序章
私は机に置いたカップの縁を指で擦っていた。
真夜中、時計の秒針の音だけが部屋に響き、手元から微かに緑茶の匂いが漂ってくる。娘とたった二人で過ごした小さなこの部屋とはかなりの馴染みであるはずなのに、時にふと居心地が悪く感じる時もある。
私に家族は一人娘がいるだけだったが、ついに明日娘は嫁いでいくことが決まった。まだ22歳というのは若い気もするけれど、お相手の方は26歳の立派な社会人だし、娘が大学を卒業するまで待ってくれていたところをみるときちんとした人だと思う。
何より私の元にいても娘は幸せにはなれないのではないかと思っていた。娘の幸せを思えば止める理由は何もない。
「お母さん?」
突然の娘の声に私の体は思わずビクッと反応した。
「お母さん、まだ起きてたの?」
無邪気に笑う娘の顔は昔から何も変わらない。
「なんだか寂しくなってきたのよ」
「ほら、だから言ったじゃん、お母さんを一人残しとくの心配だって」
「大丈夫、すぐに慣れるから」
私は娘に向かって微笑んだ。少し心配そうな娘の目はまだ純粋にキラキラと輝いている。
「お茶いれてあげようか」
「うん、お願い」
時計はすでに2時をまわっていたけれど、すぐに寝るのには惜しかった。せめて最後の二人の夜、のんびり過ごしたい。
「はい」
「ありがとう」
二人の間に沈黙が流れる。風なんて吹いていないけれど、風の壁でもあるかのように二人はあまりにかけ離れたところにいるような気がした。
「ねえ、お母さん。聞きたいことがあるんだけど……」
「何?」
娘は少しの間言葉を選ぶように口を開けたまま固まっていた。
「お父さんの話をしてほしいの」
私の身体中を何かが駆け抜けていったような気がした。体が固くなっているのが自分でも分かる。私はまたカップの縁を指でなぞりはじめた。
「お父さんの話はしたでしょ。あなたが小さいときに死んでしまったって」
「そのことなんだけどね、前から少し不思議には思ってたの」
私は娘の顔が見れなかった。
「それで、お母さんには悪いとは思ったんだけどね、色々調べてみたの。そしたら……」
嫌な汗が背中を伝っていく。
「お父さんの戸籍がなかったの。まるで最初からなかったみたいに」
やっと私がチラリと娘を見ると、純粋な瞳の中に真剣さを宿していた。
「ねえ、お父さんの話をして?一体どういうことなの?」
私の頭の中で、今まで押さえていた様々な記憶が走馬灯のように駆けていく。思い出さないように心にしまいこんでいた記憶……。思い出せば涙が出そうで、胸が締め付けられる、そんな記憶。でも娘に今まで隠してきたことに胸が痛むこともまた事実。それでも娘に嫌な思いをさせてしまうかもしれない、幻滅されてしまうかもしれないと思うと怖い。私も娘のことを除けば忌まわしき記憶であると言える。それでも言わなくてはならないのかもしれない。
「お父さんのことはこれから幸せになるあなたが知るべきことではないかもしれないし、あなたに傷を負わせることになるかもしれないの」
「お母さん、私は大丈夫。私、お母さんが一人で抱え込んでるんじゃないかって心配なの。それに、私ももう自分のことを知るべきだと思うし、その覚悟は出来てる」
ここまで立派な返事が出来る娘を、私は誇りに思える。私一人でも育て方を間違えていなかったと思える。そんな娘には私も真摯に答えなければならない。
「あなたに言われて、私も記憶が鮮明によみがえってきたわ。話せると思う。覚悟は良いのね?」
「うん」
娘に嫌われるかもしれない。それでも思い出してしまった記憶はもう忘れることは出来ないのだ。