世界が変わった所で関係はない。どこでだって、あの子は強く生きていけるよ」
こうして、父親であろうとした男の人生の幕はここで一度とじたのであった。