◆第65話◆
沈黙が流れた。
それは、一瞬のようで永遠のようでもあった。
僕の中に葛藤が無かったと言えば嘘になるだろう。榛菜にばれなければ別にいい。そんな気持ちが込み上げたのも事実だ。
だって、ヒカリは大人の魅力と可愛さの両方をバランスよく兼ね備えている。榛菜にはない、成人した女性の匂いが僕を惑わす。
同じ女性なのに、二つ年上というだけで未知の領域に踏み込むような錯覚。彼女と身体を交えれば大人の世界を垣間見れるような、そんな愚鈍な思考が過る。
二十歳の彼女は、高校生の僕にとって明らかに成人という仕切りを隔てた大人なのだ。
黒いキャミソールのレースの隙間から覗く胸元は、日焼けも取れて白さが目立っていた。
その肌に唇を着けたい欲望は、心の隅で小さく広がる。
……少しくらい他の誰かと経験を増やしても、今時それに罪の意識を感じる事は無い。僕の中で一瞬誰かが囁く。いや、それは自分の声だった。
もし榛菜が知ったら、今度は彼女を苦しめるぞ。頭の中で複数の声が一瞬で飛び交う。
ヒカリは呆然とする僕のシャツのボタンをさり気なく外し始めていた。
ハッと我に帰り、彼女の手を掴むとゆっくり振りほどいた。
「ごめん……俺、不器用でうまく出来ないと思う」
「大丈夫よ、今夜はあたしがリードするから」
「いや、そう言う意味じゃないって」
僕は、彼女の捉え方に思わず笑って立ち上がった。
彼女は行為そのものを、僕が苦手としていると思ったようだ。
「浮気が下手ってことさ」
自分の行動で、再び誰かが傷つく事がやっぱり怖かった。今ここで踏みとどまるのがベストな選択だと思った。
「あっ、ごめん。そう言う意味だったの」
彼女も自分の勘違いに気付いて、酔った頬をより紅潮くすると、思わず笑った。
僕はテーブルのコーラを手にとってグッと喉に流し込むと、気持ちを落ち着かせる為に大きな窓を開けてベランダへ出た。
メンソールのタバコに火をつけて、深く吸い込む。
「あぁあ、いいな。榛菜さん」
ヒカリはベッドからズリ落ちるように、そのまま床にペタリと座ると、溜息混じりで天井を見上げた。
「ご、ごめん……」
思わず僕は、ベランダから呟いた。
半分吸ったタバコを空き缶でもみ消すと、部屋へ戻って床に腰をおろす。
少しテーブルから離れる僕を見てヒカリは
「もう。里見君ったら、無理やり襲ったりしないわよ」
悪戯っぽい笑顔で、僕を睨んだ。
そんな言葉と仕草で、ばつの悪い空気は吹き飛んだように感じた。
ヒカリの元彼は、美容専門学校に通うかなりのイケメンで、他からもかなり羨ましがられたそうだ。それは彼女の自慢でもあり、彼と一緒にいる事でヒカリ自身も優越感を得ていたらしい。
しかし、最後は知り合いの女性にあっさり寝取られ、かなり酷い目にあったという。
「だからって、榛菜さんにも同じ思いをさせようとしたわけじゃないからね」
彼女は慌てるように言った。
「ガードが緩いって言うか、自然体なのよ。里見君って」
「そ、そうかな。俺もいろいろ考えてるんだけど」
「じゃあ、それが表に出にくいのかな」
……そうなのか?
「ごめんね、何だか里見君といると、彼の事忘れていられたから……だから、つい」
彼女は俯いたまま、テーブルの水滴を何気なく指で拭うと
「やっぱり、今日も少し呑みすぎたのかな」
そう言って、自分のグラスにウーロン茶を注ぎ入れた。
一線を越えずに彼女の心を励ます方法は、今の僕には判らなかった。
大人になればなるほど、一線を越える行為で心の隙間を埋めようとしてしまうのかもしれない。
彼女は、本気で誰かを好きになる事が怖いと言った。再び誰かに取られるのが、怖いのだそうだ。
それは言い換えれば、僕を特に好きではないと言う事の証のようで、何だかちょっぴり残念な気持ちになったのは確かだ。
それとも、既に誰かのものなら、初めから取られる心配が無いという事なのだろうか。
「き、気晴らしなら、何時でも付き合うよ。こんど、バイクでお台場でも行く?」
「社交辞令なんて、苦手なくせに」
ヒカリは目を細めて笑った。
「いや、別に社交辞令ってわけじゃ……」
僕は、さっきヒカリの開けたウーロン茶のボトルを手にとって、自分のグラスに注いだ。
「彼女……榛菜さんは左脚が少し不自由なの?」
「えっ? あ、ああ」
少し……あれは少しなのだろうか。彼女は気を使って「少し」と表現したのだろうか。もちろん、その片脚が無い事を、ヒカリは知らない。
「善くなるの?」
「いや、判らない」
……善くはならない。榛菜の脚は一生あのままだ。
「よくなるといいわね」
僕の言葉数の少なさに、ヒカリはそれ以上榛菜の事は質問しなかった。
「俺、そろそろ帰るよ」
僕は時計を見ながら立ち上がった。
深夜の二時を少し回ったところだった。
一緒にエレベーターに乗って一階の駐輪場まで送りに出てきたヒカリは、少し上目遣いで僕を盗み見るように見上げると
「明日からも、今まで通りでいられる?」
彼女は少し不安な笑みを僕に投げかけた。
「ああ。だって、俺ら何も無かったじゃん」
僕は無理にさり気ない口調で返した。
何事も無かったように会話を続けた僕たちだったが、彼女なりに気まずさを感じているようだった。
……キスぐらいはいいだろう。
「そ、そうだよね。無かったよね」
ヒカリは少し引き攣った笑みを浮かべた後、何だかホッと息をついたように見えた。
僕は、彼女の自転車に乗って、夜の帳をゆっくりと家路に向かった。