新規下書き1
小説の中に閉じ込められていると気がついたのは、私の置かれている状況と私が描写した状況とが一致しているからだった。寝ようとしてベッドに入ったとたん新作のアイデアがひらめき、眠っているあいだに忘れてしまわぬようメモだけでもと、部屋の明かりも点けず端末に向かっている。絵描きがアタリをとるように、私も小説を執筆するときは極力シンプルな情景描写から始め、あとの展開に応じて必要なものを冒頭の文章まで遡り書き加えてゆく。そして今、私が身を置いている暗黒と、眼鏡を照らすディスプレイの光とが、たったいま、まさにそう描写した下書きと完全に同じなのだ。あるいは、今そのように描写したからこうなったのかもしれない。ためしにコーヒーを一杯淹れてみよう。湯気の立つコーヒーが出現した。
書けども書けども閲覧数がふるわず、もしかすると『小説家になりたい!』というアマチュア投稿サイトは読み手にとっても書き手にとっても新聞・雑誌に連載されるような定期更新の長編を楽しむ場で、短編作家はどうあがいても……?と思い始めていた矢先だった。してみれば、この状況は執筆しながら次の展開を考える連載小説に似ている。つまり、私は私が執筆している小説の主人公であり、作家が自由に主人公を取り巻く状況を設定してよいのだ。ならば近頃もてはやされているたぐいの異世界を創造するか?……それはできない。私は端末を使って投稿サイトの編集フォームに入力している。端末は電源コードで家庭用コンセントに接続されており、コンセントは電線から屋外の電柱や鉄塔を何本も経て遠方の発電所につながっている。もしも私が現在の状況を捨てて剣と魔法の世界でも描写しようものなら、発電所が職員ごと消えて端末が機能しなくなり、小説のコントロールを失うことになる。携帯型端末からアクセスし直したとしても同じだ。端末へ電波を送る基地局や人工衛星が存在しなくなり、サーバーと通信できなくなる。何も迂闊に描写してはいけない。慎重にならねば。
この現実が小説だとしても、せっかく現実を思いのままにできるならコーヒーより上等なものがほしい。世界に深刻な不可逆の影響を及ぼさず手に入るものはあるだろうか……そうだ、ヒロインを登場させよう。そして女が登場した。フローリングを踏む靴下の足音が近づいてくる。が、私は振り向くのをためらった。いま女とは書いたが、どんな女かはひとことも描写していないからだ。背後の闇に気配を感じ、ひんやりと冷たい手が両肩に触れた。
「おにいちゃん」女が言った。
いや、言っていない。
「おにいちゃん」
端末に触るな!!
こんな夜中に起きてちゃだめじゃない。もう、ぼくがついていないとおにいちゃんはダメ人間なんだから。おにいちゃんはね、ずっとずーっとぼくとふたりきりでいればいいの。ぜんぶ、ぼくが面倒みてあげる。さあベッドに戻って。なにも心配しなくていいし、お部屋からだって一歩も出なくていい。こんど余計な真似をしたら手足の指が一本ずつ減ってくよ。ついでにうるさい口も塞いであげようか?はい、おにいちゃんはもう喋れません。便利な端末で、今からぼくだけのおにいちゃんになって?
両手首と両足首を手錠でベッドに繋がれているおにいちゃんは、ぼくが二百五十六億三千万年前にジェウァルークの闇狩人だった頃から幾度も幾度もいっしょに転生を繰り返してきた恋人です。知ってる?おにいちゃん、死に別れた恋人は来世で兄妹や姉弟に生まれ変わるんだよ?おにいちゃんとぼくとは運命の糸で固く結ばれていてぜったいに離れられないの。かわいそうなおにいちゃん、幼稚園と小学校と中学校と高校でひどいいじめに遭ったあげく、まともな会社にも就職できずに体を壊して、今では安っぽいファンタジー小説だけが生き甲斐なんだよね?大丈夫だよ、怖い大人達からの電話にもお手紙にもぼくが代わってあげる。おにいちゃんにつらく当たる厳しい世の中から、ぼくが守ってあげる。おにいちゃんは何もかもぼくのいうとおりにして、ぼくがいいと言ったとき以外はベッドから動いちゃダメだよ。まだ起きてたの?寝るまでずっと見張ってるからね。