◆最終話◆
本格的な秋の虚空は天高く映え渡り、頭上に広がるイワシ雲が白々と陽の光に輝いていた。
放課後の校舎は文化祭の準備で慌しかった。
バンドをやる連中のエレキの音や、ジャズバンドを結成した吹奏楽部のサックスの音色が心地よい喧騒となって廊下に響き渡る。イベントを行うクラスでは、その装飾の準備に賑わっていた。
そんな中を潜り抜けるようにして、僕は即行で駅へ向かう。
「あれ、陽彦もう帰るの?」
唯が一階の廊下で声を掛けてきた。
「ほら、アイツあれだから」
そこに一緒にいた信雄が唯に言った。
「ああそうか」彼女は思い出したように
「頑張れ」と手を振ってくれた。
一部の友達は榛菜の事を知っている。彼女の左脚が無い事、そしてこの前の事故で右脚を負傷し、今のリハビリが今後を左右するほど重要だと言う事を。
そんな榛菜を見守る僕を、彼らが見守ってくれているような気がする。
人を思いやる気持ちは連鎖するのだと思った。
昨日、屋上でひとり遠くを見つめる瑞穂の姿を見かけた。僕にはまるで、会話を交わさぬまま別れた親友、橘恭子を想っているような、そんな姿に見えた。
ボタンを掛け違わなければ、恭子も誰かの思いやりに触れられただろうか……いや、きっと今は誰かの思いやりに触れているだろう。
いまの僕には、そう願う事しか出来ない。
毎日通る駅前の銀杏並木も何時の間にか色を変え始めて、確かな季節感を醸し出していた。
榛菜は大部屋に移り、一足先に退院した亜貴は学校帰りに毎日彼女を見舞いに来る。事故の事を知った飯塚も、度々榛菜の病室を訪れていた。
秋夫も一度だけ榛菜を見舞いに来たっけ。
気になるなら何度でも来ればいいのに、彼は僕の携帯にメールで自分の姉の容態を聞いてくる。
まあ、それがアイツらしいと言えばそうかもしれないが。
僕は、バイトの入り時間を一時間遅くして、さらにヒカリのシフトと交代してもらった為、今は週に三日イタ飯屋を休んでいる。
榛菜たちに突っ込んだ車の運転手はその場で逮捕されたが、どうしてハンドル操作を誤ったのかは未だはっきりとは判らないらしい。ノイローゼ状態で、錯乱していたと言う話も聞いた。後に危険運転致死罪で再逮捕されたらしいが、精神鑑定なども行われるそうで、判決が出るには少々時間がかかりそうだ。
「じゃあね」
「うん。またね」
亜貴が元気良く手を振ると、榛菜もそれに応えて手を振り返す。
彼女は何時も僕と入れ替わるように病院を後にする。
この前病院の前で初めて亜貴の彼氏を見かけたけど……それは関知しないでおこう。
「寒くないか?」
「うん」
僕は、夕方に彼女の車椅子を押して院内を散歩するのがほとんど日課だ。いかにも都心の病院らしく、ここには散歩できるような広い庭は無い。
榛菜は精力的にリハビリに励んでいるが、膝の靭帯も損傷していた為まだ自由に歩き回るには時間がかかるそうだ。
それでも、ギブスを外した彼女が日に日に歩けるようになっていく姿には、確かな希望を感じている。
しかし僕は、こうして彼女の車椅子を押して歩くのがちょっぴり楽しい。
何が、と言うのは判らない。
ただ、周囲から注がれる僅かな視線は、僕に快哉とも取れる錯覚を起こさせるのだ。
これは、ある種の独占欲を満たす行為なのかもしれない。
車椅子を押す者と押される者。その関係が何処か特別に感じるのは僕だけなのだろうか。
だから僕は、池袋で飯塚の車椅子を押す榛菜の姿に特別な関係を感じて、嫉妬してしまったのだと思う。
彼女は彼女で、普段は自分で車椅子を自由に走らせているが、僕が押す時は両手をフリーにして任せっきりだ。
もしかして、密かに独占される喜びに浸っているのかもしれない。
「そう言えばさ」
榛菜が後ろにいる僕を見上げた。ショートカットにした黒髪がサラリと揺れる。
「何?」
「池袋を探索する時間、無くなっちゃったね」
「ああ……あれは、もういいよ」
……もういい。彼らに振り回されるのは終わりにしよう。それをいくら追及しようとも、聡史は帰ってこないし、ケンイチと再び笑顔を交わす事も無いのだから。
そして今は、目の前に支えなければいけない人がいるから。
「そう」
榛菜はそう言って頷くと再び僕を見上げて
「ねぇ、あたしたちって、付き合ってるのかな」
「はあ? な、なんだよ急に」
「だって、そう言う言葉ハルくんから聞いた記憶ないし」
「そんなの……そんなの、今更言わなくたって判るだろ」
「判んない」
榛菜は悪戯っぽく笑った。
「た、誕生日」
「えっ?」
「次の誕生日に言ってやるよ」
「えぇ? 半年も先じゃん。しかもハルくん忘れそう」
それでも彼女は楽しみがひとつ増えたような、そんな笑みを浮かべて窓の外を眺めた。
「ねぇ、売店でなんか買おう。もう直ぐ閉まっちゃうよ」
「またぁ」
僕は榛菜の車椅子に寄りかかって笑うと
「入院中に太んなよ」
「失礼な。ちゃんとカロリー使ってますぅ」
僕は肩をすくめると、病棟を繋ぐ通路からロビーを抜けて売店へ向かった。
外来時間の終了した待合ロビーの人影はまばらで、散歩途中の入院患者が長椅子に腰掛けて休んでいたりする。
西の窓から見えた夕映えは、高層ビルの黒い陰に遮られながら静かに紺青へと色を変えて、宵の明星が微かに輝いていた。
「あ、一番星だ」
「金星だろ」
「そうなの?」
「宵の明星は金星さ」
「へぇ、ハルくん変なこと知ってるね」
「別に、変じゃないだろ」
「そうか、あれって金星だったんだ」
榛菜は楽しそうに笑って「明日、亜貴が来たら教えてやろ」
最近僕はふと思う。
小さい頃に絵本やテレビで目にした、樫木で出来たピノキオ。
それは、まだ粗雑な出来だった榛菜の左脚を初めて見た時に、思わず形容してしまった言葉。
確かピノキオには、常に彼を見守り続ける森の妖精か天女がいたはずだ。彼女がそうしたように、僕が榛菜を見守っていくのもいい。
ずっと彼女の傍にいて、この笑顔を見ていたい。
そこには偽善や哀れみなんてひと破片も存在しない。
もちろん僕には、榛菜の左脚を生身に変えてあげる事はできないけれど。
「なあ。ハルたちのボランティアって、俺にもできるかな」
「えっ? どうしたの、急に」
END……