//Object *Girl;
大学の図書館。俺は手元のキーボードをタイプする。MacBookAirの13inchの画面に現れるのは英字列。使用している言語はObjective-C。まだ大学でプログラミングの講義は始まってはいないが、かといって3年間、4年間もあるとはいえ、大学の講義内のみで鍛えたコーディングスキルだけで、企業に就職して開発が出来るとは思えない。確かに研修という制度があるかもしれないが、使われる側で終わるのはごめんだ。
「ビルド――駄目か」
通らないコンパイルにイラつく。どこでエラーが叩かれているのか、コンパイルエラー時に現れる行数を見ても全く容量を得ない。
「これだから煩雑な言語仕様を持った言語ってのは……」
そう小さく呟いきながらステップ実行をしようとし、しかしやめた。耳を聞き慣れた音が叩いたからだ。
これはMacBookProのタイピング音。去年Airに変えたが、それまではProを使っていた。隣、の隣を見るとそこには確かにMacBookProのUSキーボードを叩く女性が居た。そして愕然とした、自分以外にUSキーボードを使っている人間が、しかも女性でいることに。確実に彼女はプログラマーか、それに準ずる人間だと判断する。
「――!? この、この感じは」
確かに今彼女はこう叩いたのだ。俺自身も慣れ親しんだタイプ。間違えるはずはない。彼女は今確かにこう叩いた。
「template……メタプログラミング!?」
彼女は小さく叫んだ俺の方へとゆっくりと首を回し、そのメガネ越しにも大きな瞳と目があった。
「貴方も、C++やってるの?」
それが俺と彼女との出会いだった。
「あ、あぁ。今はObjective-Cばかりやっているけれど。高校生の頃はC++ばっかりやっていた。君は?」
「大学に入ってから、C++をやりだした、くらいかな。まだ一年だけど」
それでtemplateだと……? 信じられない学習速度なのではないか。と疑った。
「したら同い年か。何を参考にしてるの?」
「これ」
指を刺されたのは太い本。開かれているのは中程より進んだあたり。背筋に冷たい水をかけられた様なイメージが一瞬だけ頭をよぎる。
「まさか――」
「ストラウストラップのプログラミング入門、読んだことある?」
言葉を飲み込む。そして吐き出す。
「いや、気になってはいたんだけれど――少し読ませてもらっても?」
可能な限り自然に。
「いいわよ。ちょっとまってね」
彼女は細い指を滑らせて栞を挟む。栞には「mikutter」という文字が印字されていた。反応しかけるが、再びぐっと堪える。
「はい。どうぞ」
やはり、プラのカバーがかけられているが、間違いなくストラウストラップその本だ。ざっとめくる。vector、template、GUI等、様々な濃い内容がこの800ページ超に凝縮されているのが十二分に解る。
「すごいな。噂には聞いていたけれど」
メガネに掛かった髪を耳へかける仕草をする。その仕草と立っている俺を見上げるようになる配置故に見える、その小さな起伏にどきりとしてしまうが、平静を装い本を閉じる。
「ありがとう。プログラミングはC++が初めてってこと?」
本を彼女に渡す時、指先が触れる。
「んー、中学生の頃、ちょっとだけHSPに触ってたかな。でも、本当に少しだけ」
なるほど。と頷く。HSP、プログラミングの入門としてはとても適している言語だと思う。
「HSPか、最近メジャーアップデートがあったらしいけれど、よく知らないんだ」
「私も最近は全然触ってないよ」
小さく笑う彼女。そっかそっか、と俺も小さく笑みが溢れる。自分の電算機をチラと見て、まだそこにあることを確認し、ずずっと彼女の隣へと移動させる。
「今何をプログラミングしてるの?」
移動させた後、パタンとMacを閉じる。
「んー、ただ本に書いてるのを書いてるだけさ」
すっと通る声をした彼女は画面へ再び目を移し、瞳に焼き付ける。
「良いね。講義が始まるか、それじゃあまた」
バッグを担ぎ、空いた手でAirを携える。じゃあねーという声を聞きながら、ふと立ち止まる。
「そうだ。名前は?」
振り向いた先に、キーボードから手を離した彼女が微笑む。
「木橋。木橋夕陽。あなたは?」
きばしゆうひ――名前をしっかりと頭に叩き込む。忘れないように。
「史郎。佐々木史郎。じゃあ」
図書館を後にする。別館にある講義室までの道のりを風が凪ぐ。