平等な世界における幸福の思考実験
自分の幸せは、知らない他人の不幸せ。競争率1倍以上の受験をした人間は全員想っておくべきなんじゃないのかしら。
どこかのナイトメアフレームが出てくるアニメではないが、人は生まれながらにして不平等である。
生まれから、遺伝子から別であることは前提にしても、ある意味一種の救いですらある死でさえ生まれた瞬間から余命数週間と宣告される人間もいれば、90歳、認知症になって目の前の相手に盗まれたと恨んだりしながら死ぬ人間もいて、平和な日本ではその死に方も多様化している。
もちろん追い求める理想、幸福が人それぞれであるなど、不平等でもそれぞれに幸せである可能性は人が量子論を応用して壁抜けを生身でできる程度にはあり得るかもしれない。
しかしそれは残念ながら起こっていない。
100年前よりも遥かに生活水準が向上し、法整備が各国で進んでいても未だに不幸は世の中に遍在する。
それらに理由を述べることは簡単だ。国際競争やテロリズム、紛争、果てはインターネットの普及によりより恵まれた人間が存在することが分かってしまうこと、エトセトラ。
さて、人は幸福になりたい生き物である。
幸福の形が何であれ幸福を追い求め、不快を排除し快という感覚を得たい。
その幸福を欲求という側面から分解してみる。
睡眠欲、性欲、食欲の三大欲求を満たしたい、社会的地位を得たい、目標を達成したい、子供と一緒、恋人といっしょにいたい、果ては人を殺したい、人が不幸になる様を見たいなど。
欲求が満たされることで幸福を感じることができる。
何か足りない状態から満たされることで幸福を感じる。
ここで矛盾に気付いた人はいるだろうか。
三大欲求は当然として物欲など際限なく膨らみ続けるものが存在することに。
食べたら無くなる、あるものを買えば次は別のものが欲しくなる。社会的地位を得ればより高い位置が見えてきて、今度はそれが欲しくなる。
後者二つは限度がないし、前者には胃袋の容量という個人の限界が存在するが代わりに美食などが存在する。
人間一人の欲望を叶え続けるだけでも際限がないのにその人間が70億もいて生理的欲求は確実に共通しているのだから、なるほど争いの絶えないわけである。
社会的欲求であっても名声を求める人が多ければ多いほど得られた名声の魅力も高まるというインフレーションがある以上、名誉ある限られた席を巡って争いは形は変われど存在する。
そして争いがある限り勝者と敗者が存在し、優劣が決定される。
ではどんな人間が勝つか?
言うまでもなく正しく才能があり、正しく努力した人間。これにはワイロや裏工作など正々堂々ではない手段も含まれている。レフェリーや有力者を味方につける能力も正しく努力をしなければならないからだ。
さらに勝負事では運が絡むだろうか。
ではもう一つ。
勝つ人間に傾向はあるのか?
残念ながらあることは間違いない。
遅筋や速筋といった筋肉の性質、骨格の性状などの遺伝的要因に大きく左右される運動部門は顕著だろう。
さらに金銭がある方が、正しく努力をするための教師を雇うために高い金額を払えるようになる。
もっと言ってしまえば現代社会においてでも知能や年収が遺伝すると一卵性双生児の研究で言われている。
努力をさせてもらえるという生育環境も含めて考えると、遺伝から生育するまででかなりの成功要因が決定されていることになる。
貧しいために幼い頃からスケートに慣れてこなかった人間がフィギュアスケート選手になれることはほぼ100%ないように、貧富の度合いがある程度同じレベルの人間同士でこそ戦いが起きると言う逆説もまた通じそうではあるが、それもまた戦う前から勝負にすら参加できないで不戦敗になっていると言うことを示している。
話を軽くまとめよう。
箇条書きにするとこうだ。
・人は欲望を叶えることで幸せになることが多いが、欲望は増大する、または尽きないため争いが生じる。
・戦いは生まれた遺伝から生育環境まででかなりの勝利条件が決定されている。
この二点が示すことは、勝ち、優れたと認められた人間、社会的にも物質的にも幸せな人は生まれ、生育環境が決定された瞬間から決まっている傾向にあると言うことだ。能力などにとどまらず見目の良さまで。
それは平等と言えるか?
否。
とほとんどの人は言うだろう。
次に、逆にどのようにして平等かつ幸福を目指すかを考える。
まずは平等の定義から。
先にも述べた通り人は遺伝からして不平等だ。平等といっても“感”、人が同じように平等だと感じられることが必要だ。
ということで不平等だと感じないような調整が必要であると考えられる。例えばコンプレックスを抱く人がその分野で成功した人を見て惨めな感情をずっと抱き続けたままで、幸福と言えるか?幸せな巡り合わせの結果心情に変化があるならまだしも、そのままでは到底幸せとは言えないだろう。
調整の仕方は様々あるが、これについて三点ほど注意しておくべきことがある。
一つ目は生育歴にもよるのだろうが、不平等を殊更に声高に吠える人間は現在社会に一定数いると言うこと。
二つ目は人の注意する対象には限りがあると言うこと。
三つ目は現代の日本の児童がわざわざ小学校の初等教育に感謝することがほとんどないように、平等に設定されたものはいつか当然そこにあるものと見なすようになるということ。
一つ目は言うまでもないだろうが、二つ目は凶悪であるし、三つ目と合わせて考えるとさらに凶悪である。
平等になっていったとしても不平等だと感じるものが少なくなればなるほどその残ったものが喉に引っかかった魚の骨のように気になってくるし、あまつさえ不平等だと感じるものが少なくなれば、不平等を“探す”ことすら起きかねない。不平等を吼えたい人間ならそのインセンティブは十二分にあるが、不平等を見つけてしまった結果それに心が囚われ結果として不幸になることも考えられる。
不平等を感じなくなった瞬間から不幸でなくなって幸せじゃないか、と言う戯言はさておき、更なる幸福追求を考える。
社会という枠組みの中で生きていることを考えた場合の話であり、人と人との繋がりでどのように関わっていくべきかということだ。
先に述べた平等感を保つ行動は前提として、その場にいない陰口を叩き合うことを至上とする人の幸福追求はどうすべきか。答えが出ていない。
ちなみに人々が平等かつ多様に幸福を追求する世界の現実的な方法は筆者の貧弱な脳では巨大通信ネットワークが全て管理していくディストピアしか思いつかなかった。
脳内伝達物質をチャネルとともに調整され、常に幸福ホルモンを分泌するようになった人類か、欲望を身の丈にあった、他人の幸福を邪魔しないようになって幸福の譲り合いが起きる人類。
以後思いつき次第追記予定。
人間はどうせケダモノの一種なので際限なく広がる欲望という地獄から逃げられない。
欲求がある限り、満たされないことで不幸になる。
ならば、最高効率で幸福を追求するならば不幸にならないということが選択肢に挙がる。
即ち、マズローの五段階説における高次元欲求から可能な限り遠ざかること。可能であれば諦めるでなく、自然と身の丈に合ったレベルで満足できるようになることが妥当な幸福追求であると考えられる。
進歩?ああ、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求の産物がどうかした?
陳腐な文明批判が示すように進歩が幸福に必ずしも繋がらないと言うのは事実で、『昔の人は大変だった』なんて言うのはその時代をリアルタイムで生きていない以上詭弁の域を出ない。