◆第7話◆
厨房に僕が戻ると、客席は満員で祐介が忙しなく動いていた。これなら榛菜に話しかける暇も無いだろう。
「里見、向こうのテーブルオーダー頼む」
食器を洗おうとした僕に祐介が言ったので、急いで手を拭いてフロアにでた。
祐介が示した奥のテーブルには家族連れらしい客がメニューを眺めていた。
「お待たせしました。ご注文お決まりですか」
僕はそう言いながら、一瞬石のように固まった。
そのテーブルにいたのは、橘恭子だった。
「陽彦?」
彼女の言葉に、両親と妹らしき少女が振り向いて僕を眺めた。
学校ではバイトは禁止ではないものの、申告制になっているし、酒を出す店でのアルバイトはもちろん認められない。
「知り合い?」
母親が彼女に訊いた。
「えっ? ああ、そう。ちょっと知り合い」
彼女は、僕がクラスメイトだとは言わなかった。僕は額を伝う汗を気にしながら微笑み続けて無事にオーダーを取ってきた。
厨房に戻る僕の背中には、恭子の視線が注がれているのが判った。
* * * *
「ちょっと、何時からあそこで働いてるの?」
翌日学校へ行くと、当たり前のように恭子に捕まった。
「いいだろ、何時からだって」
「何言ってるの、あそこお酒も出すでしょ。学校にばれたらどうするの」
「担任が来ない限りばれないだろ」
「もし来たら?」
「アイツの家、赤羽だろ。何で練馬に来るんだよ」
「あそこの店、時々雑誌に載るんだよ」
僕は知らなかった。そんなにメジャーな店だと言う事を……
確かに、個人で小さくやっている割には来店客が異常に多くて、意外とサボる暇もない。それに、わざわざピアノの弾き語りを置けるくらいなのだから、確かに儲かっているのだろう。
「そんなの、その時考えるよ」
僕は、そう言って彼女が掴んだままの腕を振り払った。
立ち去る僕の背中に、彼女は溜息を投げつけた。
夕方バイトに入ると、今日は榛菜が休みだとマスターから聞かされた。
「車のドアに手を挟んだらしい」
「手を?」
「ああ。大した怪我では無いみたいだけど、しばらく鍵盤は弾けないそうだ」
ピアノ演奏の無い店内は、少し前と同じく静かな音楽をオーディオから奏でる。
気がつかなかったが、生で弾くピアノの音色は特別なのだ。人の温もりが直接音に乗って空間に広がるのだ。
だから彼女の弾くピアノは心地良かったのだ。
その心地よさは、Bossのスピーカーを持ってしも再現できない。
「あれ、今日ピアノの娘いないの?」
その日僕は五人のお客に同じ質問を受けた。
ひっそりと佇むアップライトピアノだけが、店の隅で細いライトを浴びていた。
翌日僕は午後の授業を抜け出して、朝乗ってきたバイクで上野へ向かった。彼女に会えるかは判らなかったが、今はこれ以外に方法が見当たらない。
榛菜の家の住所は判らないし、もちろん電話番号だって知らない。
さっき、やたらと携帯電話が鳴っていたが、液晶を見ると聡史だったのでしばらくシカトをしていた。
バイク通りにバイクを止めた時、再び聡史からの着信コールが鳴った。
「何だよさっきから」
鬱陶しそうに出た電話の向こうから聞こえたのは恭子の声だった。
「あんた、何考えてんの? 今日の5時間目古文の小テストでしょ」
「ああ、忘れてた」
「あんた、バカじゃないの」
「うるさいな。何で聡史の携帯からかけてんだよ」
「だって、着信者不明のコールはどうせ取らなかったでしょ」
「今、忙しいから」
「ちょっと、陽彦…」
僕は途中で電話を切ると、携帯電話の電源をOFFにした。
通りのあちこちでは、ぼちぼち榛菜の学校の制服が目に付く。もう下校が始まっているのだろう。
大体帰る道と言うのは、殆ど毎日同じ路地を通るはずだ。僕は、この前会った通りでコーラを飲みながら、榛菜が通るのを待っていた。
蟻が巣穴からあふれ出るように、同じ方角から同じ制服が次々に現れて、時には甲高い笑い声と共に通り過ぎてゆく。
時々違う制服も混じっているが、明らかに違う方向から交差するように通り過ぎて行った。
三時半を過ぎた頃、通りに見覚えのある姿が見えた。
榛菜だ。今日は、一人のようだった。
一人で松葉杖を着いて歩く彼女は、この前にも増して痛々しく、儚げだった。
僕が近づいて行くと、彼女は気がついて右手を大きく振った。
「どうしたの?」
「手を怪我したって」
「ああ、これね」
榛菜は松葉杖を抱える左手を上げて見せた。
人差し指と、中指に包帯が巻かれている。
「あたしドンくさいから」
彼女はそう言って笑った。
「今日は一人?」
「うん。亜貴は歯医者で早退したの」
彼女はキョロキョロと辺りを見回して
「あたしを待ってたの?」
「あ、ああ。いちお」
「あたしがいないと寂しい?」
榛菜は悪戯っぽい笑顔でそう言うと、自分で言って、自分で照れていた。
「うん。寂しい……」
僕の口からは、ついそんな言葉が零れ落ちてしまった。
「えっ?」
彼女は、僕が邪険に返すと思って言ったのだろう。榛菜は一瞬困ったような表情を浮かべた。
「じょ、冗談だよ」
榛菜はそう言って、再び歩き出した。
今気づいたが、松葉杖を使うと、使わない時よりも幾分か歩くペースは早い。
僕自身、どうして咄嗟にあんな返しをしたのかわからない。
もしかして、本当に寂しいのかもしれない。まだ数日間しか聞いていない彼女の引く音色が僕の心に染み込んでしまったのだろうか。
だからこそ、こうして彼女に会いに来たのか。
「俺、バイクなんだけど、乗ってく?」
「えっ、バイク?」
「ああ」
彼女の瞳は好奇心に満ちていた。




