魔王の娘、倒れる
夕食を食べた後、セーラは姿を消す。
そして、こっそりと玄関を通り、森へと歩いていく。
俺もこっそりとその後をついていく。
月明かりの中、揺れる煌めく赤は松明だけではない。
ふらふらと歩く彼女ははたから見ても危なっかしく、何度連れ戻そうかと思い悩んだ。
だけれども、セーラの気持ちを考えると、結局のところ止めに入ることはできない。
俺だって、何度ふらふらの状態でクエストに挑んだことだろう。何度、疲弊した体に鞭を打っただろう。
だから、俺は彼女に気持ちを重ねてしまう。
そういえば、こうして彼女のあとをつけるのは二度目になるな。
セーラと出会ってから今日で十日目だった。まだ少ない時間ではあるが、それでも何か感慨深いものがあるのには違いなかった。
森を歩くセーラが行きつく先はやはり訓練場であり、彼女は魔法を唱え始める。
「水よ、水の聖霊よ……」
いつもなら爆風をすぐに上げてしまうセーラであるが、今日は様子が違っていた。
まず、木の陰に隠れている俺にまで聞こえるような声で呪文を唱えたりはしない。
それに、彼女が使っている魔法の種類が違っていた。
俺の皮膚がまとわりつく湿気に気づく。周りを見ると木の葉の表面に露が溜まっていた。
彼女はゆっくりと、詠唱を終え、魔力が向かうべき場所へと手を伸ばす。
そして、叫んだ。
「貫け、『水龍の息吹』」
意志を持った水が彼女の掌に集まり、そして意図をもって大きな岩へと放たれていく。
だけれどもその魔法は、彼女が想定していた以上に質量をもち、そしてはじけてしまうのだった。
水飛沫、そんな優しいものではない。
打ち上げられたそれは、激しい雨となって俺たちへと降りかかる。
その中で、セーラは空を見上げて立ち尽くしていた。
彼女の後姿はやけに切なく、そしてやはり、昔の俺と被って見えるのだ。
だから、声を掛けようと一歩、彼女に向けて歩みだす。
少し距離が近くなったせいか、セーラの声がはっきりと俺に聞こえた。
「なんで……」
その声は震え、弱弱しかった。
「なんでうまくいかないんですの……」
彼女は、戦っていた。
自分自身と、戦っていた。
そして、すぐさまにセーラは詠唱を始めるのだ。
その姿を見て、俺は踏み出した足をもとに戻す。
彼女が限界を超えていることは確かだった。
だけれども、ここで助けてしまうのはセーラのプライドを傷つける行為である。
役に立たないと、自分で言っていたのも、人知れず練習することも、きっと彼女が彼女自身を守る手段の一つなのだ。
だから、俺は見なかったことにしなければならない。
魔法に詳しくない俺が唯一できる手助けなのだ。
しかし、彼女が倒れてしまうのを見たときにはさすがに助けずにはいられなかった。
三度目の魔法に放った時だった。
先ほどよりも魔法は小さく、そして安定していた。
途中までは弾けることもなく、続いていたのだ。
だけれども、セーラの体が大きく揺れて、そして倒れ込んでしまう。
その瞬間に魔法は意志を失い、暴発へと変わるのだった。
何度目かの雨の中、俺は彼女へと駆け寄った。
泥で汚れた彼女の頬は、髪や瞳のように赤く、明らかに限界を超えているのが見て取れた。
懐から極楽鳥の羽をもとに作ったポーションを取り出して、半分を服の上から振りかける。
水の魔法で濡れてしまっている。だから、服の上からかけても問題はない。
「……ウォ、レン?」
「気が付いたか、あんまり無茶してくれるなよ」
背中と膝に手を回し、ゆっくりと彼女を持ち上げる。その体は冷え切っており、俺の腕をつかんだ掌は震えていた。
オーバーワークにもほどがある。このままだと風邪をひいてしまうな。
そう思った俺は訓練場に併設した小屋の中に彼女を下ろし、焚火に火をつけた。
「ポーションだ、飲めるか?」
「あ、ありがとうございますわ」
「礼はいい、それよりもセーラ……」
彼女はとても少ない動作で、ゆっくりと俺からポーションを受け取った。
しかし、セーラはそれを眺めるばかりで、口に運ぼうとはしなかった。
「飲まないのか? もしまだ飲めなさそうなら無理やりにでも口にねじ込むわけになるんだが」
冷えた体にまた液体をかけるわけにはいかない。
だから経口摂取が一番好ましいのだが、さて、どうやって飲ませたらいいのものか。
その方法を考えていると、彼女の頬が赤くなっていく。
「無理やりに、飲ませるなんて、そんな、破廉恥なことを……」
「ん? 顔が赤いな、熱が出てきたか? よくわからんことを言うほどになってるならまずいな……」
そう言って彼女に手を伸ばす。
額に手を当てるためであった。だが、それは途中で受け止められ、下へと降ろされる。
「じ、自分で飲めますわ!」
「そうか、ならいいんだけどさ」
少しずつ、彼女はポーションを口に含む。一気に飲むのはまだ抵抗があるらしく、何度も何度も、時間をかけてセーラはそれを飲み干していく。
味が悪いから飲み辛いのだろうな。しかし、薬など、まずいのが当たり前である。
ポーションは体力の回復に役立つのだ。今は、これを飲んでもらうのが最優先である。
だから、俺は焚火に薪を放り込みながら、彼女が呑み終わるのを待っていた。
火は冷え切った体を温めてくれる。そして服から湿り気が少しだけ消えたころになって、彼女はようやく口を開くのだった。
「怒ります? 黙って練習していたこと」
「怒る?」
「ウォレンに心配をかけてしまいましたから」
彼女の赤い瞳には、光がともっていなかった。それどころか、こちらを向いてさえもいない。
後ろめたい気持ちがあるのだろう。
クエスト明けにラビーニャに叱られた時のことを思い出す。
あの頃の俺が、目の前に座っていた。
俺はあの時の妹の言葉を思い出す。
頑張りすぎないでと、それで倒れてしまっては意味がないでしょ、と彼女は言っていた。
兄さんはバカなんですかとなじられた。
その時の気持ちまでもがまるで蘇ってくるみたいで、俺はそっと頬を緩める。
セーラは顔をこわばらせながら、耳を澄ましていた。