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◆第69話◆

「これから右脚の骨折部位の修復手術に入ります」

 執刀する医師が簡単な説明をする為に、僕たちの前に現れた。

 僕は榛菜の母親より先に口を開いた。

「先生……アイツには、榛菜にはもう右脚しかなんだ。必ず元通りにしてください。残りの脚を奪わないでください」

 僕は今朝の行動を悔やんでいた。榛菜に追いつけない速さで彼女の前から立ち去った自分を後悔していた。

 榛菜の脚が不自由だと判っていながら、健常者の早足にはついて来れない事を知りながら、僕は彼女を振り払う為に禁じ手を使った。

 酷い事をしてしまったと悔いても、自分が許せなかった。

「俺、今朝彼女に酷い事を……」

「里見くん」

 榛菜の母親は僕の腕を掴んだ。

「同じ部位を二ヵ所以上骨折している場合、複雑骨折と言うんです。彼女の場合ひざ下の二箇所、腓骨ひこつ脛骨けいこつの両方が折れてます。」

 目の前の医師は、冷静な口調で言った。

「ひ骨とけい骨?」

「ひざ下は、細い腓骨と太い脛骨の二本の骨で形成されています。普通折れ易いのは細い腓骨の方です。両方折れた場合は複雑骨折と診断されます。しかし必ず元にもどりますよ」

 医師は僕を真剣に見つめると「大丈夫。ちゃんと歩けるようになるから」

 僕は一時的に込み上げる安堵の涙を流していた。それは、隣にいた母親も一緒だったに違いない。

 執刀医は簡単な術式等の説明の後に、準備室へ向かった。榛菜の母親は、看護師に書類を見せられた後、彼女に促されてナースステーションに入って行った。

 僕は蛍光灯の明かりが映り込むリノリウムの床に、独り立ち尽くしていた。

 一瞬の静寂の中で、僕は何を思えばいいのかさえ判らない。

 そこへ亜貴を乗せたストレッチャーが運ばれて来た。

 彼女の意識はしっかりしていて、僕に気付いたらしい。亜貴は右腕をギブスで固定されていた。

 彼女は怪我していない左手で僕の手を掴むと

「ハルは? ハルは何処?」

「今治療中だ」

「ごめんね……ハルを庇う暇がなかったよ……」

 彼女の瞳から涙が溢れて、次々に頬を斜めに伝った。

「大丈夫だよ、榛菜も無事だから安心して」

 僕は両手で亜貴の左手を包み込むように掴んだ。榛菜の右脚の事は言わなかった。

 しかし、彼女は

「ハルの脚がおかしな方向に曲がってたのが見えたの。でもあたしには何も出来なくて……救急車で救護の人の話し声が聞こえたんだよ。ハルの右脚が折れてるって」

 僕の手の中で、亜貴の手に力が入った。

「どうしよう……ハルの右脚も無くなったらどうしよう」

 彼女は興奮して身体を起こそうとしたので、看護師がそれを制した。

「大丈夫。ハルの右脚は無くならない。ちゃんと治るって、さっき医者が説明してくれた」

 そう言って亜貴を励ます僕の目にも、再び涙が込み上げていた。まるで僕自身に言い聞かせている言葉のようだ。

 それでも僕は、亜貴の頭をそっと撫でてあげた。頬と目の上に擦り傷があって痛々しかった。

 僕の病んだこころを抱きしめてくれた彼女を、僕が今癒さなければいけないと思った。

「大丈夫だから。亜貴も自分の怪我を早く治して」

 ゆっくり僕の手を離した亜貴は、病室へ向う為、静かにエレベーターに運ばれて行った。彼女の両親は今やっと着いた様子で、娘を追いかけるようにエレベーターへ乗り込むのが見えた。

 車に直接撥ね飛ばされたのは、榛菜を含めて四人だが、他にも信号待ちしていた人は数人いて、かすり傷などの軽い怪我を負った娘は五人いた。

 車に撥ねられたもう一人のクラスメイトは一番怪我が軽く、頭部と全身の打撲だけで済んだらしい。しかし彼女らとは学年が違うもう一人、一年生の娘は、病院に運ばれてから亡くなったそうだ。

 病院へ来たそれぞれの親たちは、自分たちの娘に起きた突然過ぎる出来事にみな驚愕していた。

 亡くなった娘の両親が泣き崩れる姿は、とても見ていられるものではなかった。僕のいた二階のすぐ傍にICUがあり、そこにその娘がいたからだ。

 廊下に響き渡る母親の号泣さけびが、しばらく耳から離れなかった。





「里見くん。一度家に帰ったら?」

 オペ後に運ばび込まれた榛菜の病室にいた僕に、彼女の母親が声をかけた。

「いえ、大丈夫です」

「お家には連絡したの?」

「いえ……忘れてました」

 僕は俯いたままポツリと言った。

「一度家に帰って、心配なら明日また来なさい。学校終わってからね。何かあったら連絡するから」

 彼女は僕の肩に優しく触れながら言った。

 榛菜は容態が安定するまで個室に入れられていた。麻酔が切れる頃になっても意識は戻らない。バイタルが安定しているので心配するほどではないそうだが、彼女の意識が戻るまでここにいたい気持ちもあった。

 今朝、榛菜の手を振り解いた時に僅かに見えた彼女の不安と悲壮の顔。逸らした視線の片隅に映ったその小さな記憶は、僕の脳裏に焼き付いて離れない。

「俺、今朝ハルとちょっとした喧嘩になって……俺、ハルの歩けないスピードで立ち去ったんです。俺って、酷い奴です」

 僕は奥歯をかみ締めながら呟いた。

「そんな事、ハルは気にしないの知ってるでしょ」

 そう言って僕の肩に両手を添えた母親は話し続けた。

「ハルは脚を失った時、一時的に笑顔を失ったわ」

「ハルが?」

「当然よね。ある日突然片脚が無くなったんですもの。大人だって耐えられない」

 僕はその時初めて榛菜が脚を無くして入院した当時の話を聞いた。彼女に笑顔を分け与えてくれた工藤エリという少女が、既にこの世にいない事も。

 人は簡単に死んでしまう……彼女が言っていたのはきっと、エリの事だったのかもしれない。

「今は、アナタがハルにとって特別な人なのよ。一生傍にいてくれなんて言わないわ。でも、今一緒に居るのは何かの巡り逢わせ、やっぱり素敵な縁なのよ」

 その縁は、些細な喧嘩などで切れるものではない。彼女はそう言いたかったのだと思った。

 僕は、穏やかな呼吸で静かに横たわる榛菜を見つめた。

 その時病室のドアが開いて一人の男性が入って来た。僕が反射的に椅子から立ち上がって頭を下げると、彼も会釈を返してきた。それが榛菜の父親だと言う事は直ぐに判った。

 恰幅かっぷくの良い誠実そうな人だった。

「キミが里見君?」

「あ、はい」

 僕は父親に声を返すと

「じゃあ俺、また明日来てみます」

 母親に向かってそう言った。

「ああ、気にしなくていいよ」

 父親は僕にそう言ったが

「ちょうど一端帰りなさいって、今言ってたところだったのよ」

 母親は僕を部屋の戸口へ促し、笑顔で送り出してくれた。

 やはり父親といるのは息が詰まりそうで、彼はああ言ってくれたが、僕は早々に病室を出てしまった。

 院内は消灯時間も過ぎているので、常夜灯だけがほの暗く廊下を照らしていた。微かな光に照らされた床には、僕の黒い陰だけがゆらゆらと漂う。それはまるで、何処に掴まればいいのか判らなくて浮遊する魂のようだった。

 少し離れた大部屋に亜貴とその友達はいる。

 僕が静かに部屋を覗くと、ベッドは六つ置いて在り、静まり返った夜気の中に複数の微かな吐息だけが響いていた。

 廊下を振り返った僕は、ほの暗い闇の先に在る榛菜の病室辺りを、しばらくの間見つめていた。





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