えげつない罰を与えたいときに
「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、
既に心の中でその女を犯したのである。
もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。
体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。」
(マタイによる福音書 5章 28-29節)
要約すると、
「既婚の異性を見てムラムラするような奴は犯罪者予備軍だから、
罪を犯す前に目をえぐり出しておけ」
ということです。
過激と感じるでしょうか?
たしかに現代日本においては、不倫に刑罰はありません。
ましてや欲情した程度で失明なんて、過激に思えるかもしれません。
しかしこれは、神の御慈悲です!
なぜ「みだらな思いで他人の妻を見る者は、既に心の中でその女を犯した」のでしょうか?
それは、神は全てを御存知だからです!
警察は「事件が起こるまで動かない」と言われます。
そうなってしまうのは、警察官が人間だからです。
人間には、他人の心にあるものも、将来何が起こるかも、見えません。
しかし、神は違います。
神は人の心を見ておられ、同時に人の将来も見通しておられるのです!
罪人が既婚者を見るとき、神の目には、罪人が心に抱く情欲と、
欲望に負けて一線を越えてしまう未来が見えています。
だからこそ、神の目には「みだらな思いで他人の妻を見る者は、既に心の中でその女を犯した」ことになるのです!
そして不倫は、死刑に処すべき重罪です!
人の妻と姦淫する者、
すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女もともに必ず死刑に処せられる。
(レビ 20:10)
こうして聖書を読み解けば、冒頭の聖句も納得できるでしょう。
死刑と失明、どちらが慈悲ある罰でしょうか?
(ここで言う死刑とは、ただ死ぬだけではなく、
「地獄に投げ込まれる」ということを忘れてはいけません。)
さて、聖書は実践しなければ意味がありません。
あなたの配偶者に、淫らな視線を向ける者はいませんか?
もしもいるなら、その者の目をえぐり出してあげましょう。
もしかすると、その者を地獄行きの運命から救い出すことができるかもしれません。
もちろん、罰すべき罪は姦淫だけではありません。
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、
大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。
両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、
片手になっても命にあずかる方がよい。
もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。
両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、
片足になっても命にあずかる方がよい。
もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。
両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、
一つの目になっても神の国に入る方がよい。
地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」
(マルコ 9:42-28)
憐み深い神は、より多くの人が神の道を歩み、
地獄行きの運命から救われることを望んでおられます。
しかしこの世には、神を信じ神の道を行こうとする信仰者を、
妨げる障害がたくさんあります。
あなたの隣にも、そんな障害があるのではないでしょうか?
まるで神なんて存在しないかのように思わせたり、
信仰者に辛く当たるような人はいませんか?
人の心を惑わし、罪深い欲望を抱かせようとする人はいませんか?
そういう障害となる人を、聖書では「サタンの子」と呼びます。
そんな者は「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」のです!
神に選ばれ、周りの人より先に地獄行きの運命から救われた私たちには、
周りの人が罪を犯さないように導く使命があります。
その使命のためには、隣人を厳しく懲らしめなけらばならないときもあるでしょう。
そうすることで、あなたの慈悲深い行為により、
罪深いサタンの子が地獄行きの運命から救われるのです!
さぁ、あなたの隣にいる罪人に慈悲ある行為を実践しましょう!
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聖書には、実際にイエスが姦淫の罪を犯した者と対面する場面があります。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、
姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。
ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
(中略)
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、
イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。
これからは、もう罪を犯してはならない。」
(ヨハネ 8:3-11)
ここで姦淫の女を連れてきた「ファリサイ派の人々」とは、
ユダヤ教の教えを文字通りに受け取り、機械的に守るようになったユダヤ人です。
当時のファリサイ派の人々は、
神の教えを厳格に守る立派な信仰者とされていました。
そしてファリサイ派の人々は、自分たちのようにできない人を見下していました。
しかし現実的には、聖書の教えを文字通りには守れなくなる状況があります。
貧しい者には、神に捧げ者をする余裕はありません。
そう考えると、ファリサイ派の人々が聖書を厳格に守れたのは、
ただ運が良かったからとも言えます。
冒頭の聖句は、そんな背景を持つユダヤ人たちに向けられた説教の一節です。
こう説くことで、文字通りの意味でしか聖書に従わない人たちの「自分だけは特別に神の命令を守れている」という傲慢を咎めているのです。
ですから決して「他人の罪を見付けたらこういう罰を与えろ」という意味ではありません。
キリスト教は「赦しの宗教」と呼ばれます。
他の宗教と比較して考えると、キリスト教の最大の特徴は「罪の赦し」です。
他人の罪を罰さずにはいられない人にとって、
キリスト教ほど都合の悪い宗教はないはずです。
しかしそれでも歴史上キリスト教は、魔女狩りなどの私刑を行いました。
人間は自分のポジションを守るためなら、どんな理想も信念も捨て去るようです。
最後に、冒頭の聖句から続く説教の一部を引用します。
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、
なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、
どうして言えようか。
自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。」
(マタイ 7:1-5)