◆第70話◆
ベッドに入っても、その晩は寝つけなかった。
疲れているはずなのに、不安が僕の頭を支配して眠気を追い出してしまう。
医者は元通りに治ると言っていた。骨折ぐらいで歩けなくはならないだろう。最近の医療技術は目まぐるしく進歩しているはずだ。
しかしそう自分に言い聞かせる反面、もしかして、という最悪の事態ばかりが頭を過る。
何処かの神経が断絶していたら……何処かの腱が切れて元に戻らなかったら……目を瞑る度にそんな事ばかりが浮かんでは消え、また浮かぶ。
それは、時に恐怖に変わって僕の中で小さな渦を創り出す。
医者は解っているのだろうか。僕の望む『元通り』というのは、寸分狂いなく元通りだ。普通の健常者なら、後遺症が残ってその足を少しぐらい引きずっても日常生活にさほど支障は無いだろう。
しかし、榛菜は既に片脚が無い。残りの右脚を少しでも引きずってしまうようなら、歩く事が非常に困難になる……
僕はそれがたまらなく怖いのだ。
歩けなくなった彼女を好きでい続ける事ができるのだろうか。今まで通り傍にいてやれるか自信が無くて、弱い自分を知っている僕は、怖かった。
そしてやっぱり、彼女の手を振り解いた時の榛菜の切ない顔が何度もフラッシュバックして、僕の心を鷲掴みにした。
僕は、彼女にとって何時まで特別な人でい続けられるだろうか。
気がつくとカーテンの外は白み始めていたが、何時の間にか眠りに落ちたようだった。
携帯電話の着信音で目が覚めた。
ぼんやりとした視界に映るものは全てが朧で、僕は頭が朦朧としたまま無造作に電話に手を伸ばした。
ほとんど無意識の行動でそれを耳元へ持ってゆく。
「もしもし」
自分でも驚くほどに掠れた声だった。
「あ、里見くん?」
「はい」
「ごめん、まだ寝てた?」
「はあ……いえ、今起きました」
「榛菜、気がついたわよ。術後の状態も今のところ良好だって」
榛菜の母親は早口にそう言って笑った。
僕は深い溜息と共に「よかったぁ」
「これから行きます」
一気に眠気は覚めていた。
「えっ? だってあなた学校……」
僕は電話を切ってベッドから飛び起きると急いで着替え、鞄を持って階下に駆け下りた。
「何よ、朝っぱらから。騒がしい」
母親が父親の食べた食器を洗いながら振り返った。
僕は冷蔵庫からウィダーインゼリーを一つ取り出して、一気に口へ流し込むと
「俺、もう行くから」
そう言って、ヘルメットを抱えて家を飛び出た。
バイクの方が早いだろう。
朝の渋滞車両の間をすり抜けて、前へ前へと出る。
駐車場の隅にバイクを置いて正面玄関を滑り込んで、混み合ったロビーをすり抜けると、病院の階段を駆け上がった。気のせいか、院内の白色が、昨日とは全く別世界のように明るい。
三階の外科病棟に着いてから、一度息をついて気持ちを落ち着けた。
病室のドアをノックすると「どうぞ」と母親の声がした。
僕が静かにドアを開けると、二人の笑顔が出迎えてくれた。
「ほらやっぱり来た」
榛菜は母親に向かってそう言った。
「ずいぶん早くない?」
「きっとバイクで来たのよ」
わけが判らずポカンとする僕に榛菜は
「朝に教えたら、絶対ハルくん学校ザぼって来るから、連絡は午後にしてって言ったのよ」
「だって、ねぇ」
母親の方は苦笑するばかりだ。
僕は大きなギブスに包まれた榛菜の右脚に視線を落とした。
それに気付いた母親は
「一週間でギブスは取るから、リハビリ頑張ってくれって、先生が」
「そうですか」
僕は惜しげもなく安堵の笑みを浮かべた。
「何か飲み物でも買って来るわね」
母親はそう言って立ち上がると、病室を出て行った。僕たちに気を利かせたのかもしれない。
「学校、行くんでしょ」
榛菜が僕を見上げた。
「えっ……うん。どうしようか」
「行きなよ。そのつもりで制服着てきたんでしょ」
僕は慌てて着替えた為、普段の習慣でつい制服に袖を通してきてしまった。
「駅で……」
「駅?」
「昨日の朝は、ごめんな」
「何だ、そんなこと」
「ハルが付いて来れないスピードで立ち去るのは、反則だよな」
「別に気にしないよ。きり無いじゃん」
榛菜は静かな笑顔で僕を見つめると
「大丈夫だよ、何時も普通でいて。普通に怒って、普通に喧嘩して、普通に……一緒に笑って。あたしがハルくんに追いつくから」
そうだ、榛菜は特別扱いを好まない。だから、喧嘩した時はあれでいいのか。あれがごく普通の、自然な行動だから。
「そうだな」
僕はちょっぴりすり傷のある彼女の頬に触れた。
側頭部の怪我を治療する為に、彼女の長い髪は無造作に切られてしまった。
「ハルくんに置いていかれないように、リハビリ頑張らなくちゃ」
榛菜は僕の手に触れて微笑んだ。穏やかで、静かな笑みだった。
「コーヒーでよかった?」
榛菜の母親が病室に戻って来た。
「あら、ラブシーン見逃したかしら」
「朝っぱらから変なこと言わないでよ。お母さんったら」
榛菜は僅かに首を起こして母親を睨んだ。
僕は手渡された缶コーヒーを一気に飲み干すと
「じゃあ俺、学校行ってきます」
「行ってらっしゃい」
二人の女性からそう言われて、ちょっとテレながら部屋を後にした。
ついでだから、亜貴の病室に顔を出して行こうと思った。どうせ一時間目の授業には間に合わない。
腕の怪我が一番酷い亜貴だったが、やはり全身打撲でまだベッドに寝たきりだった。
「あっ、里見くん」
病室の入り口で片手を上げる僕に、傾斜したベッドから彼女が微笑んだ。
向かい側にいたクラスメイトもこちらを振り返ったので、反射的に小さく会釈をすると、彼女も慌てて頭を下げていた。
亜貴は、ベッドサイドに近づく僕を見上げて
「ハルの様子見に来たの?」
「ああ」
「どうだった?」
彼女も、榛菜の意識が戻った事は母親から知らされているらしかった。
「意外と元気だったよ」
「そうだろうね。じゃ無かったら、ここに来ないもんね」
「そんな事ないけど」
亜貴は僕から視線を逸らすと、天井を見上げて
「本当によかった」
そう言って、安堵の息をついた。
「リハビリが大変そうだけどね」
「それは大丈夫だよ」
亜貴は自信に満ちた笑顔でそう言うと
「だって、里見くんが付いてるじゃん」
テレ笑いを浮かべる僕を見て
「あたしも付いてるけど」亜貴がそう付け加えた。
亜貴の目は、少しだけ腫れていた。
もしかして、彼女も昨晩はあまり眠れなかったのかもしれない。もちろんそれは、身体が痛んだせいかも知れないが……
「ていうかさ、里見くん学校サボり?」
「いや、これから」
彼女の声でそれを思い出した僕は、病室の時計をみて
「あっヤバ、もう行かなくちゃ」
◆次回最終話です◆