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◆第68話◆

 朝の電車はまだ蒸し暑さを残していた。相変わらず中年サラリーマンの饐えた臭いと女性の香水が入り混じって悪臭に包まれる。

 池袋の駅で西武線の改札を抜けると、そこには榛菜が立っていた。

「どうしたんだ?」

 彼女は近づく僕を無言で見上げた。

「もう、犯人探しなんてやめて」

「何だよ。別に犯人探しってわけじゃ」

「同じだよ」

「俺の勝手だろう」

 僕は真っ直ぐ見据える榛菜の視線が痛くて目を逸らした。周囲を無造作に見渡すと、行き交う人波の視線がこちらに注がれている事に気付いた。朝っぱらから痴話げんかと思われてるらしい。

「最近のハルくん変だよ」

 榛菜は僕の腕を掴んだ。彼女が本気を意思表示する時の癖だ。

「聡史君の事は気の毒だけど、ハルくんにまで何かあったら……」

「別に何もないさ」

 行き行く人の視線が煩わしくて、僕は余計に苛立ちを露にした。

「人って簡単に死んじゃうんだよ。聡史くんだって……」

「俺が死ぬわけないだろ」

「そんなの判んないじゃない。危ない事は止めなよ」

「うるさいな。しばらくほっといてくれ」

 彼女の腕を振り払って僕は歩き出した。

 榛菜が到底追いつけない速さで。

 一瞬視界の片隅に見えた榛菜の悲しい表情は、今まで見た事の無いものだった。





 空は淀んだ暮色に包まれていた。街路灯が薄っすらと路地を照らして、その二人の男の影を映し出している。

 時折行き交うまばらな人波の中、度々足を止める顧客と二人の男は取引を繰り返す。

 僕は、ポケットに入れた手が触れる冷たいものを確認していた。ずいぶん前にアメ横で買ったジャックナイフ。

 今朝榛菜にあんな事を言われた後だが、知り得るだけの事は知っておきたい。

 心の奥に仕舞ったはずの聡史の影と、一緒に遊んだ頃のケンイチの笑顔が、まだ僕を突き動かすのだ。

 公園を挟んで昨日とは反対の通りに彼らはいた。昨日言った事は本当だったのだ。僕が顧客になることを少しは期待しているのだろうか。

 僕は駅ビルのトイレで、今朝持って来た私服に着替えると、陽が暮れるのを待ってここまで来た。

 今日を逃したら、またあの二人を見失ってしまうような気持ちに追い立てられていた。

 ナイフは護身用。あくまでも身を守る為だ。榛菜が言ったように、聡史の二の舞にならないとも限らない。それは自分でも判っていた。それでも彼らにはもっと訊きたい事がある。

 殺伐とした景色が、咽返すような濁った空気と共にゆっくりと動いて近づいてくる。まるでカメラのレンズ越しに見た風景を、静かにズーミングしているようだ。もちろん、近づいているのは僕自身なのだが……

 後ろを通り過ぎる女性の甲高い笑い声が夕暮れの路地を震わせて、やたらと耳に響いてきた。

 彼らとの距離が縮まるにつれて心臓の鼓動が高鳴り、その振動と音は全身の隅々まで伝わり、僅かに身体の震えを誘発させる。

 昨日に比べても明らかに緊張している。ポケットに入れた両手の平に汗が滲んでいるのが判った。

 それはきっと、彼らがケンイチの事を知っているのだと既に判っているから。そして聡史の事も知っている……いや、殺人そのものに関与しているかもしれない。

 そして僕は、充分に脅えている。これから何が起きるかまったく想像が出来ない恐怖が、僕を支配してゆく。

 さりげなく歩く僕に彼らは目を止めなかった。

 あと三十メートル。着替えた私服とほの暗い闇が、昨日会っている僕を彼らから隠しているのだろう。

 それとも、彼らはいちいち人の顔など覚えていないのかも知れないが。

 その時、ジーンズの尻のポケットの中で、携帯の着信バイブが振動した。

 ……なんだ、こんな時に。

 僕は直ぐ横に在った雑居ビルの入り口に身体を隠すように入り込むと、携帯を取り出して開いた。

 ……『公衆』

 公衆電話からだ。誰だ?

「もしもし」

「ああ、里見くん? よかった連絡ついて」

 榛菜の母親の声だった。彼女は言葉を続けた。

「榛菜が……」

「えっ?」

「下校途中の歩道に車が突っ込んで怪我を……右脚を……」

「右脚?」

 途端に僕の身体が震えた。さっきまでの震えとは全く別のものだ。目の前の景色が急激に遠のいて息が止まりそうだった。いや、過呼吸だったかもしれない。

 彼女にはもう右脚しかない……その右脚を?

 僕は駅に向かって走っていた。

 目の前にいたドラッグ密売の二人組みはもう眼中には無かった。

 山手線に飛び乗って上野まで行くと、彼女達が運び込まれたという病院まで再び走った。

夕闇に行き交う通行人を強引に掻き分ける。

 こんなに走ったのは何時振りだろう。体育の授業でも本気で走った事などここ数年無い。

 僕はその時、いったいどんな表情で走っていたのだろう。周囲の視線が、何事かと僕に注がれているのだけがはっきりと認識できた。きっと、焦燥感と不安を徐に露出して酷い顔だったに違いない。

 亜貴ともう一人のクラスメイトと一緒に大通りを渡ろうと信号待ちをしていた榛菜は、暴走して歩道に乗り上げて来た乗用車になぎ倒された。学年の違うもう一人の娘を含め、合わせて四人がいっぺんに車に撥ねられたと言うのだ。

 僕が院内に入ると、急患用の救護室周辺は騒然としていた。榛菜と同じ高校の制服がうろついているのが直ぐに目についた。

 膝や肘のあちこちにバンソウコウや包帯を巻いて涙を拭う者、そしてしきりに何かを話している娘たちの姿。

 事故当時はちょうど下校時間だった為、その周囲にいて負傷した娘は榛菜たち以外にもいたようだ。

 辺りを見回すが、そこにいるのはみな怪我の軽い連中だった。

「すいません、怪我の重い人は?」

 肩で息をつきながら、近くの看護師を捕まえて訊く。

「二階の処置室へ運ばれましたよ」

 僕は直ぐに階段を駆け上がった。

 二階は一階ほどの慌しさは無く、寧ろ不気味に静まる廊下に、カチャカチャという金属が触れ合う音と、医師や看護師の声があちらこちらから零れるように響いてきた。

 榛菜の母親が通路に立っているのを見つけて駆け寄る。

「榛菜は?」

「右脚の複雑骨折ですって」

「複雑……?」

 それを聞いた瞬間、暗たんとした思いが一瞬頭を駆け巡り、狭窄きょうさく感のある廊下が歪んで見えた。

「これからオペよ」

「これから?」

「頭を打って容態が少し不安定だったから様子を見てたの」

 榛菜は頭にも怪我を負って、その処置を優先したらしい。ちょうどそれが終わって、緊急オペに入る所だった。

 処置室からオペ室へ運ばれる榛菜が、ストレッチャーに乗せられて出てきた。キャスターを引きずる音が廊下に響き渡る。

 頭部からの出血が髪の毛に付着して、顔はエタノールで拭いてもらったようだが、まだ所々に紅い物が残っていた。

 母親はオペ室の前まで彼女を追いかけて見送った。

 僕は今朝見た榛菜の悲しい顔だけが脳裏に蘇えり、その場に立ち尽くしたまま彼女が最後に掴んだ自分の左腕をそっと触っていた。

 『苦労は買ってでもしろ』小さい頃に、誰かに言われた記憶がある。

 学校の先生かそれとも父親か、誰に聞いたのか忘れてしまったが……でも、どうして……何故榛菜にこれ以上の苦悩を与えるのか。

 そんな必要があるのか。

 うっくつした思いだけが、僕の全てを呑み込んだ。

 彼女の笑顔を、僕は再び見る事が出来るだろうか。




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