1.魔法の国へ
王の間と呼ぶに相応しい、広く静謐な空気に満ちたその部屋で、氷で作られているようにも見える精巧な飾りが施された透明な玉座に、年若き女性が長いステッキを片手に座っていた。ステッキの先端には五角形の立体的な星型が鎮座し、ほたるのように微かな光を灯していた。
金色の髪を垂らし、頭上に金のティアラを戴く女性の顔はどこか険しく、思慮深そうな青い瞳には、語らずとも固い意志が秘められていた。
女性は重々しく口を開いた。
『オヴェロンの闇がすぐそこまで迫っています。今こそ、プリザヴェーラを守る伝説の守護者をお呼びするしか、他に手立てはありません』
『しかし、女王陛下!』
玉座のすぐ傍にひざまずき、甲冑を身に着けた女性が、玉座に座る女性と同じ金色の長髪を一つにくくった姿で、緑色の瞳を女王陛下と呼んだその人へ向けた。
彼女の顔はすぐにでも泣き出してしまいそうなほどに悲痛な表情を浮かべていた。
『…そんなことをしたら、女王陛下のお力が更に削られてしまいます』
女王陛下と呼ばれたその女性は僅かに首を横に振った。
『ケシーニャ。私はじき、長い眠りにつきます。稀代の女王がそうであったように、私もまた闇を退く光がこの国中を覆うまで、目覚めることはできません。私の体は半分、闇に蝕まれているのです。それほど、闇の力は強くなりつつあります。私の力では…もう、防ぎきれないのです。ですから、私が眠りに落ちた後、この世界を悪しき手から守って下さる、守護者が必要なのです。眠りに落ちる前に、私に残された、この僅かな聖力を使って、彼らをこの世界へと呼び戻すのです。いいですか、ケシーニャ。女騎士団の長であるあなたならば、守護者と共にこの世界を再び聖なる力で満たしてくれるでしょう。それがあなたの役目であり、あなたが今ここにいる理由となるのです』
『…女王陛下…』
『さあ、私と共に祈りなさい。……はてしないときを巡り、あちらの世界で長き眠りについた守護者達よ。あなた方の祖国プリザヴェーラの女王である私、アナスタシアが命じます。かの地から、我らが世界へ戻るときが来たのです。さあ、各々に封じられた力を解き放ち、この聖なる地プリザヴェーラへとお戻りなさい!』
女王が立ち上がり、手にするステッキを掲げ、力強く地面へと打ち付けたそのとき、大地の割れるような振動と共に目もくらむような光が弾け、全ては白の世界へと包み込まれた。
*
ピピピ…。枕もとの目覚まし時計がけたたましく鳴り響いている。
「う、うーん…」
起きる時間だと分かっているのに、体はちっとも動いてくれない。昨日の夜更かしがだいぶ効いているようだ。あんな時間まで起きて勉強していたことなんて、今までなかったから、不思議な満足感と疲労感が今、私の体を包んでいる。この気だるい温もりの中にいつまでも浸かっていたい。そう思ったら、目覚まし時計の音もだんだんと遠のいていき、意識はみるみるうちに泥の中へと沈んでいった。
次に覚醒したのは、それから実に三時間後のことだった。
がばり、と勢いよくベッドから起き上がり、今、何時と考えるより先に枕もとの時計をひっつかむ。
「うわあああ、十時半!嘘でしょっ!遅刻!間に合わない!」
はだけた寝間着のまま、自室を飛び出ようとして、慌てて鞄を取りに戻る。そのまま駆け下りるように階段を下りて、リビングに到着すると、壁にかけたハンガーから制服を奪い取って着替える。制服を着替えたら、洗面所に直行し、諸々の朝の支度を数分で済ませて、朝ごはんも食べずに玄関へと急いだ。
「い、今から行けば四時間目の数学には、ぎり間に合う…間に合うはず」
自分に言い聞かせるようにばくばくと跳ねるこの心臓を落ち着かせようと、ローファーに履き替えながら独り言を呟く。玄関の扉に手をかけたところで、はっと思い出したように振り返った。
「パパ、ママ、おはよう。学校、行ってくるね」
誰もいない暗闇へ、もう日課となった朝の挨拶を済ませる。返事がないことは百も承知だが、こうしないと気が済まない。感傷に浸っている暇もなく、急いで家を出て、駅までの道をわき目も降らずに駆け出した。
*
交通事故でパパとママが二人仲良く天国に行ってしまってから、もう一年になる。事故の原因は相手の飲酒運転で、パパとママが乗っていた車に対向車線から信号無視で追突し、加害者も即死だったという。
事故当時の凄惨な現場は、今でも夢に見るほどよく覚えている。車から漏れだしたオイルの匂いと肉の焦げた匂いが混じり合い、鉄臭い匂いがそこら中にぷんぷん漂っていた。絶句した。警察から連絡を受けるより先に近所のおばさんがえらい様子で家に駆けこんできて、そのまま一緒に現場へと駆け付けた。おばさんは震えながらひたすら私の背をさすり続けた。
事故が起きた場所は、家から徒歩五分のところにある、家族で月に一度、夕食を食べに行くファミリーレストランの目の前の交差点だった。
駆け付けた時、パパとママはもうぴくりとも動かなくなっていて、崩れかけた人形みたいに見えた。その後、すぐにけたたましいサイレンを鳴らしてパトカーと救急車が駆け付けると、私も病院へと連れて行かれた。パパとママが生きていないことは、とっくに知っていたが、誰も私にその事実を告げようとはせず「きっと大丈夫」だなんて無責任な言葉をかわりばんこに吐いていた。
気が付けば、葬儀も終わっていて、私は新しいお墓の前で手を合わせていた。事故が起きてからこのときまでの体感時間はほんの一瞬で、あれから既に何週間も経っていたなんて信じられなかった。
一人残された高校生の私は、親戚の家に厄介になるのを断って、今も、三人で暮らしていたあの家に住んでいる。その方が気が楽だし、誰かに迷惑をかけなくて済むから。楽しい思い出の詰まったこの家で、寂しさを紛らわす為にひたすら高校生活に打ち込んでいる。
涙だって、一生分流したし、いつまでもくよくよしていたら、空にいるパパとママを悲しませることになる。事故を知った友人らから、これ以上かわいそうだなんて思われないように、私は前以上に明るく振る舞い、そして、どうにか、クラスでの前向きで明るい元のポジションへと復帰して今に至る。
*
「ま、間に合って」
息を切らして全力疾走しながら、駅までの近道となる住宅街を抜けていく。朝ごはんも食べずに寝起きで走っているからか、胃の奥底からこみあげてきそうな不快感を感じる。だが、ここで休憩なんかしていたら、四時間目のテストに間に合わない。
柄にもなくやる気出して勉強するんじゃなかった。昨晩のことを思い出して、そう思わずにはいられなかった。ちょっとやる気を出して、前日勉強なんかするから、こうなるのだ。初めから潔く諦めれていれば、これほど急いで登校することも、ましてテストの当日に寝坊することもなかったのに。
走りながら、ブレザーの右ポケットが振動している違和感に気付いた。恐らく、春果が連絡してきているのだろう。幼馴染で気の優しい彼女は、高校に入った今も、幼稚園のときと変わらず接してくれる。大事なテストの日に学校に来ない私を心配して、朝から何度も連絡してくれていたに違いない。だが、今は足を止めて、悠長に春果に連絡している時間はない。それよりも、早く駅に着いて電車に乗り、テストに滑り込むことの方がよっぽど重要だ。とはいえ、三時間目と四時間目はどちらも数学続きの授業で、教師はあの石渡だ。たとえ四時間目に間に合ったとしても、ねちねち怒られるに違いない。遅刻の理由によっては、まともにテストを受けさせて貰えない可能性もある。何か、遅刻以外にもっと良い言い訳を考えなくては。そんなことを思いながら、懸命に両手両足を動かす。
そうこうしているうちに、曲がり角のところまできた。あそこを右に曲がれば、もうすぐ、駅だ。駅に着いたら急行に飛び乗って、二つ目の駅で降りれば良い。そこからはまた駆け足だが、駅からは徒歩五分とかからない距離にある。
“これなら間に合う”と確信して、ブロック塀の曲がり角を曲がった瞬間、突然、頭を締め付けるようなキーンという強い耳鳴りが起きた。思わず、その場で足を止める。
「な、なにっ…?」
『戻るのです、守護者よ』
それまで聞こえていたはずの周りの雑音が一切聞こえなくなる。鼓膜がどうにかなってしまいそうな痛みに涙を滲ませると、聞いたこともない声が頭の中に響いた。
『プリザヴェーラへ戻るときが来たのです』
はっきりと、またもう一度。女の人の声が頭の中に直接呼びかけるように語りかけてくる。一体全体、何がどうなっているのか。状況を把握しようにも強くなる痛みと不思議な声が頭の中を占領し、何も考えられない。
「くっ……」
『さあ。思い出して。美しき魔法の息吹く地、プリザヴェーラの記憶を』
「い、痛……っ!」
『目覚めなさい。守護者よ。そして、戻りなさい、我らが祖国プリザヴェーラへ!』
ひと際強く、女性が叫ぶと、一緒に感じていた耳鳴りはいよいよ頭を壊してしまうのではないかと思うくらいに強くなった。もう耐えられない。あまりの痛みに我を忘れて叫んだ瞬間、目の前が閃光に包まれたように真っ白に弾けた。
*
最初に感じたのは心地いい柔らかな感触だった。ベッドに寝かされている、と気付いたのは微睡の中を彷徨い続けてしばらくしてからのことだった。
目を開けると、高い天井が目に入った。あれ。私の部屋ってこんなに天井が高かったっけ、と不思議に思い、何気なく手を伸ばすと、さらさらの手触りのシーツに触れた。指先だけではなく、身体全体がこの感触を知っている。何故、と考えるより先に肌色の自分の身体が視界に飛び込んできた。
「なっ…!」
全裸だ。下着すら身に着けていない。服を着ていないと知り、混乱の境地に達した。
上質なベッドから起き上がり、シーツで上半身を隠しながら辺りを見回す。ここが自分の簡素な部屋ではないことくらい、すぐに分かった。ベッドだって、大人3人が眠れるような特大のサイズだ。部屋の中は、いつかテレビで見たヴェルサイユ宮殿のように豪華な造りをしていた。こういうのって、確か、ロココ調とかいうんだったはず。つまり、どういうことだとパニックになりかけた私に涼やかな声が届いた。
「お目覚めですか」
慌てて、声のした方を見ると、ベッドの真横にすこぶる美形の外国人の女性が跪いた姿勢で、神妙な顔をして私を見上げていた。
「へ…こ、ここは…というか、ど、どなた…あ、わ、わっつゆあねーむ、だっけ」
「私はケシーニャ。ケシーニャ・ドラバルト。女王陛下直属の騎士団の団長をしています」
咄嗟に英語が口から出るも、女性の返答から話している言葉が日本語だと改めて認識し、恥ずかしさで顔が赤く火照った。
一体、どうなっているのだ、と問い詰めたい気持ちと人並み外れた美貌の相手を前にしてどぎまぎし出す自分の気持ちに、私自身が今一番混乱している。
「は、はあ…よろしく…?」
呑気に挨拶を返している場合か、と自分にツッコミたくなるが、どうやら私の頭も正常に働いていないらしい。ここはどこなのだろう。目の前の人はどう見ても外国人なのに何故、日本語を話せるのだろう。あれ、女王陛下っていうことは、ここは日本ですらないのか。そもそも騎士ってどういうこと。色々な疑問が頭の中をものすごい速さで駆け抜けていく。
最後に覚えているのは、駅に向かって走っていたことだ。寝坊して、学校に遅れ、四時間目には間に合わせようと無我夢中で走っていた。だが、曲がり角を曲がったところで激痛に襲われ、変な声が聞こえたと思ったら、意識がぷっつりと途絶え、その先は何も覚えていない。
状況を呑み込めない私に追い打ちをかけるように、目の前の麗人が突拍子もなく言った。
「あなた様がこの国を救って下さる守護者様なのですね。お会いできて、光栄です」
「は、はいいいい?」
目が覚めてから目まぐるしく動いていた私の思考は彼女の一言で急停止した。