魔王の娘、解呪する
俺の思考は停止していた。婚姻契約、つまり結婚をしたのだ。
それも、昨晩助けた少女、セーラ・ジ・ギルバード・セラニウム――魔王の娘とである。
あまりにも急展開過ぎて、話を飲み込むことができない。
彼女に契約を結ぶと了承したが、それは通常の魔法契約だと思っていたからである。
だから、思いつきもしない婚姻契約を結ぶなんて寝耳に水でしかないのだ。
俺が何を言えばいいのか、考えをまとめている途中、扉が強く開かれる。
そこには眉を吊り上げ、青の眼に炎を燃やしたラビーニャが立っていた。
「ちょっと兄さん! なんで私に無許可で結婚しているのですか!?」
「ラビーニャ、どこから聞いていたんだ!」
「そんなことはどうでもいいのです! 兄さんは私をお嫁さんにしてくれるんじゃなかったのですか?」
「へ?」
ラビーニャと結婚? それも悪くない選択――って俺たちは家族だった。
いつか嫁に出すことを考えたら気が狂いそうである。
次から次へと出てくる情報に、頭はパンク寸前である。
だけれども、原因となったセーラはひどく落ち着きを払っていて、けろりとした顔でこんなことを言うのだ。
「そうだったのですか? それは悪いことをしてしまいましたわね」
それを聞いてラビーニャの眉の角度はまた上へと向かう。
落ち、落ち着かせなければ! 興奮しすぎると、彼女の体にも悪い。
「いや、そんな約束――」
彼女を宥めようとするものの、言葉は遮られる。
「私が5歳の時に約束しましたよね、兄さん!」
ラビーニャの口調はとても強く、怒りにあふれていた。
セーラへと延びていた彼女の視線がこちらへと変わり、俺は蛇に睨まれた蛙の気持ちになる。
その表情には怒りは現れていない。眉は一瞬にして垂れ下がった。
だけれども、その青の眼だけは、ギラギラと燃えているのである。
「いやそれ11年も前じゃ――」
「しましたよね」
やり取りのたびに、ずいと迫ってくる彼女は最後には笑顔になっていた。
だけれども、そのほほえみの裏側に怒りの化身が潜んでいることを、俺は彼女との付き合いから知っていた。
駄目だ、俺には彼女を止めることができない。
「……あぁ、したかもしれないな」
「私の責任はどう取ってくれるんですか」
目と鼻がくっつきそうな距離にまで近づかれる。
そのまつ毛の長さや、形のいい唇に、俺は思わず顔を背けた。
……それに胸だって当てられている。
そこでようやく、俺たちを引きはがすかのようにセーラが間に入る。
「まぁ、安心してくださいまして。今回の婚姻契約では重婚を容認していますわ」
その発言に、俺はさらに頭が痛くなった。
余計なことを言わないでほしいのだが。
加えて、セーラは肩をすくめながらも言葉を重ねた。
「それに、これは目的のための利害関係での結婚ですわ。気持ちはないのですわ」
「それにしたって、婚姻契約だなんて……。何か言ってくれてもよかっただろう」
「初対面の女に結婚してと言われてすぐにしてくださるお方がいます?」
至極まっとうな意見であった。
だけれども、セーラだって美人である。ラビーニャにしたってそうだが、男たちから見たならば、結婚相手と簡単になりえるのだ。十六歳と少々幼いのは置いておいてだが。
街で募集なんてしたら殺到することになるだろう。
つまり、俺では不似合いなのである。
「まぁ、お前ほどの――」
可愛さなら、と続けようとしたところで殺気を感じる。
首筋がちりちりと焼けるような感覚。おそるおそるそれを確認すると、ラビーニャが青いのか赤いのかわからない顔色をしてそこに立っていた。
その迫力に、髪の毛がうねって見える。
ちらりとセーラの方も盗み見ると、反対に彼女は不敵な笑みを浮かべているのだ。
なにかこう、もっとフォローしてほしいんだが……。
「この女、やはりあの時に、……うっ」
妹がそう呟いたところで、彼女の体の軸がぶれる。ぐらりと揺れるその体を俺はとっさに受け止めた。
「ラビーニャ、無理をするな」
完全に青くなったその顔色を見て、俺は息を漏らす。
彼女は震える手で、俺の腕をつかんでいた。
「私は無理なんて」
どう見たって無理をしている。
足に力が入っていない。腕をつかむ手だって弱弱しい。
唇なんて真っ青だ。
早く、なんとかしてあげたい。
俺はセーラに問いかけた。
「セーラ、彼女の呪いを解いてくれるって条件だったろ?」
「えぇ、忘れておりませんわ」
赤い瞳が炎を灯す。そして魔法陣がその中に投影された。
これが彼女との契約の報酬だ。
魔王の娘の力、信じさせてもらおう。
「妹君をベッドに」
俺はセーラを抱き上げてそっとベッドに倒して見せる。
そして離れようとしたが、彼女の腕がそれを許さなかった。
「ちょっと待ってください、兄さんは私のために婚姻を?」
か細い声で、セーラはこちらを見る。だけれども、俺はそれに答えなかった。
答えることによってセーラに借りを作るような気持ちにさせたくなかった。
元気になったなら何も考えず、普通の人のように過ごしてほしいのだ。
そうなることが俺の願いだった。
だけれども、俺の代わりにセーラが答え始めてしまう。
「そうですわ。初めはわたくしを追い出そうとしておりましたけれど、貴方のことに触れたら快諾でしたわよ」
ラビーニャはふっとほほ笑みを浮かべる。そして、腕をつかんでいた手から力を抜く。いや、抜けたのだろう。
ポーションや聖水を飲ましてもいいが、今は解呪が先決である。
「兄さんはやっぱり優しいです」
「いいから黙っていろ。セーラ始めてくれ」
「えぇ、少し離れておきなさい」
彼女の瞳の中の魔法陣が、契約の時と同じように外へと広がっていく。
今回の場合はベッドからこちらを見ているラビーニャを中心にして、それは光を放つ。
部屋の中には少しの稲光と風が巻き起こっていた。
赤髪の少女は同じ赤の瞳を光らせる。
凛として立つその背中に、確かに風格のようなものを感じた。
言葉として聞こえない言葉が、彼女の唇から漏れるたびに魔法陣は勢いを増す。
バリバリという音が、鼓膜を震わし、俺の心配を加速させる。
もし、これでラビーニャを救えなかったら?
そんな嫌な考えが頭の中から離れなかった。
刹那、風と稲光が最高潮に達した。
それは、彼女が魔術の構成を終えたことを示していた。
セーラは静かに唱える。
「――すべてを消し去れ(リーフィル・グラーティエ)」